第2話 息子じゃないですよ

 ぼんやりと遠くに、泣きわめく男の子がいた。丸刈りの幼稚園児の、汚れのない瞳から塩辛い涙が吹き上がる。両側を水田に挟まれた夏の舗道で、自転車のタイヤを大粒の石にぶつけてしまい、転倒してしまったようだ。膝小僧には擦りむいた痕があり、血がにじむ。


 《痛い、痛い》


 聞き覚えのある声だと近くに寄ると、息子だった。なぜ息子が見知らぬ土地で、しかも何十年か前の姿となって目の前に現れてきたのか見当がつかなかった。いや、それよりもなぜ自分が水田地帯にやってきたのか、理由や目的について思い出そうとしても、何も浮かんでこないのである。


 どういう因果で自分はここにたどり着いたのか。なぜ幼い頃の息子とここで再開したのか。熱でもあるのだろう、きっと風邪をこじらせて気を失っているのだ。そう自分に言い聞かして歩み寄り、息子の手当てをしたいと思うようになった。


 まずは止血。せやね、絆創膏がショルダーバッグにあったはずやわ。2019年にドラッグストアで購入した絆創膏は、この世界でも有用なんやろか? 変なことばかり考えるね、あたし。今年であっても40年近く前であっても、目の前にある出来事は今やないの。あったあった。どれどれ、擦りむいたのは……。


 息子の左の膝にはUSBケーブルの差込口があり、そこから血が流れていた。差込口の周囲はワックスが掛かっていて、絆創膏ではうまく止血できない。それならと考え、ショルダーバッグから充電するために使うように看護師に指示されたケーブルと、旦那、といってもこの子の父ではない男のものだったような気がするデジタルカメラを取り出した。


 逆に電気がこの子に流れてしまったらショック死せえへんかな。いやアンペア数とか考えると、そんなことは絶対に起きん。デジカメが壊れてしまうのがむしろ心配やんか。ライカ製だから、高く売れるやろな。あれ、何をせないかんのやっけ。そうそう、ライカのデジタルカメラと、この子を接続するんやった。


 USB端子が差込口をふさぐと、息子は徐々に泣き止み、しまいにはねむりについてしまった。よかったわ。せやけど炎天下では脱水症状を起こすかもせえへんし、端子部分が熱でやられそうだからタクシーを呼ばな。


 《はい、アップルタクシーです。敗者ですか?》

 私は別に勝負していません。

 《結構。では別のタクシー会社に連絡されてください》

 ガチャ。しゃあない。バス停探そ。にしても風がえげつない。空気も湿度が高いわ。台風来てんちゃう。


 女は左手にデジタルカメラを持ったまま、息子と手をつなぎ、陽炎かげろうに揺らぐ水田地帯の緑色のなかに溶け込むように、行き交う人間のいない舗道を歩き続けた。空には赤い富士山があった。


 バス停らしきものは見当たらなかったが、五分もすると天井が緑色の東屋(あずまや)が見えてきた。それまで水稲の緑と同化して見えなかったのである。日差しをよけるためにしばらく休憩しようと女は考え、東屋の中にあるパイプ椅子に腰を掛けた。目の前にもう1脚、自分と向かうようにパイプ椅子が置かれていて、息子を座らせた。確かに息子だった。もう10年以上、会っていない。その間、こんなに若返ったのか。世の中の母がめったにできない経験を自分はしている。 


 ねえねえ、なんでそんなに若返ったん? お母さんに教えてよ、誰にも言わんから。整形でもしたん?

 《……》

 そら言いたないこともあるわね。でもデジカメは正直よ。あなたが隠したい真実を、小さなモニターに映してくれるの。真実を写すから写真なの。どれどれ。ん? あなたの撮ったのこれだけ? それもみんな真っ白やん? あなた本当に私の息子なん?

