第8話 どれだけシャンプーをしても…
コンクリート打ちっぱなしのように見えて木造なのか。なのにこんなに大きな建物って見たことがない――。
空は灰色で、周囲には誰もいない。キーンという無機質なモーター音が、建物の自動扉から聞こえる。山崎は自分の今いる場所を確かめたいと考えて、ズボンの後ろポケットからスマートフォンを取り出そうと手を入れた。
ああそうだった、部屋で充電をしていたのだった。リュックにノートPCが入っている。近くにカフェ的な店はないだろうか。ああ、そもそも場所が分からないのだった。街路樹はないし、あたりは人工的な構造物があちこちにあるけれども人がいる気配は全くない。
恥をかくことはないだろうとその場にしゃがみ込み、リュックの口を開いた。ノートPCを入れていたのは勘違いだったようで、中にあったのは薄型のタブレット端末だ。なぜ入れたのか思い出せない。工事現場でも使えるぐらいの強固な、高い防塵・防水性能を持つ仕様のタブレット端末を購入したいきさつも考えてみれば不思議だ。
画面に指を置くと、端末は地図を表示した。建物が密集するような場所ではない。画面の左から曲がりくねった高低差の少ない道が中央に向けて伸び、画面の中心に空白があるが、その右に3本の道がある。
明滅する点が示す自身の立ち位置は、空白の中心にある。縮尺を変えても空白部分は空白部分のままだ。
建物にはエアコンが効いて中の空気は綺麗で快適かもしれないと勝手に想像し、後の予定はなかったので入ってみることにした。玄関となる回転ドアの前の御影石を床にした区画には、表面に「乱混」と刻んだ岩が飾られている。下には「月4年元和令」とある。誰も知らないうちに出来た最近のビルのようだ。回転扉は狭く、近づくと風圧で押し戻されそうになり、台風の襲来を思わせたが、何とか中に入ると、フットライトが等間隔に敷きつけられたがらんとした空間がどこまでも広がっている。
見上げると漆黒の夜空のような空間があった。モーター音は一層強くなり、それに混じってカタカタとする機械音がかすかに聞こえ、エスカレーターのような重機の存在を想像させた。受付があるはずのフロアなのに人気はない。受付自体も、暗証番号の入力で来館者の予約状況を確認したら、2次元バーコードを印字した紙を、人間を馬鹿にする舌のように垂らす簡素な機械が数台置かれているだけだ。
ならば不審者の侵入を防ぐフラッパーゲートもあるはずだし、機械音の主もその近くにあるはずだと見込み、山崎は前進した。
やがてスポットライトで照らされた一画が見えてきた。いくら防犯のためとはいえ、客をこんなに歩かせるとは不親切な設計だ。予感通り、そこにエスカレーターがあるのが確認できるようになった。振り返ってしまえば元の世界に戻れなくなるような気がしたので、とにかくまっすぐ進んだ。エスカレーターは大小の歯車がむき出しのまま、安全のための被いや、手すりのない、鉛色をした鋼鉄製で、2列で地階から内壁に向かって上に伸び、内壁から板が突き出す格好となっている踊り場にたどり着くと、反射するように、別のエスカレーターがさらに上を目指し、内壁にあたれば再び反射し、それを繰り返している。上りのみで下りはない。天の国への入口にたどりつくには相当な時間が掛かりそうだった。
地階から上るエスカレーターの手前には、踏切で見かける遮断器があり、赤信号が左右交互に点滅していた。2次元バーコードをかざす細長の装置が脇に立ち、四角の白い光を発しているのが見える。
アポを入れた人物など存在しない。困惑した山崎は、何かいい道具はないかとリュックの中をまさぐった。指先に感触を与えるのは先ほどのタブレット端末だ。墓のような建物だし、亡霊が知恵を貸してくれるのかもしれないから無駄だと思ったが、とにかく取り出してみる。画面を触れると、2次元バーコードが出てきた。装置に読み取ってもらうと、赤信号の点滅は終わり、黄と黒に塗装された遮断器のポールが上がった。エスカレーターの速度は前と変わりがなく、脚を踏み入れた時の感触は普段、商業施設などで感じるのと全く同じである。
