産業系インフルエンサーの隘路

フョードル・ネフスキー

第1話 日本平パーキングエリア

 空は相変わらず曇ったままで、早く光が差し込んでほしいぐらいだった。


 静岡県内の東名高速道路で、追い越し車線に進路変更したワインレッドのフランス車がエンジンを唸らせて加速する。ついさっきまで前を走っていた、走行車線を70キロで走る埃っぽい赤の軽自動車に別れを告げ、西の方角に向かっている。


 同じ赤でもこちらの赤は上質だ。ハンドルを握る二宮麻友の金色の髪はベージュのマリンキャップの下で肩まで伸び、首にかけたシルバーアクセサリーが紺色のVネックのカットソーの胸元で揺れていた。


 ファンデーションを塗らなくても十分色白で、目鼻立ちが自然に整えられた小ぶりな横顔は、同世代の男性の目からは、プライドが高く傷つきやすい姉のようにみえ、ドライブ用のサングラスの奥にある二重の瞼とやや茶色を帯びた瞳を年長者が目にすれば、妹のようなしなやかさを感じるはずだ。


 気分は安定している。この日の午前、彼女は静岡県東部の中小企業を訪問していた。朝の取材は彼女にとっては珍しかった。翌日の取材は愛知県である。一度東京に戻るのは面倒だと考え、経営者とランチを取った後、撮影スタッフと別れ、同じ静岡県東部で春に訪ねたことのある、次世代農業プロジェクトに参画する農園に顔を出してから、高速道路の料金所を通過した。


 翌日の夕方に向かう企業は、航空機や自動車部品を作る3次下請メーカーだ。彼女が契約する事務所にメールが届いたのは2週間前のことである。今までにないキッチン用品を開発したので、ぜひ動画投稿サイトに取り上げてもらいたいという依頼が舞い込んできた。ジェット機に搭載される難削材を加工した包丁や鍋をインターネットで販売するという。


 誰が買うのだろかという、事務所からのメールを読んだ時に浮かんだ疑問は今も消えない。夜は三河安城駅近くで1泊し、ホテルの室内で、ブログ記事の更新作業を行うことにしている。


 ハンドルを握る車の所有者は、母の二宮直子だ。正確に言えば、直子が経営する群馬県の医療福祉法人「二宮メディカル・ホスピタリティ」である。もう3年以上顔を合わせていない。


 麻友は福祉系の短期大学を卒業した後、母が紹介した介護施設の事務職として半年ほど働いた。職場の同僚と反りが合わず退職した娘の将来を案じ、母が再就職先を斡旋しようとしていた頃、自宅のマンションのソファーで横になりくだらないテレビ番組をザッピングしていた20歳の女性が突然、コーヒーをすする母に、これまでにないぐらいの真面目な顔をして、ひとり暮らしをしたいと願ってきた。母親の影響力のない世界で自分を試したいと言った。


 精一杯の勇気を振り絞って、京都にある私立大学に編入したのが5年以上前のことである。母は学費と当面の生活費に加えて、関西は群馬県以上に車社会だという根拠のない誤解と、年度末の節税対策の必要から、このフランス車を買い与えた。走行距離はまもなく15万キロを超える。


 緩やかな下り坂が車の背中を押す。二宮麻友は『動物注意』の警告標識を確認した後、日本平パーキングエリアの駐車場の空き状況を示す電光掲示板をみて、休息をとろうと考えた。平日午後の下り線でもあり、高速バスと乗用車数台が駐車するのみだった。


 車を止めて外を出ると、ベンチのある一画の木陰で、角を持った獣の影のようなものが消え、奥のガードレールあたりの茂みが揺れたのを見た。呻き声がする。

 近づくと、漆黒の丸いサングラスを身に着けたアロハシャツの男が左足から血を流して倒れていた。

 「大丈夫ですか」

 声を上げて近づくと、二宮麻友は絶句した。

 「あ、あの、すみしゃんですよね」

 「……救急車」


           ++++++++++++++++++


 2019年6月下旬。時計は午後11時を回ったところだ。半月の光の失われた部分のような、深みのある黒のサングラスを日常的に着用する男がディスプレーに映っている。


 《このあたりは梅の名所みたいですけどね、空気はね、思ったほど澄み渡っていないです。そして風が厳しい! どうもどうも、すみしゃんです。きょう私が来たのは神奈川県にある、とある牧場の前なんでございますが、ずいぶん標高の高いところにまで来てしまいました。低気圧ですしね。たくさん草木が生い茂っていますねえ。鹿とかいるのかな。あそこには山並みが、うん。なんとこのあたりには、国内でも珍しい、ワインを作るための樽のリサイクル工場があるらしく、そんな噂を聞きつけて、やってまいりました。


