第13話 「テレ上」未満
高校1年生の寒い冬の夜、二宮麻友は通学用カバンから教科書やノートを取り出し、2日分の私服を畳んで入れた。財布には母の書斎から盗んだ5万円を忍ばせた。
翌朝は母と普段通り朝食をとり、普段通りの会話をするように心がけた。制服姿で家の扉を開け、いつもの時間のバスで駅に向かい、公衆トイレに入り、カバンとダッフルコートをフックにかけて制服を脱ぎ、何度か嘔吐したことのある便器に捨てた。寒さで震えながらカバンから取り出した紺のロングスカートと黒のニットに着替えた後、再びダッフルコートを羽織り、両耳を両手でふさぎ同級生と出会うことのない時間が来るのを個室のなかでひたすら待った。1時間ほどして外に出て、定期券で改札を通り、極力都内へ通学する大学生のように振舞って、電車で南に向かった。
通勤の時間帯を過ぎた比較的席に空きのある電車のなかで、彼女は二宮麻友という姓名を捨て、別の名前の人物になり、18歳の女性に成りすまして働くことを夢想した。
どんな名前を付けられるのか。それとも自分で名乗ってもいいのか。名乗る自由があるのなら、何という名にしようか迷った。どうせなら、引きこもりを連想させる今の名前よりも、明るい名前がいい。桃とか檸檬(れもん)とか、果実名にしてしまうと、どこか田舎臭い。マリアというほど、サディスティックな人間ではないし、何だか後ろめたい。父と見た映画に出てくる女優の名前はと思いだそうとするが、そもそも男優のインパクトが強い映画で、顔が浮かんでこない。
電車は、普段下車する駅の先にある高崎が終点だった。母と2人で何度か来たことがある。乗り越しの清算をして改札外に出て、新宿駅までの切符を自動券売機で購入した。路線はいくつも枝分かれしていた。電光掲示板に表示される電車の行き先を見てもどれに乗るべきか分からない。再び改札を通り、ひとまず車両数の多い電車に乗り、途中でまた同じように乗り換えると、なんとか新宿に着いた。
彼女は新しい名前をツグミとすることを決心した。車窓から「目白」と記された看板が目に留まった時、鳥の名で浮かんだのがツグミだった。現代文の教師が夏休みの推奨図書に挙げた小説のタイトルであった。習い事で忙しかった彼女は結局、その小説を読むことはなかったものの、ツグミが冬に飛来する渡り鳥だと、小学生の頃親しんだ生物図鑑に記されていたのを覚えていた。
ツグミは新宿駅の東側の改札を出て、広場へと向かい、ナンパをされるのを待った。田舎娘だというのは自覚していた。自分の美醜よりもまず働く場所だと、自分に言い聞かせていた。
食事をするのを我慢していたツグミには、男性がすぐに現れた。漆黒のジャケットとパンツを、おそらくブランド品で固め、髪を金髪に染め上げて胸にシルバーアクセサリーを擦らせる細身のやつれた男性、ではなく、目の前にいたのは清潔感のある黒髪をワックスで散り流し、毛先が左右に跳ねながらも浮かれた感じがなく、スーツをトレンチコートで包み紺緑のマフラーを首に巻く若手サラリーマンだった。顔の彫りは深く丸みを帯びた瞼(まぶた)は二重で精力を感じさせ、柔道着を着せれば柔道家になりそうなぐらい、胸板が厚く見えた。
「道でも迷ったの?」
卵の殻を嘴で叩くような男の自然な一言に、ツグミは反応せざるを得ない。
「待ち合わせすっぽかされた」
「ご飯は?」
「まだ」
「おごるよ」
「本当?」
「何が食べたい?」
「え? なんでもいい。任せる」
「ピザは?」
「いいよ」
地下街の入口に足を向ける男を見上げながらツグミは歩き出した。フリーランチは世の中には存在しない。これから自分はいくらで値付けされるのか。その後、どのような仕打ちが待っているのか。考えると一瞬ぞっとしたが、引き返せない。
ホテルに連れていかれたら、ホテル代は男に負担させるとして、問題は内容だ。体育会系の匂いがするので、素直にセックスを求めてきそうではあったが、変態だと困る。いや、これから自分は本当にセックスをするのか。相手はこの人になるのか。男の話に相槌を打ちながら、時々やってくる初対面の人間同士特有の沈黙の間に、ツグミは生存のための戦略を練っていた。
セックスを求められたら処女だということを素直に伝えて、プレミアムを付けて5万円を要求しよう。変態的だと感じる行為はひとつにつき1万から3万円。殺されそうになったら、別に殺されてもいいかも。でも痛いことは痛いって言うことにする。あと画像とか動画の撮影もNG。避妊はマスト。行為が一通り終わったら、たとえ身体に痛みがあったとしてもシャワーを浴びて、すぐに部屋を出る。出た後のことは出た後で考えること。
男は本当にサラリーマンだった。本当にピザを食べる店にツグミを連れていった。
「可愛いね。色も白いし」
「あんまり運動好きじゃないから」
「出身は?」
「埼玉の奥の方。田舎でしょ? そう、何て呼べばいいの?」
