第9話 不適切で、一方的な質問

 ホテルの自動ドアから往来に出ると、川本千夏は周囲を見渡した。マンションやビルに挟まれた一方通行の車道には、アウディやBMV、メルセデスベンツのエンブレムを付けたセダンが数台、駐車している。


 早朝だからか、このあたりは取り締りが緩いからなのか、いずれも車内には誰もいない。


 人の気配が感じられないことに、胸を撫でおろしている自分を哀れに感じた。用心棒となる人間はいない。視界に背の高い女性が現れることを、内面ではやはり恐れていた。弱気な自分を消してしまいたいと思い、駅に向かう道を歩きながら、ヨガ教室で習った腹式呼吸を何度か繰り返した。


 脳は活動的になり、様々な考えが浮かんでは消えるようになる。アスパの脅しがなく、山崎に体力があったなら、きっと昨晩、自分は身体を預けていたに違いない。彼が言うほど体臭は気にならなかったし、もっと鼻を付く臭いを放つ人間とセックスしたことが過去にはあった。努力でいかようにも絞ることのできる体躯は、重要な要素ではない。付き合っていた事実をインターネットに公表すると脅せるような狡猾さは感じられず、自分を受け入れてくれる懐の深さがあるのは有難いと思った。そもそも男性の肉の新しい質感を腹部に感じたままでは、最終面接に意識を集中させるのは難しいだろう。


 朝食は新橋周辺のファーストフードで摂ることに決めた。ジャケットの胸ポケットからスマートフォンを取り出し、電車のなかでニュースを斜め読みし、頭に叩き込む。


 念のためと、事務所が用意した想定問答集にも目を通した。ファーストフード店のトイレで自分の姿を入念に確認し、指定された時刻の10分前に控室に滑り込む。川本以外の人間はない。高層階の晴天に生える東京タワーが彼女を見つめている。これまでの現場で胆力は鍛えられたはずだと自分に言い聞かせ、名前が呼ばれるのを待った。


 白髪で恰幅のある、顔がゴルフ焼けした男性は川本に着席を求めた後、一方的に話を始めた。左側に光沢のある整髪剤を付けた丸眼鏡の男性と、右側に胃腸の弱そうな、猫背で色白の男性が座っていた。中心にいる人物の腰巾着みたいな存在なのか、彼らは言葉を発しなかった。


 ご出身は高知県ですか。ご両親は今でも健在なんですか。いや、あんまり家庭構成について聞くのは適切じゃないかもしれないけど、親の家業だの、自営業だの、そういうので突然実家に帰る人がいたんだよ。それに申し訳ないけど、そういう心配はないと考えて大丈夫?


 「支障はありません。父はまだ高知で銀行員として勤務をしていますが、老後の心配は掛けないからやりたいことをやるようにと励ま…」


 そうかあ。うんうん。高知に戻っても仕事少ないだろうしね。これも不適切な質問かもしれないけど、契約期間中に結婚する予定はない? いや、実際そういう人がいたんだよ。突然抜けられると、大変だからさ。


 「そういう相手と残念ながらまだ巡りあっておりません。与えられた業務に全身全…」


 ならいいね。ほかに質問したいことってみんなある? ないね。お疲れさまでした。話はほとんどついていますから、事務所からの連絡待っててください。ここではまだ確約できないけど、一緒に働くことになったらよろしくね。


 はい、いいえと事実だけ言って済む面接なら、楽なのだろうなと川本は振り返りながら、川本は比重の小さな言語が飛び交う放送局の入るビルを出た。忙しいなかにあっても丁寧なコミュニケーションをするのが、この業界のプロフェッショナルの姿勢なのにと、落胆する自分の想いを山崎と分かち合いたかった。


 いや。理想と現実は分けて語らねば。


 現実で起きたことの一つに、話はついているから、とのゴルフ焼けの男の一言がある。反芻すると胸が弾んだ。この高ぶる感情の方を、先に共有すべきだろう。いやいや。結果が出るまで平然としていよう。彼には、緊張したけどやれることはやった、と伝えて、期待も失望もさせないようにしよう。


 川本は山手線を1周した。何も考えない時間が、普段の生きた自分を実感させた。在来線で群馬に帰ってもよかったが、この日の夜は出勤で時間に余裕が欲しかった。


 上越・北陸新幹線は信号故障があり、ダイヤが乱れていた。15分遅れて東京駅を発車した各駅に停車する新潟行きに乗る。高崎で乗り換えれば前橋に一番早く着くようだ。


 《お疲れさま。遅くまで引き留めてしまって申し訳ないなと思っていたけど、何よりだよ。今度東京に来る日が分かったら教えてね。仕事決まる前に京都いくことがあったら案内してね!》


 山崎のメッセージが届いた頃には、車窓からみえる住宅がまばらになり、田園地帯に差し掛かっていた。西に傾く太陽が斜めに差込み、収穫を控えた田畑は、ほのかに赤みがかっていた。

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