 ワインを作るための樽? そんなの長く使えば使うほど味わい深くなるからリサイクルなんてしないんじゃないの? 私もそう思いましたがね。適切に管理をした樽であっても、定期的なメンテナンスは必須なんですけれども、管理に失敗した樽はどうするのかというと、捨てたり燃やしたりしていたんです。


 でも今って環境規制が厳しいじゃないですか。地方都市であっても野焼きとかしたらもう、役所を通じてクレームがわんさか来るご時世です。洗濯物に匂いがついただの、変なテロみたいなのじゃないのかだの。そんな訳で、捨てたり燃やしたりするのが難しくなってしまったので、専門業者にお金を払って頼んで回収してもらうことが選択肢の一つに上がりますが、ワイン樽ってね、インテリア用品とかにも人気があるので、いわゆる金を生むゴミなわけです。


 そこに目を付けて、製材所としてのノウハウを生かし、樽の回収から解体、洗浄、成型、研磨などの処理を行って様々な製品を作るのがこちらの会社なのです。早速行ってみたいと思いま、すみちゃんねる!》


 笑顔で呑気な歌を口ずさみながら、すみしゃんは工場の建物に入っていく。


 画面を凝視する山崎澄夫は、同じサングラスをかけている。左クリックをすると、静止していた画面のなかの自分が動き出す。画面の男とは対照的に、山崎に笑顔はない。体重80キロを超える肥満気味の腹は、無地の青いTシャツと白のハーフパンツの隙間から露わになり、発酵が済んだパン生地のように力がない。黒ひげは油染み、唇は艶を失い乾燥している。ただ頭髪は柔らかく量があり、四十にしてはどこか子供じみている。山崎の収入は制作した動画の閲覧回数やチャンネル登録者数などに左右される。世に言うユーチューバーだ。


 動画編集ソフトを立ち上げてから三時間ほど経つ。こたつ机の上に置かれた箸の刺さったインスタント麺のカップは、汁がとうに冷めている。 窓の向こうで快速電車が猛スピードで、一直線の線路を通過する。


 撮影に応じてくれた会社側の総務担当課長と初めて会ったのは10年以上前だ。山崎は当時、業界紙を発行する企業に勤務していた。安月給にあえぎながらも記者として働いた経験を生かすべく、今は中小企業に焦点を当てた動画を作成している。


 独自に制作した広報用の動画を配信する企業が相次いでいるが、往々にして閲覧回数が伸びず、長続きしないことも多い。経営資源が潤沢ではない中小企業の場合、そもそも広報のための予算を配分しにくい状況にある。


 一定のチャンネル登録者がいる山崎ことすみしゃんは、中小企業がPR活動をするには持って来いの存在だ。彼の動画を閲覧したテレビ局の制作会社が、後を追うように取材に訪れるという副次的な効果は、山崎がアポイントメントをとるための売り文句になっている。


 全国各地の商工団体の産業振興担当者や、金融機関の融資担当者には名の知れた存在となった。ところがチャンネル登録者数や閲覧回数はこの1年近く伸び悩み、話題の発掘に苦労していた。グルメや健康、スポーツ、旅行といった万人を対象とする動画を制作している訳でもない。


 自分では納得できる動画を作り続けていても、いずれは限界が来るかもしれない。その時、右目が弱視であることによる障害者年金だけでは今の生活は維持できない――。不安は常に山崎を包み込み、漢方の胃薬が手放せなくなっている。


