第53話 お師匠様は「ひ・み・つ♡」なのだ

 くんくん、くんくんくんくん……。


 これは、昔の偉いお坊さんが、恋を忘れた哀れな男に勧めた、琥珀色の飲み物?!


 コーヒーの香りじゃないか!!




 マティアスくんによれば、この辺りは食材街の中でも外れの方に位置する、いわゆる問屋街に相当する一角らしい。


 お店といっても、ぱっと見ただけだけでは、どんな物を扱っているのか良く分からないところも多い。

 食材街の入り口付近で商いをしている、店先に目玉商品がどーんと置いてあるような、いかにもな感じのお店は一つもない。


 むしろ普通のお家か、でなかったら倉庫のようにしか見えないような店構えのところだらけだ。

 なんだろう? 昔の回船問屋みたいな感じ? しかもそれらは洋風な佇まいをしている。この辺りには川や海はないから、さらに不思議な感じ。


 ただ、すれ違うのは、いかにもな料理人風というか、職人風というか、そんな出で立ちの方ばかりで「やっぱり、ここって専門街なのね」と思わせる。

 いかにもな魔導士然としたマティアスくんと、クラシックなメイド服姿のわたし。彼らからは、いったいどんなコンビに見えているのだろう。




 そんな、マニアックなこだわりの店が軒を連ねる独特の雰囲気の中、懐かしのコーヒーの香りを漂わせるその店はあった。


『ウルリッヒの店』


 出入り口の扉の脇に、まるで表札のように掛けてある看板には、そう記されている。

 看板にはそう書いてあるだけで「表札にしては少し大きいかな」とは思うけど、なんのお店かも分からない。


 だって見た目は、他の洋風回船問屋とは一線を画す、日本の明治時代に建てられたようなレトロかつモダンな建物なんだよ。


「開いていて良かった。今日はやってるみたいです」


 マティアスくんは、ほっとしたように、その看板を指し示す。


 わたしが訳が分からず、きょとんとしていると、彼は掛かっていた看板をくるりとひっくり返した。


 そこには『今日はお休み。またおいで』。そう書いてあった。


 なんと、それは日本でも多くの店舗が採用している“ひっくり返す方式”で、営業を知らせる看板だったのだ。




 わたしたちは看板をそっと元に戻すと、小さな入り口から、お店の中にお邪魔した。


 香辛料と香辛料の香りが入り交じった店内は、一瞬のうちにわたしをエキゾチックな旅へと連れ出す。


 まず目を引くのは、真ん中にある大きな三つの長机。

 それは、まるで大海に浮かんだ長細い島のようにみえる。その上には、やや小振りなツボが島に生える木々のように所狭しと並べられている。


 ツボの口を丁寧にふさいでいる蓋には、それぞれに品名や短い説明が書かれてあって、それらを一つずつ読んでいくだけでも楽しそうだ。


 そして、壮観なのは、左右の壁一面に配された引き出し式の棚。

 いったい全部で、いくつあるんだろう。とにかく、たくさんあるのだ。


 天地左右、それぞれ20㎝足らずの正方形の引き出しがずらりと並び、それら一つ一つにも品名と説明と思しき文字が書き連ねられている。

 端から順番に、それを読んで中身を想像する。

 そのあとおもむろに、引き出しを手前に引いて中身を確認。

 許されるなら、それらを小皿にでも取って、ぺろりと味見もしたい。


 そんな一瞬の、わたしの脳内旅行を現実へと連れ戻すのは、しびれるような南国風の情熱の芳香。


 それは、わたしが愛してやまないコーヒーの香りだった。




 その香りが漂ってくる、大元に視線を投げれば、そこに佇んでいるのは、魔導士というより、中つ国の偉大な魔法使いと呼んだ方がピンとくる御仁である。

 グレーのローブに、ご立派な真っ白な顎髭。漆黒の瞳には、なにか悟りを開いたかのような哀愁を漂わせ、コーヒーマグらしきものを片手に、わたしたちに笑いかけている。


「この方は、ウル翁。僕のお師匠様なのです」


 なんと、マティアスくんのお師匠様。

 独学で宮廷魔導師の試験を突破した彼をして、この御仁には絶対敵わないと言わしめるのだ。


 なにしろ、その昔、この国の魔導士を資格制にして、そこへ試験を導入した方らしい。

 魔法というのは便利なようでいて、一歩扱いを間違えると危険なものなのだ。


 魔力の高い、けれど初心者の魔導士が、その資質だけに頼って暴走し、自らの力に飲み込まれてしまうのは何とも悲しいことだ。


 そう考えたウル翁は、全国魔導士協会を立ち上げ、流派関係なく安全な魔法の使い方の指導に当たったそうである。


 宮廷魔導士を、その基準を明文化して試験制にしたのも、このウル翁。

 それまでの宮廷魔導士と言えば、魔法の実力よりも、その立ち回りが重要だったという。

 要するに、政治的なドロドロを排して、本当に実力のある者を召し上げたいという王室の意向にも沿ったのだ。

 そしてそれは、地方で燻る若い魔導士たちを老獪な貴族たちから守ることにも繋がったという。


「地方出身の僕が宮廷魔導士に取り立てられたのも、ウル翁の著した書物で勉強したからなのです」


 ほうほう、各種試験に対応した傾向と対策的な参考書まで出しているのか、この御仁は。


 でも前に聞いたことがあるんだけど、マティアスくんが宮廷魔導士になったのって、ちょっと昔の話よね。

 その頃には、もう、試験制になってたってこと? ということは、その頃にはこの国の魔法体系も整っていたってこと?


 ええっ、試験制になったのは、マティアスくんの生まれる、ずっと前のこと?

 それどころか、魔導士協会の設立って、それよりも遥かに昔のことだったの?


「僕が、子どもの頃初めてお会いした時も、王都に上京した際にお世話になった時も、そして今日もウル翁様はのお姿は変わらないのです」


 いつもお元気そうで何よりです——。


 いやいやいや、マティアスくん、問題はそこじゃないでしょ。


 そんな昔から、この国でご活躍されていた方だよ。

 いったい、ウル翁殿は、今おいくつなのだろう。


 わたしの想像しえる年齢からすれば、随分と矍鑠かくしゃくとしていらっしゃるのだけれど。


 改めて拝見するウル翁のご尊顔は、ベテラン魔法使いというより、もはや仙人のように見えてきた。

 もしやご出身は人が立ち入ることもない、深い森の中に築かれた都だったりするのかな。


 そんなわたしに、ウル翁は笑顔と顔の皺を深め、唇に人差し指を添えて片目をつぶる。


「ひ・み・つ♡」

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