第6話 明日香

 山崎澄夫は以前と変わらず、不安に苛まれていた。今の稼業を続けられなくなれば、その先収入を得る手立てが全く残されていないような気がしてならなかった。取材を終え立ち寄った駅前の居酒屋では、自分と同世代の男性がスーツを着て、同僚や若手とともに仕事や家庭の不満を口にしている。自分はもはや、ああはなれない。孤立している。あえて選んだ道なのだから、その責を負わねばならない。


 互いの労をねぎらう仲間を挙げるとすれば、二宮麻友の存在がある。酒の勢いに任せて共同企画を提案したものの、反響が期待していたほどではなく、逆に失望を誘ってしまえば、互いに不幸な結果となるかもしれない。そんな恐れが山崎を支配している。何もかも守勢に入っていた。体力も衰えてきた。


 川本千夏との出会いは、取材先を紹介する人物とのいくつかのつながりを生み出した。福島市の商工団体に勤めるK氏、彼女の高校の同級生で、高知県にある信用金庫の調査役であるF氏、中小企業支援策を専門とする准教授。かつての勤務先の競合紙に所属する記者も紹介された。名刺は多いに越したことはない。彼らのネットワークを利用することで、切れ目なく一定のペースで動画を配信できるようになったうえ、内容も充実させられるようになった。専門家が目を付ける企業は、取材していても面白かった。彼らの力がなかったら、チャンネル登録者数は減少していたかもしれなかった。


 にょほりんのチャンネルをチェックすることも欠かさなかった。川本と麻友の仲だ。山崎に紹介した人脈を、麻友の所属する事務所が利用しても何ら不思議ではない。


 ところが川本の働きが麻友の創作活動を後押ししている形跡はない。更新の頻度は従来と大して変わらず、ワイン樽のリサイクル企業のように、二人が同じ会社を取り上げることもなかった。面白い企業にアクセスできるなら、なぜ取り上げないのか、腑に落ちない。


 いや、それはそれでありがたい話ではないかと思う自分もいる。取り上げる企業の面白味は相手よりも自分の方が勝っているとの手応えは、不安のなかでも確かにあった。


 日々の生活が完全に色あせた、無味無臭のものと化したわけでもなかった。川本からのショートメッセージが来た時は、山崎の曇りかかった脳内に一筋の光が差し込む。仕事の進捗、紹介した人物の近況、身体の具合。問いかける内容は他愛のないものばかりだった。


 かといって、どん底にいるような気がする自分には出来すぎた女性だし、先の立たない自分のような人間にのみ好意を示すことなども考えにくい。どんな男性にも同様のやり取りをしているはずなのだと山崎は言い聞かせていた。


 《今度は長崎ですか。出島とか観光できる時間があればいいですね。土曜日が最終面接で前日に京都から東京に向かいます。お時間があればまた呑みましょう!》


 レモンサワーに切り替えたあたりでスマートフォンの画面に表示されたメッセージに、山崎の胸は高鳴った。自分にはこういう恵みがまだ残されているのだと思った。


 川本は、在京メディアの実施する契約アナウンサーの採用活動をプロダクションから知らされ、応募書類一式を送付していた。選考過程の次のステップに進んだことはもちろん、再会できるのも嬉しかった。最終面接を通過すれば、一定の契約期間があるとはいえ、物理的な距離は大きく縮まる。彼女との会合を重ねるうちに、自分が背負っている重荷のようなものも、ひょっとしたら軽くなるのかもしれない。いやそんなに上手くいくものか。幸福は、自分の周囲で今、ジョッキグラスを呑みかわし、苦行の日々を涼しい顔で、でも必死でこなしている人間に与えられるものなのだ。今の自分の顔といえば……。


 会計を済ませて外に出た。駅に着くと、自宅に向かう方面は、線路内に人が立ち入った影響で電車の運行を中止しているという。飛び込み自殺なのか。飛び込んだのなら、こちら側の人間なのか、あちら側の人間なのか。振り替え輸送の実施を告げる駅構内のアナウンスを耳に、山崎はそんなことを考えながら、スマートフォンに最適な帰路を尋ねることとした。


