第4話 大和・甲斐

 山間の一面に田畑が広がる集落に、何十年も前にできた5階建ての白い外壁の建物は、抜本的な修繕が必要な時期に差し掛かっていた。


 正面玄関には、この地区を循環するコミュニティーバスの停車場が置かれ、1日4本ある便の最終バスが到着すると、高齢者が1人、また1人とゆっくりと、自治体から発行されたカードを運転手にみせて乗車する。若者の少ないこの地域では、住民にとって社交の場のようなものだった。敷地内には病院や介護施設のほか、薬剤師が常駐するドラッグストア、図書館、自治会の集会所などが併設されている。


 最上階の角部屋の南に開いた窓に、皮膚を真っ赤に染め上げそうな日が差し込んでいた。


 部屋の木製扉を開けると、右手奥に、夏空が覆う緑深き榛名山が湖畔に浮かぶ姿を写した油絵と、書類が山積みになった重厚なチークの事務机がある。部屋の真ん中に置かれたガラステーブルを挟むように2脚のソファーが据えられ、事務机側のソファーに喪服姿の白髪の女性が腰を掛け、スマートフォンの画面をじっとみている。娘が更新した動画は1週間前のが最後だったが、死んだのは娘ではない。愛すべき職員の死を直視するのが辛く、逃避的な行動をしていたのである。


 ちゃんとご飯は食べられているのかしら。夏休みにもクリスマスにも、娘は実家には帰ってこなかった。メールで安否を確かめたいとの欲求がふつふつと湧き上がる。でも返信をよこすような娘ではない。


 秘書室長の能田から、ハイヤーが到着したとのショートメッセージが入った。


 1時間に1本しか新幹線が停車しない駅に向かい、東京駅を経由して山梨に向かう。葡萄畑が一面に広がる街で1泊した後、群馬に帰る。その過程で娘に会う時間が作れなくはなかったが、やはり無理だろうと思い直す。


 医療法人「二宮メディカル・ホスピタリティ」は、本部こそ群馬県に構えるが、提携先は北関東や東北を中心に8道県にあり、施設数は20を超える。このうち、西日本で唯一の拠点である奈良県内の特別老人養護施設に勤務する職員が昨夜、原動機付自転車で出勤中に信号を無視した大型トラックに轢かれた。意識を失ったまま近くの病院に救急搬送されたが、事故が発生してから6時間後に死亡した。


 職員の名は小山内サミフ。元力士という異色の経歴を持つ男の訃報に触れた時、二宮直子は手が震えた。小山内サミフの巨体は何とか棺に納まり、葬儀会社が手配した黒塗りのトラックは馬のごとく、生まれ故郷の甲斐国を目指していた。


 時を同じくして、小山内サミフが世話になった相撲部屋の親方と元兄弟士の面々も、訃報を受けて出発の準備に入った。小山内サミフを取材しドキュメンタリー番組を制作したディレクターは、撮影用機材の確認に追われていた。ディレクターは、懇意にしていた奈良の施設長から直接、死を知らされていた。金曜日の通夜は取材できるが、どうしても外せない取材案件が土曜日にあり、告別式は参加できないと施設長には言い、同じように理事長の秘書である能田と、相撲部屋の親方にも電話で伝えていた。


 小山内サミフは中卒だ。母はフィリピン・パンガンガ州から日本に渡ってきた。自立心が強く、母国で工業系の専門学校を出た後、マニラで雇われの身にあったが、震災で家族が経済的危機に瀕し、さらに大規模な活火山の噴火を経た社会不安で勤務先が倒産に追い込まれ、やむなく日本への渡航を決断した。


 山梨の温泉街にあるスナックで懇意となった日本人との間に設けたのがサミフだ。その巨体は富士山の五合目からみても目に止まると冗談交じりに言う人間がいたほどだが、父となるべき男はサミフが生まれる前に姿を消した。父を知らずに日本語で教育を受けたスミフは、スナックで生計を立てる母を助けたいとの一心で相撲部屋に入る。「大和隗(やまとかい)」のしこ名を与えられたが、取組中に左膝を複雑骨折したことをきっかけに引退した。しこ名は彼の生家の近くにある駅名に掛けたものだ。


