第5話 ロンリービッチ

 玄関ドア近くのスイッチを入れると、LED照明が室内を乳白色に照らした。玄関のわずかな面積に、サンダルやハイヒール、スニーカーと、脱いだばかりのローファーが散らばっている。


 1人用のこたつ机にの上には、朝食として作ったインスタントの春雨スープの食べ残しと、化粧道具と卓上鏡が置きっぱなしだ。部屋に入って右脇のパイプベッドには寝具として使うTシャツと学生時代のジャージがそのまま脱ぎ捨てられ、左脇には薄型の液晶テレビが深い眠りについているかのように黒光りしている。本棚として活用するコーヒー色のカラーボックスの上が、二宮麻友が使うノートPCの置き場となっていた。


 西へ向かう高速道路をタイヤが滑る音に交じって、日本製の冷蔵庫の動作音が響きわたる。母が経営する法人名義の部屋は築浅ではあるが豪奢さはなく、間取りは1LDKのありふれたものだった。


 ジョッキビールを1杯頼んだ後は、いつものようにウーロン茶に切り替えていた。呑もうと思えばどこまででも呑めるが、記憶をなくすことがある。高校時代に不眠症を患い、睡眠薬を頼った過去もある。別にきょうだけのことではない。アルコールの摂取を乾杯時の1杯だけにとどめるのは、彼女の流儀であった。


 今の自分の私的な空間に、不動産会社の営業マン以外の人男性が立ち入ったことは一度もない。タバコを吸わない自分の服がタバコの臭いに汚れている。誰か部屋に先ほどまでいたようなぐらいの臭いだ。川本の吸うメンソール入りのタバコだ。シャワーを浴び、子ども服を扱う大手チェーンで500円まで割引されていたフリースに着替えた。


 今頃、川本は何をしているのだろう。あのまま、山崎と付き合い始めるのか。川本が付き合ったこれまでの男性と比べ、相手は遥かに年齢が上だ。発情前のビーグル犬のような落ち着きのなさを相手が制すれば上手くいくような気がするし、やはり彼女が主導権を握って山崎を振り回し、数カ月後には「ねえねえ、山崎さんのことでどうしたらいいのかわかんなくなったんだけどさ」といったショートメッセージを送ってくるかもしれない。ロンリービッチ。濡れた髪を乾かしながら、ふとつぶやいてみた。


 私は妬いているのか。自分がいなかったらもしかしたら出血性ショックで死亡していたかもしれない、同じような商売をする年上の男性が、大学時代に最も心を開くことのできた女性と一晩を共にしているかもしれないことに対して。川本と山崎の会話が弾んだのは確かだ。でも、だからといって、会計を済ませて街頭に出た後、2人の帰宅方面が同じだったからといって、ショートメッセージが2人から全くないからといって、二人で別の居酒屋に行き夜遅くのカラオケでデュエットして、タクシーの後部座席を共にし、山崎の家あるいは川本の家、あるいはホテルに向かうとは限らない。


 テレビのスイッチを入れる。深夜のBSは、介護施設で働く若者のドキュメンタリーを流している。元力士のヘルパーが入所者にちゃんこ鍋を振舞うため、同僚に大声で指示を出している。追悼番組のようだが、興味がないので違うチャンネルに変えた。


 レモングラスの香りを広げるためアロマディフューザーのスイッチも入れた。スマートフォンには相変わらず、メッセージの通知はなかった。


 焼鳥屋での会合は途中から自分より上昇志向の強い川本の、フリーアナウンサーという職業にまとわりつく不平不満に、山崎が共感し、これからどのような心構えで過ごすべきかを彼女に諭す場となった。


 麻友は相槌を打ちながら、日本社会で女性が自立して生活するために必要な要素を、川本の耳障りにならないように平易で、棘のない言葉を選択して伝える山崎に感心していた。大人というのは、こういうことができる存在なのだと感じ、川本にアドバイスできる存在というのは、私ではなく山崎なのだろうとふと思った。自分にも指針を示してもらえたらと思った瞬間があったが黙っていた。


 こういう機会が、この先もあったらいいなと考えて始めた時、ほろ酔い加減となった山崎は、商売の話をして申し訳ないと詫びつつ、自分が作成する動画に、予告なくにょほりんが出演したら、再生回数は増えるのかな、とこぼした。同じ時間に同じ企業を取材していたら、ばったり遭遇したという流れで、最初から事務所を通すと面倒だから事後報告にしてさ、と言う。


 再生回数が増えるかどうかは別として、素直に麻友は面白そうだと感じた。日頃の取材活動がマンネリ化してきたと感じていたところでもあった。2人が同時に来社するとなれば、企業も効率的に取材の対応ができるしウィンウィンだ。山崎の提案が自分への方便でないことを願う気持ちを確かめながらベッドを整え眠りについた。

 

 《昨晩はご一緒させていただきありがとうございました。共同企画の件、ぜひ具体化しましょう》


 会合の翌朝、スマートフォンの画面をみると山崎からのショートメッセージが届いていた。受信日時は午前5時38分。そんな時間から日常生活を始動させているのかと驚いた。


 《こちらこそありがとうございました。久しぶりにリラックスできました。共同企画、ぜひぜひやりましょう!》


 送信後しばらくして川本からもメッセージが来た。


 《昨晩はありがとうね、学生の頃のようにはいかないけど、また飲もうね》 


 山崎とは何もなかったのか、聞き出そうとしたが、野暮ったいと感じてやめた。何かあったかもしれないし、何もなかったかもしれない。それでいいのだろう。


 《かわもっちゃんの笑顔に勇気づけられたよ! お互い仕事頑張ろうねー》


 山崎からの連絡は、1週間経っても来なかった。


 予定していた撮影に忙殺されているのだろう。社交辞令というのはまさにこのようなことを指すのかもしれない。期待するほうが筋違いなのだ。川本との関係に胸を躍らせているのなら、私など邪魔な存在だ。


 9月になり、日暮れの時間帯に肌に触れる風の涼しさが、熱気に打ちかとうとする心身の緊張を一段とほぐすようになっても、麻友は麻友の仕事をしている。山崎の動画投稿は途絶えることなく、週に3回の企業取材を持続的にこなしていた。関東周辺だけではなく時には東北や九州に足を運んでいる。まるで自動車事故で失った収益機会を取り戻そうとしているかのようだった。


 麻友は事務所を通じてしか企業と接することができず、山崎のようなペースで取材をしたくても難しかった。自力で混沌とした海原を進む山崎に自分はまだとても敵わない。


 どうしたらそうなれるのか、もっと話を聞きたい。所属事務所が指定した取材先に向かう電車が田園地帯に差し掛かった時、そんな衝動にかられるようになった。自分を種子に例えるなら、日本平での出会いは殻皮を打ち破る必然であるべきなのに、時間ばかりが過ぎていく。

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