内壁に電光掲示板があるのに気づいた頃には、1番目のエスカレーターの真ん中あたりに差し掛かっていた。電車の行き先や種別を表示するのと似ている。文字列が浮かんできたが、どこの言語かよくわからない。旧ソ連諸国の文字のようで、違うかもしれない。天然ガスの富でこのような立派な空港を作った国があるような気もする。旅に出るには軽装すぎるが、引き返せない。
踊り場から次のエスカレーターに足を掛ける。上れば上るほど、地階の光は弱まり、ほの暗さが増す。琉璃(るり)色の陶器にしたたり落ちるドリップコーヒーのような闇の中に入るにつれ、はじめから孤独だったと気づき、心細くなる。
内壁のコンクリートの薄い濃淡が、次第に識別できるようになってくる。映画の本編が始まる直前のスクリーンのようで、よくみると右から左に回転するように動いている。
すると、どこか特定できない言語のアナウンスが流れ、国歌のような威厳に満ちた音楽が続き、間もなく哀愁を持つソウルに変わった。ミルク色の長方形が写し出されると、平面の左上にドイツの国旗が現れる。映し出されたのは、山崎と同じ年代の男女が3人の子供とテーブルを囲み、夕食前の祈りを捧げている光景だ。スープを煮込んだ鍋や大皿に並べた肉料理からは湯気が上り、祈りを終えた一同は笑みを浮かべて手を付けた。
被写体が右から左に流れていく。すぐに新たなミルク色の長方形が現れると、次はロシアの国旗だ。雪深い繁華街を父と娘が手をつなぎ歩いている。会話が弾み、少女はスキップをする。
アルメニア。空き地を駆け回る少年達。ラオス。寺院を集落の人間が総出で掃除する。イングランド。サッカー場の近くのパブで談笑する若者。中国。ギターやドラムの練習成果をバンドの仲間に披露しあう高校生ら。
日本。ベッドに横になり、口を開けたまま無表情で虚空を眺める男。よくみると山崎の姿だ。
本人の了承を得ていないじゃないか――。憤りを禁じ得ないでいると、ブザーが鳴り響いた。
「性の悩みでもあるの?」と中国の男子高校生が笑う。
「神様が100万タラントを渡したとしても、あなたは増やすことなくすべて取り上げられそうね」とロシアの少女が冷たく言う。
「右目が見えなくても、目を覚ましていないと、死ぬ時に悔い改められないよ」と、アルメニアの男の子が悲しそうに言う。みな流暢な日本語だ。
圧倒的な孤独。
「墨に汚れた君の魂は、どれだけシャンプーしても白くはならないんだよね、すみしゃん」
やめてくれ。
山崎は叫ぶと、エスカレーターは止まり、被写体は一斉に消えた。すぐに肩に衝撃を感じ、身体ごと強く空中に引っ張られた。左を見ると、巨大なカラスが自分を持ち上げている。天井の、針の穴のような隙間から差す光がだんだんと大きくなり、外界に出るとそこはラブホテル街の上空だった。「フェアリーテール」という看板の建物の上あたりでカラスは八の字に旋回し、握力を緩めた。山崎は落下しながら思わずああ、と叫んだ──。
「大丈夫?」
左目を開けると女の顔があった。山崎はセミダブルのベッドで仰向けになってい
た。レースのカーテンから透ける街は明るい。
川本はパンツスーツ姿で髪を梳かしている途中だった。備え付けの机がベッドの脇にあり、壁面には鏡が取り付けられている。名前も知らないブランドの液晶テレビが昨夜のプロ野球の試合結果を伝え、簡易的な造りの冷蔵庫の重低音が耳を突く。ビジネスホテルなのには間違いなさそうだ。
「水ある?」
「冷やしてある」
「ごめん、変な夢を見た。それに頭痛い。どれだけ飲んだっけ?」
川本は仕方のない人間だという風に鼻で笑う。
「私も途中から覚えていない。あれだけ飲めば、そりゃあこうなるよ。ああ、きょう大丈夫かな? 顔むくんでいるし」
鏡に向かってメイクを始めた彼女の横で、山崎は夏仕様の掛布団の中に沈む自分を奮い立たせて起き上がり、サングラスをかけた。襟のついた紺色のカジュアルシャツに、カーキ色のズボンを身に着けていたまま横になっていたようだ。