 ──光沢の強い藍色のドレスに身を包んだ小柄な女性が、タクシーに乗り込んだ背広姿の中年男性に向かって腰をかがめていた。市内を流れる小川の方角から吹く柔らかい風を切るかのように、夜空に輝く花火をあしらった女の爪が小さく左右に揺れる。


 「ありがとう、また来てね」


 ハイブリッド仕様のミニバン型のタクシーは電子的な駆動音とともに繁華街の一方通行の路地を前進し、50メートルほど先のコンビニエンスストアのある十字路で右折して消えた。黒のポニーウィッグを風になびかせる女の顔から、中年男性の関心を惹きつけるための張力が解けてなくなった。


 「お疲れさまでした」


 一足速くフロアでの勤めを終え帰路に急ぐ、名も思い出せない同輩から挨拶を受けると、女は再度、爪の上の花火を夜空に掲げて、小さく振った。ドレスとウィッグと、ラメで飾られたヒールは店から支給されたものだが、ネイルアートは自腹だった。


 最後に見た花火は昨年夏である。猪苗代湖のほとりの砂浜で、静けさのなかで一発、また一発と打ち上げられた花火は、仕事で向かったとはいえ、契約更新の可否で頭が一杯となっていた自分を癒してくれた。就職活動中で、日銭を稼がなければならない立場とあっては、平日夜の夏祭りに出かける時間など到底作れない。


 先入観かもしれないが、前橋の女性はどことなく、関西のモダリティを持つ人間と距離を置きたがるような気がする。川本千夏が入店して2カ月ほど経つ。地元出身者やフィリピン人が多くを占める女性スタッフのなかでも、彼女はよそ者の存在だった。ただ男性は違った。彼女の指名客は単身赴任者よりも、群馬に本拠を置く会社に勤めるサラリーマンや、個人事業主の方が多かった。


 異質な存在となるのには慣れている。法学部で女性は少数派だ。さらに1浪している。自主制作の映画への出演を重ねた結果、自己顕示欲の強い人間というレッテルを貼られ、法学部の女性の間でも浮いた存在となった。


 出生地の高知県では、映画を観たいといっても、ショッピングモールで上映される商業色の強いものしか選べなかった。見に行く日時もたいていは土日で、誰が何を観ていたのか、次の月曜日には学校のなかで知れ渡っているような街だった。東京で育った同世代の女性は、国際的な映画賞を取ったイラン映画を観たいと思えば、所蔵点数が地方都市の図書館よりもはるかに多い映像ライブラリーや単館系の映画館を訪ね、美的感覚をいくらでも磨くことができる。自分はそうではなかったし、だからこそ高校を卒業したら高知を出たいと考えていた。


 一人暮らしに消極的な両親と見出した妥協点が、京阪神地域の大学への進学だった。銀行員の父は大阪への出張機会が度々あったし、母の実家は姫路にある。ひとり娘に何かあれば車ですぐに両親はかけつけられる。東京ほどではなくても、文化に対する娘の欲求を満たすことができるし、就職先もそれなりに多い。


 とはいえ両親から買い与えられたスマートフォンで、インターネットに投稿された動画の閲覧ばかりしているうちに高校3年生の川本の成績は頭打ちになり、卒業後の1年間はスマートフォンを取り上げられ、禁欲生活を強いられた。


 大学3回生の冬になると、川本千夏は同級生と同じように就職活動を始めた。表現の世界に憧れ、新聞社やテレビ局に的を絞り片っ端からエントリーシートを送った。メディアで活躍する学部のOB・OGは多く、撒き餌すれば魚が釣れるだろうという楽観はもろくも崩れ去った。バブルが崩壊してしばらく経った頃の就職超氷河期と比べれば、企業の景況感はそれほど悪いものではなく、選り好みしなければ内定がもらえる時期だった。


 その分、自分が世間から取り残されたという印象は余計に強かった。4回生になった夏には焦燥感に変わり、父は自分の人脈から娘の働き口を探そうとしていたが、秋には企業の新卒採用への応募を止め、映画研究会の後輩とコント劇のユニットを立ち上げようとしたり、脚本の真似事のようなものを書いたりして過ごした。