 《息子じゃないですよ》

 野太い声がした。


 さっきまでの幼稚園児は、身長が180センチメートルを超え、体重は100キロ以上ある元力士のヘルパー、小山内サミフに置き換わっていた。


 「とみ子さん、検温のお時間です」


 東屋のあった光景が瓦解する。いつものように眩暈(めまい)を起こしたのだと悟ると、ミルク色の渦があちらこちらに現れ、視界を埋め尽くした。やがて白いキャンバス上に現れたのは、見慣れた食堂だった。パイプ椅子は車椅子に変わり、飯台が並び、遠くでプラスチック食器が水上でこすれあう音がした。


 車椅子と身体が一体化したような、皮膚が皺(しわ)だらけの人間が点在する部屋で、とみ子は小山内サミフの問いかけに頷いた。周囲の人間と同じように身をやつしながら、その内面は柔らかな喜びで満たされていた。若い時分を再び体験したことへの喜びだった。


「36度3分ですね。特にお変わりはないですか?」


 気弱そうな小山内サミフの目がとみ子の胸元に注がれたような気がして、恥じらいを覚えた。成人男性の視線というより、思春期に差し掛かった子どものそれに近いものがあった。この独身男性とわずかにでも接する時間があると、安らぎが生まれるのは不思議だった。


 実の息子と最後に時間を共にした記憶は、次第に薄れつつあった。


 就職難のタイミングで職業を選ぶ自由に恵まれず、妥協して入社した業界紙でコツコツと努力しているものだと信じていた。社会の荒波にもまれ成長した姿をみたいという一心で、誰にも迷惑をかけまいと余生を過ごし続けていた。いつの頃だったか。


 ある日、近くで取材があったからといって実家に何年ぶりかに寄った息子のスーツの所々にほつれや汚れがあり、革靴は色あせ、ネクタイが皺だらけになっている姿に肝を潰した夢を見たのを、まざまざと覚えている。働けばいずれ幸せになれるという自分の信念を打ち砕く「カイシャ」がもたらした息子の変貌に、胸を砕かれた気分になり、市営団地の和室でとみ子は布団の中からなかなか抜け出せなくなった。


 《そんな辛いなら会社やめて奈良に帰っておいで》


 そんな一言を掛けてやる機会は訪れず、記憶のなかの息子の輪郭は次第に覚束ないものとなっていった。失われたパズルのピースのような時間の塊が、とみ子を押しつぶしていた。大型商業施設の清掃員のアルバイトにありついたような気がするが、どんな制服だったのか思い出せない。うとうとと眠りに入り目を開けたら、病室のクリーム色の壁があった。こちらの施設に送り込まれたのは、いつだったか。でも遠くない気がする。携帯電話のロックを解除する暗証番号も忘れてしまった。充電用のケーブルは、どこかにやってしまった。


 今頃息子はどこで何をしているのだろうか。美味しいご飯をしっかりと食べているのであればそれに越したことはない。もしそうでなく、どこかで野垂れ死んでいるのであれば、こうして生き続けている現状を呪うこととしよう。私は眠ることができる。眠った時に必ずしも彼と出会えるわけではないのだが、何かあれば、痛い、痛い、と訴える存在がいるのには変わりがない。どうかその存在が、苦しんでいるのであれば、神様かお釈迦様かアッラー様か分からないけど、助けてあげてください。


 窓の外は今にも雨が降りそうな雲が立ち込め、湿気を含んだ風が施設のなかに入ってきた。ああ、嫌な季節だ。蒸し暑い。とみ子は目を閉じ、炊事場でヘルパーが食器を片付ける音に耳を澄ました。食堂では入所者の誰もがこうして自分と他者の間に一定の壁を築いていた。


 炊事場の作業がひと段落し、水道の蛇口が閉められると、束の間の静寂が食堂を覆った。入所者のほとんどがその時間を楽しんでいたのに、新入りのヘルパーなのか、歩く時のスリッパの、こすれる音がやたら大きいのをとみ子は耳障りに感じた。今や息子のように自分を慕ってくれる小山内サミフを呼んで注意させようとしたが、時間が経てば再び沈思の時間が訪れるのだ。澄夫をスミフと言い間違える人間と出会ったことはないものの、サミフとスミフとの固有名詞がそれぞれ持つ音の共通項をとみ子は宝箱の中身のように大切にしていた。


 《さみ》


 愛称を口にする欲求を抑えていると、入所者の誰かが、テレビの電源を入れた。

 静寂を楽しみたかった入所者の多くはがっかりした。朝の情報番組で取り上げられる話題は、自由がなく、自由を再び得られる可能性のない自分達にはほとんど価値のないものだからだ。唯一、関心が向けられるとしたらニュースだ。朦朧(もうろう)とする時間のなかで、外の世界の変化を見聞きすることは、自分の存在の確からしさを補強する材料になる。


 正午になった。待ちかねていたニュースの時間だ。


 《静岡県の日本平パーキングエリアできょう午前、鹿が暴れる騒ぎがありました。施設を通りがかった40代の男性1人が重傷を負いました。警察や現地の猟友会が捕獲活動を行っています》

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