描く理由 キャンバス

土蛇 尚

その目に写ったもの

 人は自分が傷つくことがわかっていても、何かに近づていくことがある。そう、今の俺のように。


 その子は体育館の、ど真ん中にキャンバスと椅子を置いて絵を描いていた。俺はバスケの白い真っ直ぐなラインに、赤い絵の具がぽたりと落ちているのを見る。体育館の時計を見上げると16時38分、この子は掃除を免除されているらしい。だからこの時間には作業を始めることができるのだろう。


「君はなんで絵を描いているの?」


 目の前で絵を描く同級生の女子に俺は聞く。その目は描くことに集中していて、俺のことは見ようともしない。まるで部屋に置いてあるスピーカーから、質問が流れてきたみたいに答える。


「絵を描いていれば、あとは全部人がやってくれるから。私は絵を描いてさえいれば良いって言ってくれるから。ご飯も作ってくれるし服も選んでくれる。だから絵を描いてる」


「それってさ絵描かなくてもやってくれるよ。俺たちまだ子どもだし。それともなんか事情がある家だったりする?映画とかで貧乏な家庭の子が、たった一つの才能を極めて偉くなるみたいなのあるじゃん」


「そう言う事聞くのってだいぶ失礼だと思うんだけど。あと別にそんなんじゃないから。あっでもお互い様だよね。私ずっと目も合わせずに話してるし。君からそう思ってるような色が広がってる。視界の外から滲んできてる感じがするよ」


 一瞬混乱したけど、雰囲気が色として見えるってことなんだろう。だいぶ変なことを言ってるのにこの子が言うと納得してしまう。分かってるならそうしろよ。


「それはごめん。周囲に認めてもらうために絵を描いてるってことか」


「そうじゃないかな。周りがすごいって言っても、それは絵を描かない人のすごい。私の敵は絵を描く人だから。君さっきそのくらいは絵を描かなくてもやってくれるって言ったよね。でもその先は?どんな人も何かで食べていかないといけない。私はそれを絵だと決めた」


 その言葉に圧倒されて少し黙ってしまう。何かをやらないで良くなる為に、何かができる人になる。極論で言うと自分で食べ物を育てる必要がないように、働いてご飯を買うみたいなことだろう。それが大人になるってことなのかも知れない。天才だって分業の外には出れないんだ。


「……そうなんだ。でも何で体育館で描いてるのわけ?」


「描きたかったから。天井が高くて、広々していて良いなと思ったんだよね」


 全生徒を押し込んでしかも、先生達が立ってると息苦しくてたまらない体育館も今はとても広い。

 その体育館を独占して絵を描いてる風景はとてもシュールだ。


「あのさ、俺バスケ部なんだけど、君がここで絵を描きたいって言ったせいで、練習出来なくなったんだけど」


「そうなんだ。でも私は描きたいって言っただけ。描いていいと言ったのは先生達だよ。私に言うのは変じゃない?」


 言ってる事は無茶苦茶なのに筋が通ってる気がする。俺はまた納得しそうになっていた。


「あとさ、体育館で私が絵を描くようになってちょっと嬉しかったんじゃない?練習しなくていいから。そんな色をしてるよ」


「さっきからその『色』ってなんだよ。意味わかんない事いわないでくれ。俺たちは一生懸命練習してたし大会も目指してた。それを君が邪魔したんじゃないか」


「君から読み取れることを色って表現してるだけ。自分の心を分析されて、それがブラックボックスだったら嫌でしょ。だから色って言葉で言語化してるの。君は練習がなくなってこう思ったんだよ。『練習には行きたくないけどサボるのはダサい、だけど性格の悪い天才のせいでなくなるなら言い訳出来るしなんならそれに怒って格好もつく』ってね」


 図星だった。でも敢えて言わなくてもいいこと何故言うんだ。


「違う!俺たちは本気でバスケやってんだよ。去年新しく部室も増えたし」


「でも予選落ちしてたでしょ。本気でやってはいたんだね。でもバスケ部よりも私を優遇した方が学校としていいって判断されたから、体育館を譲ることになったんでしょ。それにさ」


「なんだよ…?」


 体育館の高い窓からは夕陽が刺してくる。本当だったらグラウンドでランニングして、ここで練習してるはずの時間なのに。


「新しく部室が増えたって言ったよね?そこ写真部の部室だったの知ってる?私写真部も兼部していたんだ。絵を描く人って写真もやったりするんだよ」


「そんなの知らねぇよ。俺たちは部室を増やして欲しいって言っただけ。それに許可を出したのは学校だろ。写真部のことなんて知らねぇよ」


「それってさ。私がさっき言ったことと同じじゃない?私は君たちから体育館を取ったけど、君たちは写真部から部室を取った。同じじゃん。だったら良いよね。君も私も本気でやってきた者同士なんでしょ。だったら平等じゃん。良い環境を欲しがった、良い絵が描ける場所を欲しがった。そうでしょ?」


 俺はぐっと押し黙り拳を握りしめる。


「あのさ今描き上がったんだけど見ていかない?」


 拒絶して立ち去ればよかった。

 それなのに俺はキャンバスに近いていく。そして目の前にたった。キャンバスには俺たちが、バスケをやっている時の風景が描かれていた。その目を見た瞬間シューズが床を鳴らす音、ボールが跳ねる音が響いてきた。確かにそんな感覚に囚われた。

 俺たちの体育館で描かれた絵で、俺はまたバスケがしたいなんて思ってしまった。


「私、君たちが練習してるのを見て、この絵を描こうって決めたんだ。君のことも見てたんだよ」



 描く理由


 ここで描く理由




 あの子が絵を仕上げて体育館を開放した後、俺は練習に打ち込むようになった。キャンバスに描かれていた以上のバスケを目指したくなった。現実から産まれた創作が現実以上の美しさをもつのであれば、きっとその逆もあるはずだ。バスケをしてる絵を見てバスケをしたくなる人もいれば、バスケを本気でやって人も見てバスケをやりたくなる人もいるはず。

 

 俺は今日もここで、ボールを叩き、シューズを鳴らす。


                              終わり

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