第3話 困ったちゃん攻撃

 「それでは、乾杯!」

 「おめでとうございます」

 「かんぱい」


 細かい氷滴のついたジョッキグラスが、3人が着席する空間上の1点に集まり、カツカツと音が鳴る。


 首都圏の私鉄路線の、急行が停車する郊外の駅に隣接した商業施設には焼鳥屋チェーンが入居する。


 店内は日曜日の遅い時間であるためか、人影はまばらだった。昭和歌謡が響く店内で、すみしゃんこと山崎やまざき澄夫すみおの前には、にょほりんこと二宮麻友にのみやまゆ、彼女が大学時代に所属していた映画研究会の仲間で、自称フリーアナウンサーの川本千夏かわもとちなつが座っている。


 山崎が救急搬送されてから1カ月近くが経つ。急所を突かれずに済んだのがせめてもの救いだった。


 麻友には山崎の回復を祝福する場、山崎には麻友の労をねぎらう場として、設定されたのが今回の会合だ。盆休みの後の街の暑さは相変わらずではあったが、夜になると秋の入口を感じさせるような和やかさが漂い出している。


 自分は鹿には慣れているとのうぬぼれが山崎の仇となった。麻友はすぐに救急車を呼ぶ手配をし、バスの運転手に事情を説明し、知人として彼の荷物を受け取った。


 ある意味で「おいしい」出来事でもある。いつか山崎の承諾を得たうえで今回の顛末てんまつを動画作品で紹介できればと考えていた。取り上げ方や報酬の配分などは、落ち着いた段階で話し合えばいい。


 同席する川本の身長は麻友よりも10センチほど低く、横に並ぶと妹のようにみえるが、学年は同じで共に23歳で大学を卒業した。セミショートの髪はさらりとした質感があり、前髪は右へ自然に流れて額を隠している。


 小さな丸顔にやや厚めの唇と、細かい黒粉で飾ったような口元の黒子ほくろがアクセントを与え、アイラインとマスカラで整えられた黒い瞳の中心は深みがあり、人を操るような狡猾さを感じさせた。白のトップスとタイトジーンズ、ヒールの高いサンダルというラフな姿で、マニキュアが群青に光っている。


 普段は地味なスーツ姿である彼女は、キャリーケースを店員に預けていた。両親が買い与えた京都のワンルームマンションで暮らしていると山崎に言う。仕事の打ち合わせのために東京に来ており、この日は1泊するらしい。


 2人がいた映画研究会は、作品を鑑賞して批評しあうだけではなく、自主制作した映画の上映も行っていた。麻友と川本は周囲から演じる側に推され、作品に出演した。利潤を追うような雰囲気ではなかったし、あくまで自己満足の世界だった。女性メンバーのなかで身長が真ん中ぐらいだった麻友は、主演女優としての出演を重ねるうちに当初志望していた卒業後の進路の変更し、ユーチューバー専門の芸能プロダクションに所属して今の仕事を始めることとなった。


 川本は、助演に回ることが多かったとはいえ、元来は麻友よりも勝気で活動的な性格だった。幼児体形で童顔で、学生時代の服のセンスを振り返ると、地方出身者特有のやや過剰な鼻に突く華やかさがあった。


 高知県出身の川本は、群馬県出身の麻友に対し、実の親の所得に格差はあっても、都会育ちではない点で類似性を感じていた。この日は東京での新たな仕事について、詳細の説明を受けるため、京都から夜行バスに乗ってやってきたと2人に話す。彼女が所属する芸能プロダクションは大阪に本社があるが、全国の主要都市に支社を持ち、女性アナウンサーの派遣業務も手掛けている。


 「女性ひとりじゃ、山崎さんも色々と気を遣うことになるかなと思って。でも、1人のほうがよかったですか?」


 ジョッキグラスの生ビールに口を付け、麻友は相好を崩した雰囲気を、ぎこちないやり方で作り出そうとした。短大を出た後に一度、給与所得者となった時期があったといっても、自分よりも年を重ねた男性と一対一で食事をした経験はほとんどなかった。あったとしてもずいぶん前のことだ。