 編集作業の手を休め、自分が制作した過去の動画を見てみる。視聴者におすすめの動画として出てくるのが『にょほりんのカイシャ見聞録』シリーズだ。


 髪を金色に染めた色白の女性が、山崎と同じように中小企業に足を運び、独自開発した技術やオリジナル商品を取り上げる。ここまではまるで一緒だ。しかし終盤が異なる。パンツスーツに胸元が開いたフォーマルシャツを着たにょほりんが、経営者や幹部、あるいは広報担当者とともに、会社近くの居酒屋に向かい、杯を共にする。親父キラーなのだ。


 彼女みたいな存在が現れ続ける限り、収入のさらなる増加は期待しにくい。いっそのことこんな稼業に見切りをつけて、新しい商売を始めなければいけないと焦る。


 《でも貯蓄していないでしょ。元手もないでしょ》


 自分の過去が、いつも自分を問い詰めてしまう。稼いだお金を銀行に預けても金利が低いし、昔みたいに増やすことができないのだから仕方がないじゃないか。環境のせいにする自分を再び、環境のせいにするなと自分が言う。


 思考は堂々巡りだ。少なくとも自分はこの、快速電車が通過する駅から歩いて15分以上かかる築30年の1LDKの賃貸アパートで、一人で過ごすための資金を、ユーチューブで稼ぐしかないのだ。そう言い聞かせても釈然としない自分を待つのは、3時間前に冷蔵庫に入れたストロング系チューハイだ。仕事は明日に回そう。山崎は重い腰を上げ、冷蔵庫の前に立った。


 いつか、にょほりんと自分はタイアップ企画を立ち上げて、仕事の時間を共にし、それを機に互いの連絡先を交換し、プライベートで旅行などに行くことがあるのだろうか。自分は何年以上、セックスをしていないのだろう。いや、胃の弱った息の臭い中年男の自分など、そもそも関心を抱く女性はいないのだ。現実を直視せよ、山崎。独りでこうつぶやいた。


 《へえ、これが洗浄工程なんですねえ、1日何樽ぐらい、処理されているんですかあ。うそ、そんなに? 30樽?? なんでそんなに?? そんなに日本ってワイン作っているんだっけ。わかんない。なんでですか? ああ、最近、廃業したところも多いんですね。


 (ナレーション)事業承継が上手くいかずに廃業したワイン業者が、設備をお金に換える手段として活用するケースが相次いでいるようです。ここで洗浄した樽は、そのまま樽として活用されることもあるそうですが、例えば側面に扉を付けて、中の空洞に収納スペースを確保したテーブルにしてしまうとか、インテリア商品に加工してインターネットでも販売しています。ビンテージ感のある質感は、無垢材で新しく作った樽にはないもの。発酵に必要なワイン菌、そんなのあるのかどうかは別として、とにかく! そのワイン菌の中でも、洗浄処理をしても残り続けた集合体が板には残っていて、そういうのも味わい深い見た目に作用しているかもしれません。


でも嫌な臭いはしませんよ! 板にタガをはめて、さらに集合体にしたものが、こちらです。じゃあん。付加価値を付けた製品のため多少値段は張りますが、富裕層からの引き合いは多いようです。にょほりんが学生時代を過ごした北関東にはない発想かも。にょほ》


 2日酔いで頭がズキズキする。


 あろうことかにょほりんは自分と同じ企業を取材し、同じぐらいのタイミングで動画を投稿していた。7月下旬の時点で、閲覧回数が自分より多い。山崎はやりきれなくなり、ストロング系チューハイでは我慢ができず、ウィスキーにも手を出してしまった。


 アポを入れた企業にインフルエンザに罹患したと嘘をいい、明後日の取材予定をリスケジュールしてもらった。きょうと明日はもともと休みだ。ひとまず旅行をして気分転換を図りたい。


 行き先はどこでもよい。キャリーケースに衣類を詰め込んで、アロハシャツとベージュのハーフパンツを身に着けてスニーカーを履き、外に出た。電車に乗り東京駅の高速バス乗り場に着くと、20分後に静岡経由の名古屋行きが出るという。待合室近くの券売機で料金を支払い、指定された停留所に向かった。名古屋でバスを乗り換えて、関西に足を延ばそうかとも思ったが、到着してからまた考えることにする。