 相方となるはずだった後輩は高校時代はバレー部で身長は180センチ以上あるやせ型の女性で、大学入学後に映画マニアとなった。度の強い近眼となり分厚い眼鏡をかけ、くせ毛の頭髪を整えずにいる浅沼葉子は、容姿がアスパラガスのようであり、アスパと呼んでいた。冬季休暇に入る頃、レンタルビデオ店でのアルバイトを終えたアスパと電話しているとき、創作の方向性を巡って二人は口論となった。


 《先輩の身体、男好きしそうですし、こんなことせずにどこかプロダクションにでも映像送ればいいじゃないですか》


 アスパとは結局、絶交した。親に頼ることなく資金のやりくりをしアナウンサー養成学校に通い、自主制作映画のDVDと履歴書を大阪の芸能プロダクション郵送したところ、面接試験を行うので来てほしいとの電話が掛かってきた。芸能界の採用も一般企業と同じなのかと不思議に感じていた。このプロダクションは、女性アナウンサーを全国各地の放送局に派遣する事業に着手したばかりで、顧客に人材を紹介するための「玉」の確保に躍起になっていたと後で知った。


 採用通知とともに届いた「業務委託契約書」に署名・捺印したことで、アナウンサーとしての川本のキャリアが始まったが、最初の3カ月は全く仕事がなく、訓練の日々が続いた。初めて請け負ったのは、熊本県のケーブルテレビが隔週で更新する自治体の広報番組の仕事だった。会社に言われるがままに、伊丹空港から熊本に向かい、ウィークリーマンションをあてがわれ、1年半そこで暮らした。


 それから石川県、島根県、福島県と半年ごとに転居を繰り返し、活躍の場をケーブルテレビから大手放送局傘下のテレビ局に広げた。将来の展望が開けつつあった半面で、企業広告の出稿量は減少に歯止めがかからず、地方局が制作する番組の枠は通信販売に置き換わり、経費削減の一環で契約アナウンサーの採用をためらう流れが速まった。


 前橋はウィークリーマンションの相場は新幹線の停車する高崎よりも安いし、街の規模はそれなりに大きく、比較的東京にも出やすい。川本は「あすか」という名前を店の経営者から与えられ、週3日の頻度でキャバクラで働いている。職業に貴賤はないというが、就職活動の障りにはなってはいけないとの考えは自ずと働くものだ。東京の知人には京都にいると伝えている。


 小柄でも、あすかの胸はそれなりの存在感があり、来客者の多くが自分の胸元に視線を注ぐのを彼女は感じる。露骨にその大きいのを声にして指摘する男もいる。福島から出張に来た男性が、地元のテレビ局で君によく似たアナウンサーがいたけど、いつの間にかいなくなっちゃったんだよな、とつぶやく。私が彼女だったら福島県のすべての男の子からおっぱいをちらちら見られていたんですかね、ふふ、と笑う。


 ファンデーションが覆う顔の皮膚に汗が滲んでくる。あすかはフロアに戻り、灰皿を片づけ、インテリアとして店の片隅にあるワイン樽の上に積んだ。ロッカーに入り、ドレスを脱ぎ去ってTシャツとジーンズ、スニーカーという普段の姿に戻り、量販店で購入したショルダーバッグを掛けた。ストーカー対策にと帰路のタクシーは店が用意している。タバコの臭いを消臭剤で無理矢理抑えつけた後部座席に腰を掛けて、スマートフォンに届いた山崎からのメッセージを読んだ。


 《私でよければぜひぜひ。金曜日の夜は不思議とあいています。どこでも馳せ参じます!》


 良かった、と素直に喜んだ。女性側の踏み込んだ行動を受け入れる男性もいれば、警戒して距離を置こうとする男性もいる。前橋のウィークリーマンションにいつまでもいられる気がしないし、仮にこの先、働く場所が見つからなかった時には、山崎を頼りにできるかもしれない。収入は不安定だとしても人柄は悪くないし、山崎を通じて新たな出会いがあるかもしれない。今は彼との交際を続けるほうが、自分への保険という意味でも得策に違いないのだ。

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