 「そんな、気にしなくてもいいのに。それに山崎さんじゃなくて、すみしゃんでいいよ」

 「じゃあすみしゃんでいいですか。あ、でもやっぱり山崎さんでいいです。年上ですし、すみません。もし動画をとる時があったらすみしゃんって呼びます」

 「きょう撮るの?」


 山崎のカバンには、4K対応のハンディカメラが入っている。


 「ええっと、どうなんでしょう。撮ったら事務所に見せないといけないんですけど……。結構、締め付けが厳しいんです。かわもっちゃんは、プライベートの時は顔出しってNGだったっけ?」

 「ああ、まずいかも」

 「川本さんって、事務所かなんか入っているの?」

 目を丸くする山崎が愛らしくて、川本から笑みがこぼれた。

 「一応、プロダクションに入っているんです。地方の放送局を転々としていて、福島の放送局との契約が3月に切れてからは、結婚式の司会とかでなんとか食いつないでいます」

 「じゃあ、にょほりんの動画のナレーションとかもやっているの?」


 山崎が発した、にょほりんという言葉の響きには、数万年前から二宮麻友をそのように読んでいるような自然さがあった。


 「いつかは、ね」


 川本は麻友にウインクする。福島のアナウンサーだったころ、麻友は一度動画への出演をお願いしたことがあったのだが、川本の事務所が提示した出演料が高額で、断念したことがある。今は、もしかしたら出演してくれるかもしれないし、やはり事務所経由で断られるのかもしれない。ネット動画にあまりにも多く出演すれば、伝統的なメディアで実績を積んだ川本が活躍できる領域をひょっとしたら狭めてしまう恐れもある。


 「いつかっていつよ。そうそう、まだ何も頼んでないですよ、タブレットで注文するよね、ここは」


 麻友は作り笑いをする。カメラが回っていないのなら、言葉を選ぶ必要もないのに、仮面をかぶった自分が色濃く出てしまう。


 快気祝いの席は、発端はお礼がしたいという山崎の一言だった。麻友は最初は遠慮をしたいと願い出たものの、せっかく2人のユーチューバーがこのような形で邂逅かいこうしたのだからという言葉が決め技となり、受け入れざるを得なかった。


 女性を同席させたかった麻友に、川本が同じ日に東京で1泊するから食事でもしないかと誘ってきたのはラッキーだった。店で顔を合わせた時点から、主導権は山崎側にあり、受け身に回る麻友は妹で川本は妹の友達のようだった。麻友は緊張こそしたものの、居心地は決して悪くはなかった。


 山崎は苦手なものはないか、と2人に聞いてから、焼鳥の盛り合わせを三人前、枝豆、ポテトフライとシーザーサラダを注文した。


 40の男が、日曜の夜に初対面である20代の女性2人と飲食を共にすれば、いかがわしい商売をしている人間だとみられるかもしれない。だが、むやみに礼儀正しくすれば相手の居心地が悪くなる。


 麻友との共通の話題といえば、やはり撮影や投稿をめぐる悩みだ。川本がマスメディアでの勤務で得たアネクドートも、もしかしたら自分と麻友には刺激なものになるだろう。


 「たまに、え、こんなの誰が興味持つの、というのをさ、しきりに取材先がプッシュしてくることがあるんだけど、にょほりんはそういうので困ったりしない?」


 麻友は発言の機会を得たことを本能的に喜んだ。


 「ありますあります。でも事務所の目もあるので、仕事だからと割り切りますけど」

 「そっか、にょほりんも事務所に入っているんだね」

 「ユーチューバー専門の小さい事務所ですけど。山崎さんは入らないんですか?」

 「何度かダイレクトメールは来たけどね。元来、人に指図されるのが苦手な質(たち)だし、事務所入るとつまらない案件をすごく回されそうな気がしてね。川本さんのところは動画投稿サイトはどういう扱いなの?」

 「マネージャー次第ですね。この人はネット向きだとなれば、出られるんですけど。報道関係をやりたい人はどうなのかな。ネットに傾斜しすぎると仕事が舞い込んでこなくなると聞いていますけど、そうなると既存メディア寄りでいかざるを得ないじゃないですか」