 会社員時代から、すでに実家のある奈良から足は遠のいていた。最後に帰ったのは父の葬儀があった10年以上前のことだ。生前、公務員としての職を全うし定年退職をした父に、母は突然、離縁を求めた。山崎が大学を卒業し、社会人になったばかりの頃である。母の行動もそうだったが、なぜ父がそれを受け入れたのか、当時の山崎は理解できなかった。


 電話口で母は、父の遺産と退職金でなんとかなるから、兄弟がいないからといって両親の介護の問題を心配する必要はない、と言った。父からは、自分が選んだやりたい道をまっすぐ進めと言われたような気がする。父は業界紙の待遇の悪さを嘆きつつ、就職難のなかで正社員という勲章を息子が手に入れたことを何よりの善だと考え、新聞記者こそ長男がやりがいを感じる仕事なのだと勘違いしていた。


 その父は、この先関西の地方都市にある土地の評価額が上がることはなさそうだし、毎年の固定資産税は息子にとっては負担になると考え、不動産転売業者の口車に乗って土地を売却し換金していた。山崎の生家があった場所は、マンション建設計画の対象となり、建物の高さと形式美に制限があるかの地で、今や70世帯が暮らす集合住宅となっている。一時的に自由にできるカネが入った父の元に、地方の支店勤務を振り出しとする証券会社の若手社員が馳せ参じた。


 おそらく父と顔見知りになったのは、山崎と就職戦線を共にした同年代の人間だったはずだ。気を大きくした父が、証券営業の若手社員に息子の姿を重ね合わせ、その粘り強さに根負けするのは時間の問題だった。先祖代々の土地が元本割れリスクのある金融資産に変わると、次第にリスク性の強い資産の割合が高まっていき、世の中がにわか好景気に沸いた後、金融危機が訪れた。


 保有する資産の評価額が、土地を売却した当初から半分以下に減っただけでなく、母に手渡すべき生活費を工面するために、離婚後の生活拠点であったマンションの1室を父が売却したと聞かされたのは、遺体焼却後に母と2人で夕食を共にした時のことだった。あの人が死んだことよりも、こっちの方がショックよ、と嘆く母の表情には色がなかった。別れ際に母は、魔除けにと言って、鹿の角を削って作ったストラップを手渡した。


 業界紙を離れる前、山崎は母の高校時代の親友だと名乗る人間から郵便を受け取った。同封された文書には、母が認知症を患った事実と、NPO法人による身元保証サービスを利用し、終身型の特別老人養護施設に入所することになった旨が記されていた。


 父が残した資金と公的年金で費用は何とかなりそうだし、彼女がずいぶん前から息子には迷惑を掛けたくないと言っていたから、余計な心配は無用だとしながも、落ち着いたらぜひ会いに来てほしい、と訴える手紙に山崎の心は揺さぶられた。それでも彼は目の前の仕事に手一杯で、母の様子を伺えずにいた。会社を辞めた後は、手元資金への不安が帰郷を一段とためらわせ、動画投稿を始めた後は、仕事のない空白の時間を作ることへの恐怖に苛まれた。


 中学や高校時代の同級生はほとんど結婚し所帯を持ち、子どもの世話に忙殺されている。同世代と労苦を分かちあうための共通言語を習得していない山崎は、時が経つにつれて孤立を深めていった。自分の動画やキャラクターに関心を持つ人物がいたとしても、いずれは他の人間に目移りするに違いない。人気商売の宿命なのだろう。経済とは別の分野に活動の軸を移すにしても、先行者利益はすでになく、先行者を打ち負かす魅力が自分にあるとも思えない。


 ああ、消えるしかないのだろう。猫のように、死に場所を探すタイミングが訪れたに違いないのだと、考察が考察を呼び、山崎を打ちのめしていく。

 バスは幾度か渋滞に巻き込まれながら、東名高速道路を西に進む。休憩を取らねばならない法規制のため、運転手は当初の予定を変更し、パークングエリアのある日本平でしばらく停車すると告げた。


 15分ほどの停車中に、乗客はトイレに行って用を済ませたり、売店で食料品を調達しに行ったりする。サングラス越しにみえる太陽は西に傾きかけている。


 山崎は外の空気を吸おうとバスを降りた。ベンチのある一画に向かうと、目の先に角を伸ばしたやつれた鹿と遭遇した。その様子は、学生時代に空気のように存在していたのとは明らかに異っていた。 

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