第11話 馬刺2

 タクシーが動き出すと、後部座席にいる理事長の二宮直子に、助手席に座る秘書室長の能田のうだは、明日以降の予定の確認をしようと声を掛けた。


 日曜日早朝に榛名山のふもとのゴルフ場で、厚生労働省所管の外郭団体幹部とラウンドを共にする。制作会社が前夜式ではなく葬儀に来ると言えばキャンセルできたのにとぼやきながら、このところスケジュールがタイトだったので、明日はゆっくりお休みになってください、と言う。


 彼女は、時間が空くのなら葬儀に出てもいいのではないかと言った。すると能田は、通夜も告別式も参加する企業のトップなんていません、暇な人間かと思われたら誰も相手にしてくれなくなります、と食ってかかり、携帯電話を取り出した。会員制健康クラブが用意する半日ドッグの空き状況を確認しようとする秘書の行為を、理事長はたまらず遮った。


 実際に疲れを感じていたのは確かだった。立場のある自分がしゃしゃり出るのは、精神面で不必要な疲労を相手に与えかねないと思い直し、今晩は温泉につかり、明日は移動後、何もせずにゆっくりと眠ろうと決めた。


 タクシー運転手が指差すあたりには、アジア各国の国旗に店名を表記した飲食店の看板が至る所にあった。この温泉街に、小山内スミフの母がスナックを構えている。


 ホテルに着いたのは午後8時だった。


 チェックインを済ませた後、和食レストランに従業員らを集め、お腹を空かせた我が子にやるような目で、好きなものを注文するようにと直子は言った。奈良から遠路やってきた従業員の一人は、遠慮がちな素振りをみせて思案していたが、欲には抗えず、甲州牛の陶板焼きが付いた「松」のセットに指を置いた。能田は馬刺しを一人ずつ頼まないかと言った。


 「山梨の人間は馬刺しをよく食べるんです。『甲斐の黒駒』と言いますし、昔から馬と縁のある土地なんです」

 「聖徳太子に送られはった馬やね」


 給仕の女性の説明を受けて、奈良で生まれ育った施設長の向井がすぐに応じた。


 厩(うまや)の御子の生涯は県民の常識だと国文科出身の向井が言うと、同郷の部下が、それは言い過ぎだと抗う。まるで家族の団らんのような応酬だった。


 前夜式で味わった苦痛を少しでも和らげたいという思いはみな同じで、故人の名を口にするのが憚れるような空気が漂っていた。一同は飲酒を控えている直子を除き、ビールやワインなど、思い思いの酒を注文し、喉に流し込んだ。


 能田や人事経理部長の時村は熱心に、社員が語る施設の現状と課題について耳を傾けていた。直子は、自分の子どもが、すでにそこにいるような気がした。反りが合わなかった元夫と、連絡しても無視をする娘とともにしたかつての夕食に、漂っていてほしかった空気があった。


 夕食後、能田と時村は、社会見学だといい、スナック街に消えようとしていた。


 《なんかさっきから引っかかっていることあるんですけど、ああ忘れてしもた。酔っぱらいました》


 千鳥足気味の向井と彼の部下は、明日の葬儀にも参列するといい、それぞれの部屋に足を運んだ。向井にアルコール依存症の疑いがあると報告を受けていたのを時村は思い出し、不祥事の発生を恐れ、向井が社会見学に同行するのをきっぱりと拒否した。


 理事長にあてがわれたのは、個室の露天風呂に自由に行き来できる部屋である。


 澄んだ夜空に覆われて湯を愉しむのもよかったが、感情が大きく振幅したせいか、血圧がいつもよりまして高くなっているように感じ、処方された薬を服用した。


 ベッドに身体を委ねるうちに、横に誰もいない、やはり孤独な自分がいるのを感じた。


 娘は今頃、どのような世界を見ているのだろう。自分のように空しく、ひとりでベッドに伏せてはいないだろうか。温泉街を2人で旅行する未来はあるのか。娘とワイナリー見学に行く自分を想像しながら、眠りに沈んだ。


 翌朝、目を覚ます頃には、太陽は東の空の真ん中あたりまで上っていた。


 温泉の効能を堪能できなかったのを少しだけ惜しみながら、向井をはじめ奈良の施設で働く従業員らに別れを告げ、能田が手配したタクシーに乗り、東京方面への特急が停車する駅に向かった。


 能田の髪はジェルで素早く塗り固められ、時村の髪は寝ぐせだらけだった。2人は一切目を合わせようとせず、口も聞かなかった。


 「昨日は遅くまで飲んだの?」


 たまらず直子は2人に聞いたが、黙ったままだ。


 「一体どうしたの、喧嘩でもしたの?」

 「……いや、大丈夫です。しっかり仕事しますから。安心なさってください」


 時村の表情が、直子には気掛かりだった。


 特急の到着までに空いた時間で、3人は駅前の土産屋に足を運んだ。深酒をしたにもかかわらず、能田は赤、白、ロゼの3種類のワインを買い物籠に入れ、帰りの電車のなかでどれか呑みましょうと直子に言った。


 いずれの特急電車も新宿を終点とする時間帯だった。東京駅から新幹線を使うには、一度在来線に乗り換えなければならない。


 新宿までの1時間半、能田は再び眠り、時村はスマートフォンでゲームをし、理事長は読書して過ごした。


 山林の緑が住宅街に変わり、マンションやオフィスビルが目立つようになる。娘がいる街だ。大人の付き合いができる男性と、ちゃんと巡り合えたのかしらと考えているうちに、新宿に着く。


 時村は買い物をしたいと言い、直子に別れを告げた。


 電車を乗り継いで東京駅に出ると、新潟方面の新幹線は信号故障がありダイヤが乱れているとのアナウンスが耳に入ってきた。午後1時台の車両は、当初の予定を15分遅れて、東京駅を出発する予定である。


 停車中の新幹線の窓側に直子が着席すると、能田は早速、赤、白、ロゼのどれがいいかと尋ねた。恋人を母に見立て、甘えようとする男子高校生のようだった。断ってしまえば、多忙な秘書も気が休まらないだろうと思い、口だけ付けることにした。奥様の好みに合わないのにしたいというと、どれも好きだが強いて言えばロゼだろう、という。


 土産屋で購入した紙コップに注ぎこまれるロゼは、新幹線に愛称を与えた鳥の腹部のような柔らかい赤味を帯びていた。

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