第12話 バーボンは空になった

 「……」


 賃貸マンションの一室で二宮麻友はベッドのうえでタオルケットにくるまっていた。


 一睡もできずに夜を明かし、午前7時を過ぎても眠れない。コンビニエンスストアで購入したバーボンを生で久しぶりに飲んだ。飲まずにはいられなかった。


 初めて睡眠薬を処方されたのは高校1年生の頃だ。不眠の症状に苦しむことはなくなり、今は薬に頼ることはなくなったものの、時に感情をコントロールできなくなる自分が現れることがある。


 なんだかんだ言って、川本の自己本位な姿勢はやっぱり幻滅するし、川本に頼る山崎の存在も気色悪い。山崎の競争相手だと意識したくなくても意識してしまう自分が許せない。いや、ユーチューバーという浮かれた職業自体が汚らわしい。早く身を引き、新しい世界に飛び込みたい。


 母に電話を掛けたらもう負けだからと、思いとどめようとする別の自分がいる。なのにふと、自分が紹介した女性と山崎が幸せになれるならいいじゃないかとの考えも浮かんでくる。でも、だからといって自分が報われないことは筋が通らないと、すぐに打ち消す。悲痛な胸の内と怒りを向ける対象もなく、こんな苦しみが続くのなら、睡眠薬を飲んで眠りに着こうと考える。キッチンの流しの上の収納に置いた菓子箱のなかにある余ったのを、飲めば楽になるじゃないかと囁く自分に対し、あの薬の副作用がどれほど自分の肉体に厳しいものだったか思い出せと諭す自分がいる。堂々巡りでまとまらない。次第に世の中を呪いたい気分になり、昨夕のよりもエネルギーが一段と高まった雷が、東京のあらゆる場所に落ち、竜巻が縦横無尽にビルというビルをなぎ倒し、交通網が大混乱して経済活動がストップしてくれないかと願った。コップに入ったバーボンをもう一度喉の奥に詰め込んでみる。答えは出ない。


 自然災害が起きますようにと祈ったところで、仮に実現したとしても、川本みたいな存在が被害を受けなければ、意味のない行為だろう。彼女を窮地に貶めて、本来は自分とくっつくべきの山崎を救わなければならない。2人のユーチューバーが、それも同じジャンルに属する動画を投稿するものの片方が鹿に襲われ、邂逅するなんて、天文学的にみても確率が極めて低い話だし、偶然にもほどがある。神様の賜物なのかもしれない。川本と山崎を引き合わせてしまった自分は、神様の賜物を無為にしかねない行為の責任をとる必要すらありそうだ。 


 でもどうやって? 


 そこまで考えた時、麻友は漠然と、自分に精神衛生上の安全装置が付けられているような感覚がした。今の仕事を辞めたとしても、母を頼れば経済的な不安に苛まれずに済む。今の自分が、新たな狂気を身に着けるのは難しい。結局のところは流れに任せるしかないのだ。


 「……」


 マットレスに口をあてがい、叫んでみる。バーボンはすでに空になった。


 「……」


 目に涙があふれてきた。自分は圧倒的に孤独で、無力なのだと改めて気づかされた。


 食欲はなくても、気を紛らわしたい。部屋着のフリースを脱ぎ、ジーンズを履き、部屋干ししたTシャツを着て、簡単にメイクをした。マンションから往来に出ると、直射日光に目がくらみそうになった。


 最寄りのコンビニエンスストアまで、ふらつきながら歩いていき、店内でバーボンを手にした時、下腹部の圧が強まるのを感じ、ワックスで磨いたばかりの床に吐瀉物を散らした。中年の女性店員が駆け付けた頃、彼女は気を失い床に倒れこんだ。


 救急病院で二宮麻友は急性アルコール中毒だと診断され、点滴を受けることとなった。診察室の隣の部屋のベッドで横たわっていると、乳児の泣き声が病院の待合室から響いていた。天井を見つめながら、横に父の亡霊がいたら、慰めてほしいと思った。彼女は父が生きているのか死んでいるのか知らない。死んでいたらの話だ。