 山崎の脳裏には、業界紙で出会った大手メディアの記者達の死んだ眼つきがよぎった。


 「報道ねえ。福島の時にやって嫌にならなかった?」

 「アナウンサーといっても契約社員で、出番といったら夕方の情報番組ぐらいでしたし、自分にはとてもとても」


 川本は照れながら、同じ局内で好意を抱いた報道記者がある日突然、失踪したことを思い出したが、こういう場では不適切な話題だった。


 「かわもっちゃんの現場、すごそうだよね。大昔に新聞記者の人と会って話をしたことがあるけど、そうそう、その人も業界紙のひとでした」


  山崎のサングラスが、無邪気にみえて嘆きの色が残る麻友の瞳をとらえる。


 「業界紙といってもたくさんあるからね。何新聞の人?」

 「いや……。聞かなかったので」

 「ふうん」


 麻友は続けた。


 「夜討ちとか朝駆けですか。睡眠時間が確保できない仕事って本当に辛いですよね。でも医者とか弁護士とか会計士とか、みんな睡眠時間削っているから、収入と睡眠時間は反比例するのかしら」

 「そんなことはないよ。正しく寝られなければ、正しく判断できないのが人間だよ」


 常に計算ばかりしていそうな川本が、麻友に視線を合わせて言った。彼女を包む空気には、数字がランダムに漂っているような気がする。麻友は相槌を打った。


 「確かにそうかも。山崎さんも、もともとは報道をやっていたんですよね。すみちゃんねるの経歴にそうありましたけど。やっぱり辛かったんですか?」

 「そこまでではないよ。きつかったのはお金のほう。ボーナスなんて碌(ろく)にもらったことなかったし、貯金できなかったから。大手企業の女性広報とか、大手メディアの女性記者と結ばれた同僚もいたけどね」

 「でも今はチャンネル登録者数がいっぱいいらっしゃいますし、すごいじゃないですか」


 山崎を賛美する川本が、脚の遅い男子のペースに合わせる女子のようにみえる。


 麻友は川本の思考の流れがなんとなく見えた気がした。大学3回生の時に門をたたいた映画研究会には男性が10人いたが、そのうちの3人と川本は肉体関係を持っていたのである。今でもビッチ臭がする。


 片や麻友はこれまで一度も男性と付き合ったことがない。そんなことはお構いなしに、山崎は話を続けた。


 「カネがあればなあと思ったことは何度もあったけどね。学生時代から付き合っていた女性は教員だったけど、彼女からカネを借りてばかりいる自分がどんどんみじめになっていって、その女性と一緒にいても楽しくなくなって、結局別れたな。なんで俺こんな話をしているんだ?」


 《お待たせしました。枝豆です》


 「いえいえ、おカネって大事ですよね」


 求職中の川本が言うと切実さが増す。麻友は適切な言葉を探しあぐねていた。今の話題を続ければ、いずれ自分と山崎の商売について触れざるを得なくなる。自尊心に関わる地雷原に進むのはできれば避けたかった。


 「ごめん、こんな話をすると商売の話につながってしまうし嫌な気分になるよね」


 山崎は麻友が想像していた以上に大人だった。


 「実は僕は右目は弱視だけど、40になるまで内臓系や外科系の病気らしい病気をしたことがなくて、長期間入院するのは今回が初めてだった。自分は腐りきっているし、くたばって死んでしまったほうがよかったのかもしれないぐらいで、今こうしてお礼に一席設けた経験もないんだ。こういうときって逆に教えてほしいんだけど、何を話せばいいの?」


 川本はけらけらと笑った。


 「正直すぎ。でもそう言ってくれると、ねえ。あたしたちも力を抜いて話せますよ」

 「ありがとう」

 「困ったちゃんですね、山崎さんは」


 出た出た。川本の困ったちゃん攻撃。幼少期に愛を感じられなかった男ほどこのフレーズが毒のように効いていく。山崎も気分を良くしているようだ。


 「もう一杯頼んでいい?」

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