「どうしようかな。お兄ちゃんでいい?」
「わかった。お兄ちゃん。あたしはツグミ」
「渡り鳥だね。それに雑食」
「お兄ちゃん、どんなお仕事しているの?」
「不動産関係」
社会を知らないツグミは、不動産といえば、テレビ広告で目にする賃貸アパートの仲介をする会社しか知らない。
「じゃあお部屋ちょうだい」
「そういうのじゃなんだな」
妹の知的水準に合わせるように、兄はツグミに言った。
「安く買った馬鹿みたいに大きなビルをお金持ちに高く売る仕事なんだよ」
「そんなのを買えるなんてお兄ちゃんおカネ持ちね」
「俺のじゃないよ。会社のおカネというか……。まあ仕事のことはいいよ。それより、ツグミちゃんはいくら?」
兄妹のロールプレイングは突然終わり、希望小売価格の提示を求められたことに気付いたツグミの表情が引きつった。
「処女だけど」
「あ、そう…。ごめん俺、血をみるのだめなんだ」
男は胸ポケットの財布のから1000円札を2枚取り出し、テーブルに置いて、じゃあ、と言って去っていった。レジでおつりを手にした時、ツグミは戦略通りにはいかなかったけれども、報酬を受け取ったのは結果オーライ、と素直に喜ぶ半面、僅かな時間であれ兄を得たことを不思議に思った。どうせなら一緒にホテルではなく映画館に行きたかった。お兄ちゃんと言った口腔内には、温かみのある余韻が残っていた。
地下街を漫然と歩き、出口を見つけ、地上に出た。寒空の下、誰もかれもが首をすぼめて歩いている。駅に向かう人の流れにの中で無言で、手を差し伸べて何かを渡そうとしている人間がいた。女性を選んで、ティッシュを配っている。
ツグミは大人たちのさりげなさを自分なりに真似をして、ティッシュを受け取り、公衆電話を探し、紙切れに印刷された番号に電話をしてみた。電話に出たハイテンションの男性には、借金が払えず栃木から逃げてきたと話し、新宿であればすぐに面接に行けると話した。
面接会場は、公衆電話の地点から目と鼻の先にある古めかしい雑居ビルの5階にあった。赤く塗装された鉄製扉の向こうから、ひっきりなしに電話の呼び出し音が鳴り、それに合わせて発声練習のような甲高い声で男が応答するのが聞こえた。インターフォンで名前を告げると、扉が開き、目の死んだ肥満体の男性が現れ、すぐ脇の流しのある部屋に案内された。肥満男は廊下の奥にある部屋に向かって、「えーテレ中。テレ上まではいかない」と大声で言った。
インターネットではなく、電話で直接、切羽詰まった状況で来た女性を総じてテレと言い、美醜に応じて上中下がある。かつてテレホンクラブを多用する男性らが活用していたスラングを、この事務所では別の意味で使っている。
肥満体の男が去り、冬なのに半袖のラガーマンシャツを着た短髪の男が現れた。大柄だが先ほどの男よりは健康的にみえた。ツグミは借金はどこからなのか、いくらなのかなど、面接に至った事情を話さなければならないと考えていたが、ラガーマンは単刀直入にいくらほしいのか尋ねた。ツグミは相場を知らない。
「いくらならいいんですか?」と聞くと、変わった子だなあと言い、背を後ろに反らし、ツグミの体躯を上から下まで嘗め回すように見た。
「高校生だよね?」
「18歳です」
「知ってて派遣したら捕まる可能性があるんだけど」
「本当に18歳なんです。なんでもいいから働きたいんです」
ラガーマンは頭を抱え、世の中悲惨だなあ、でもなあ、うんうん、だよな、と一人つぶやき、数秒ほど経ってから、意を決したように言った。
「本当になんでもいいの? 考えはあるんだけど」
「はい」
「正直ね、年を越せるかわからないんだ今。そんなことはまあいい。色白だから中国かな。マッサージはどう?」
事務所は資金繰りが悪化し、筋の悪い業者から高金利で融資を受けていた。利息だけを支払い何とかやり過ごしていたが、業績が回復する兆しは一向にみえなかった。
一方、事務所の得意先の個室マッサージ店では、教育の厳しさゆえ、従業員の多くが別の店に移籍するというアクシデントがあった。店のオーナーは事務所に、1週間で人材を5人派遣した場合、インセンティブを支払うことと、低利で借り換えできるように知人の貸金屋に口利きをすることを約束していた。
「中国人になれとまでは言わないけど、適当に片言になったり、無言になったりすれば大丈夫だと思う。一応本番NGの店。できそう?」
ツグミは首を縦に振った。
「じゃあ練習してみようか。イラシャイマセ」
「イラシャイマセ」
「オニサン、ココキモチイイ?」
「オニサン、ココキモチイ?」
「上手いじゃん」
ラガーマンはコートに腕を通し、帽子を被ると、ツグミにおいで、と言い、外に出てタクシーを捕まえ、運転手に上石神井まで行ってほしいと伝えた。寒空から雪がちらつき始めていた。
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