 5年以上前、大学に入った頃、文化系のサークルが集まる建物の3階に向かい、映画研究会のドアをノックした。ドアを開けて目が合った人物にもし、好きな映画は何かと聞かれたら「シービスケット」と答え、センスがない人間だと思われたらそっと身を引こうと決めていた。時間割の表が朝から夕方まで授業と実習で隙間なく埋まる短大の2年間は忙しく、学業とは関係のないところでの人間関係は築けなかった。京都の大学に編入学してまずやりたかったのが、サークルへの入会だった。


 運動神経に自信がなかった。文化系ならばどこでもいいと探し回った。自分の感性を磨くうえで役には立つだろうと、極めて安直に考えていた。映画に特段、造詣が深いわけではなく、鑑賞した作品が多い訳ではない。それでも映画館で観たいくつかの作品は鮮明に覚えている。


 シービスケットは、小学生の頃、競馬好きの父と2人で観た最初で最後の映画だった。気性に難がある競走馬と、心に傷を負った馬主と調教師、騎手が再生するアメリカ映画だ。映画鑑賞後に本物の競馬場に連れて行ってくれたことも忘れられない。


 父がギャンブルに興じるのを母は心底嫌がっていた。その日、映画の内容や、行った場所について母に内緒にすることを約束してほしい、と父は少女の耳にささやいた。母方の祖父が立ち上げた法人の後継者含みで婿養子になった父は県外の人間で、そもそも恋愛結婚ではない。相談相手はなく肩身の狭い思いをしていたのを子どもの麻友は感じ取っていた。


 70を超えたら理事長の座を降りると周囲に宣言していた祖父が、71になっても理事長にとどまると、父の面子は潰れた。映画鑑賞の時期は、次の理事長の座を巡って、喧々諤々の議論があった頃だ。父が二宮姓を名乗らなくなるのは時間の問題でもあった。


 母は離婚した父との面会を許さなかった。短大の時に知ったが、法人名義で自分専用の口座を作り、許可なく借金をしていたらしい。母との2人暮らしが始まると、日常が無味乾燥なものになったということだ。優秀な後継者と出会う素養を身に着けさせる目的で、週3回の習い事がいつの間にか週5回に増え、女性の家庭教師が土曜にやってきた。


 外出には自動車が欠かせず、休みの日に子どもが一人でバスや電車を利用すると、問題児との疑いを掛けられる心配がある地域だ。日曜日は休みではなく、母と行動を共にともにすることが明文化されていなくても義務付けられ、母と似た種族の人間の子ども達と、その年齢にふさわしいとされる話題や遊びに付き合わされ、映画館からは足が遠のいていった。


 エスカレーター式の女子中高一貫校に入ると、行動様式への制限が一段と強く掛かった。他校の男子との交際をほのめかす同級生を、成績が優秀で運動神経もよく、模範的な生徒と評された別の同級生を疎外しようとした。


 気づくと教室は模範生、準模範生、オール3組、劣等生という枝に分かれ、房を形成していた。麻友はオール3組に属していた。入学時は理科が大好きだった。しかし生殖に関する授業の後、《雄の生殖細胞と雌の生殖細胞の核の合体をなんと言うか》などと問う小テストで、自分よりも成績のいいある同級生が一人だけ満点を取った後、掃除の時間に「C子、受精って叫びながらオナニーしているらしいよ」と、彼女と仲のよかった同級生らが話し合っているのを耳にし、どんな教科であれ、学業で周囲に意外感を与えないように気を付けるようになった。


 男子の交際をほのめかした女子も、C子もやがて学校から姿を消すこととなったが、それは決して他人事ではなかった。二宮直子は教育面での配慮から、麻友が携帯電話を所有するのを認めなかった。ところが教育よりも、子ども同士の人間関係を重視する保護者は意外に多く、企業が大々的に宣伝活動を行ったことも作用し、スマートフォンは徐々に校内を侵食していった。オール3組にあっても、防菌処理を施された彼女は、周囲の話題に追従することが難しくなった。共通言語を持たない存在に対し、同級生らはあらぬ噂を掻き立て、やがて麻友は普段と同じような正常な行動をとれないまでになった。


 《麻友のお母さん、昔不倫して、それでお父さん逃げていったんだって》

 《うそ、教育熱心なのに偽善者じゃん》

 《麻友の元お父さん、オヤジなのに東京でホストやっているらしいよ》

 《麻友もさ、水商売いくんじゃない》

 《ソープとか? やばいなんか似合う》

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