冷蔵庫を開けるとミネラルウオーター2つ並び、片方はまだキャップが閉まったままだ。昨晩、川本とコンビニエンスストアに寄った記憶が蘇ってきた。
後ろポケットには、確かにスマートフォンがあった。午前7時となるところだ。まだ暑さの残る時期で、外に出れば汗ばむはずだ。川本は最終面接に行かねばならないのだった。
「面接は?」
「新橋の近くで朝10時」
「ここは?」
「センター南」
「センター南ってどこ?」
「一応、横浜市内。港北だけど都筑区」
「なんで?」
「うけるよね」
川本はきゃは、と笑った。確かに新橋まで時間に余裕を持ったほうがよさそうだ。
「面倒だから泊ろうといいだしたの、すみちゃんだよ」
同級生にスイーツをごちそうになるので、世田谷あたりから行きやすいところだと助かるとのメッセージを送ってきたのは川本だった。互いに顔を露出する仕事をしている以上、人の往来を気にする必要がある場所だと居心地はよくない。適度な価格で洒落た店が多いところにしようという話になり、バブル期に高級住宅街との高名を馳せた地域で、急行が停車する駅で待ち合わせをしたのだ。中年女性が談笑するカジュアなイタリアンレストランで2人の会話は弾み、ワインが進んだ。2軒目は串カツ屋、それからカラオケ店に入り、気が付くと午前0時を回っていた。
山崎から泊ろうと言ったのは正しい。だが、2人で同じ部屋に、とは言ってはいない。スマートフォンで調べた結果、近隣で空室があったのがたまたまこのビジネスホテルで、タクシーを拾ったのだ。
「なんか悪いね」
「なんで?」
ファンデーションを塗り終えた川本がまん丸の瞳を山崎に向ける。
「すみしゃん楽しいよ。すぐ寝ちゃったけどね」
川本は再び鏡の前の自分に顔を向けた。屑物入れにはクリーニングしたスーツを保護するフィルムが丸まって捨てられている。川本の一言が賛辞なのか揶揄なのか、山崎には判然としなかった。女性と同じ床で目覚めたことは学生時代にもあった。当時よりも体重は増えて腹は出て、中年男性特有の体臭を放っている。若い頃から魅力があまりない男性が、年齢を重ねてさらに醜くなり、体力も低下した。10歳以上も歳が離れる女性とは適切な距離を保つべきだと、無意識のうちに自分を縛ってきた。その時間が長きにわたっただけあって、川本の好意の深度を計りかねている。
「ああ、次は起きられるようにする」
「仕事続けられるかな」
「きっと決まっているよ。いいふうになるはず」
「そうね。自己暗示をかけないと」
キャリアケースに収まっていた、喪服ぐらいの深みのある漆黒のパンツスーツは、彼女の幼い部分を打ち消すにはちょうどいい色合いだった。いつ通夜や葬儀の連絡が来てもすぐに行けるような恰好をしろと、年配者が若手に口を酸っぱく指導するような世界に川本はいる。交通事故はおろか、航空機事故にあうぐらいの低い確率であっても、彼女が求める未来が与えられないだろうかと山崎は願った。
川本は鏡のなかの自分の姿を入念に確認し、メイク道具をキャリーケースにしまい込んだ。ベッドに腰を掛けたままの山崎の目に、彼女の表情が引き締まりつつあるのが映った。
「新幹線の駅の近くなら荷物を置いていけるのにね」
「確かに。辛い」
「預かっておこうか?」
「いいよ、大丈夫。ゆっくり休んで。ホテル代も今度ちゃんと払うね」
「いいよ。出世払いで」
「本当? すみちゃんありがとう」
川本は山崎に近寄ると、左肩に手をかけてから男の頬にキスをした。男が照れ交じりに笑みを浮かべたのを確かめると、腕時計を左手首に着け、キャリーケースを起こして収縮式のハンドルに手を掛けた。
「カーシェアでも使おうかな」
「重いんでしょう。預かるよ」
「うそうそ。電車空いているし、そのうち目も覚めるよ。休んで休んで」
「強がらなくてもいいのに」
「そんなことないもん。また連絡する」
川本はスマートフォンをつかんだ手を機械仕掛けの人形みたいに左右に振り、じゃあねといって部屋を後にした。
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