 二宮直子は面接時に、なぜ山梨に施設を持たない法人の採用活動に応募したのか、彼に尋ねた。小山内サミフは、理事で人事経理部長の時村との面接ですでに同じ質問を受けていた。その時の回答は時村らが作成した資料にもあった。それでも直接聞いて、反応を確かめたいとの想いが強かった。


 サミフは力士を引退した後、中学の同級生の間でも悪名高い連中から「その道」で生きていかないかとの誘いを受けたということを率直に明かした。自分は気弱だし、そういう人間からの誘いを断るためにも山梨を出たいと語った目に、嘘偽りの色は感じなかった。フィリピン人の母はさみしがらないのか、と訊くと、相撲部屋にいた時にスナックの常連客と結婚したので、経済的な問題はない、と言った。


 人手の足りない業界である。よほどの事情がなければ正社員として採用したかったし、小山内が背負う過去はかえって、自身の医療法人に世の中の関心を惹きつける宣伝材料になり得ると考えた。


 大和隗は採用後、数週間の研修を経て、二宮直子の指示で本物の大和国に送られた。3カ月後には、テレビ局の制作会社による密着取材が始まった。当時の奈良の介護施設は経験のある人材が多く、ベテランの指導のもと、少しでも早く成長し長く働いてもらえたらという配慮もあった。ところが初めてテレビ画面に介護職員としての雄姿が放映された時点で、彼に残された寿命は1カ月を切っていた。


 介護職員の労働環境を根本的に改善するには、人を増やさなければならない。医療法人の知名度を高め、安心して働ける場所だとの評判を広げる行為自体は、経営判断として何ら間違ったものではないだろう。そうは言っても、彼にとって二宮メディカルで過ごした日々は幸せなものだったのだろうか。奈良にいなければ事故にだって遭遇しなかったはずだ。……いや、職場が精神的な疲労を小山内サミフに与え、原付バイクの運転に必要な認知機能を低下させていたのなら、経営者が十字架を背負わなくてもいいというのは、やはりおかしいかもしれない。


 ハイヤーからは榛名山がいつものようにずっしりと構えているのが見える。助手席に座る秘書室長の能田がさきほどから旅程を説明している。


 能田の嫁は、家庭内で夫からの度重なる暴言を受け、精神的に錯乱した時期があったと聞いている。仕事に忠実なのはありがたいが、ワーカホリックの男には危うさもある。それだけではない。彼と話していると、子ども扱いされている気分になることが多々ある。この時もそうだった。内心煩わしく思ううちに、反発心からラジオの音に耳を傾けることにした。


 《関東地方の天気です。現在、東京23区に大雨洪水警報、雷注意報が発令されています。突然の雨や突風、落雷には十分注意してください》


 昔、夫だった男性が、雷を嫌がる娘を面白半分に外に連れ出そうとしたのを、ひどく怒ったこともあった。あれからずいぶん時間が経った。経営とは四六時中ゲリラ雷雨と付き合うようなものだ、とも思う。


 娘は勇気があるようにみえて繊細で、本当のことをなかなか言えず、嫉妬深く、他者の心の叫びに時に無頓着で、要するに自分の論理でしか物事を進められない。従業員の雇用を守らなければいけない立場の経営者には向いてはいないのである。どこか同業者に自分の法人を売却して、身軽になった時、娘には生活をするうえで最低限必要な資産は残すつもりだし、それが叶えば親としての役目は果たしたことにはなる。


 でもそれじゃああまりに寂しいじゃない。雷が嫌いなのは娘だけじゃない――。


 直子がため息をつく。能田の目に、いつもよりもさらに、やつれた理事長の姿が映った。

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