炎 情

七生 雨巳




 じりじりと意地の悪い舌先が白い脚の裏を舐める。指先が、甲が、引き連れる。一際伸びた赤い炎がくるぶしを覆う生成りの襤褸の裳裾を喰らおうとするも、水に浸されたそれは炎を受け入れることなく、ぽたりと水滴をこぼした。

 杭に括り付けられた若者の食いしばったくちびるを裂くのは、苦痛のうめきである。堪え切れぬ悲鳴である。

 光を受けて艶やかに緑を宿した黒髪は手荒に刈り取られ、白く男のものとも思えない滑らかだった首筋には何度も縄をかけられ引きずられただろう跡が生々しい。

 からだをよじるたびに、顔を覆っていた白い布が気流に煽られ若者の顔を露わに晒しては隠す。ちらりと布下に覗かせたその整ったおもてに、それを見ることがかなった群衆どもは息を呑み、生成りの襤褸に覆われたからだのあちこちにあるだろう拷問の跡を想像して、唾を飲み込んだ。

 侵しがたい気品すらにじませた放浪の薬師であるという男が、命を助けた女帝にすげなくした。結果異端の魔術師として拷問にかけられた挙げ句、火刑に処されているのである。

 彼を異端の魔術師と決定づけたのは、今や姿を現した、黒曜石のような鱗を持つ一頭のドラゴンの存在であった。

 彼の首に巻きついていた漆黒の首飾り。そのドラゴンの見事な意匠はみすぼらしい身なりであった彼には不釣り合いであった。まさかそれが本物のドラゴンであるなどと、誰一人として想像してはいなかったに違いない。




*****




 若者は常に顔に布を被っていた。

 その下にあるのは二目と見れぬ醜い顔であろうと、城に招かれた若者に対して眉を潜め面白おかしく噂する貴族たち。

 女帝は噂を知ってかしらずか、止めはしなかった。

 しかし、若者が城に滞在して数日が経とうという頃には、女帝の若者に向ける眼差しが熱を帯びていることに側近たちは気づいた。

 まさか。

 誰しもが己の目にするものを疑った。

 彼女は生まれながらの女帝だった。

 気高く傲慢で癇癪持ち。

 己のわがままが叶わぬことなどありはしないと、幼い頃から学んでいた。

 他人の持つもので気にいるものがあれば一言「欲しい」と言えば献上される。そんな存在であった。

 例えば、欲しいものが他人の恋人や婚約者、伴侶であったとしても、叶えられた。

 ただ、ごくまれに存在した拒否する相手には、癇癪を起こした。そうすれば、周囲が説得したからだ。

 不機嫌な女帝は、周囲に当たり散らす。

 手にしたものが鞭であればそれで、ペンであればそれで、なければ手近にあるものを、打ち付け、投げつけた。

 それを止めるものも、嗜めるものも存在しない。

 そんな彼女が、顔を隠した若者に笑いかけ、機嫌を取ろうとした。

 「おいとまを」と、周囲が若者を遠ざけようとするよりも早く若者自身がそう言い出し、分別のある者だと感心された。

 女帝の愛人になれば、元は卑しい身分のものであれ、権勢を振えるようになる。一旦そうなれば、彼らが頭を下げなければならない。下賤なものに。出自の卑しいものに。そんなことはごめんだった。

 しかし、女帝は若者の言を認めなかった。

 若者の腕を抱え込むようにして上目遣いで「わたくしのことが嫌いかえ?」と甘い声で囁くありさまだった。

 そのやりとりが城中で何度も繰り返され、周囲も黙しているわけにはゆかぬと側近が動いた。

 側近たちにとって、若者はその辺の雑草のようなものに過ぎない。

 女帝を諫めるのは己の権力や命が危険にさらされる。

 若者を遠ざけるように進言することはそういうことだった。

 ために、策を弄した。

 若者が異端の魔術師であると、果ては魔性のものであると噂を広めたのだ。

 出どころが分からぬように広めればいいだけである。

 高位の貴族である側近たちには、そのための伝はいくらでもあった。

 しかし、恋する女帝は、その噂を否定する。挙げ句、魔性のものであっても構わないと言い出す始末だった。


 その間、若者は城中に留め置かれた。

 出て行こうとするたびに、女帝に命じられた騎士たちが動く。

 薬師にすぎぬ若者には、騎士たちに適うだけの身体能力はもとよりなく、部屋に戻された。

 ある夜、宰相が若者の部屋をおとなった。

「陛下を救ってくださったことには感謝している。が、今の状況はどの見地からも望ましいものではない」

 ソファに座ることもなく立ったままで言う宰相に、

「ええ。私をここから出してくだされば」

「いいだろう。ついて来い」

 騎士を押しやり、宰相が若者を先導する。

 そうして女帝居室のある棟を出ようとした時、

「どこへ行くつもりぞ」

 こわい声だった。

「陛下っ」

 叫び頭を下げるのは、宰相である。

 若者は、

「今までのご厚遇感謝いたします」

 いいざま踵を返す。

 深夜の闇を照らす琥珀色の篝火の揺らめく空間で、

「ならぬ! ならぬぞ」

 絶叫に次いで、

「なぜじゃ。其方はなぜわたくしの想いを受け止めぬ。受け入れればどのような栄耀栄華も思いのままであるというに」

 縋り付いてくる甘やかな匂い。その妙齢の女性特有のからだのやわらかさを背中に感じながら、

「すべて、私には分不相応にて」

 振り返ることもしない。

「わたくしがお前の愛を乞うているというのに。このわたくしがじゃぞ」

 愛しているのじゃ!

 身も世もない告白だった。

 しかし。

「申し訳ございません。私には情人がおりますので陛下のお心に添うことはできかねます」

 静かな、悲しそうな声音で告げる。

 その雰囲気が女帝の心の何かを弾いたのだ。

「不敬よな」

 氷点下の声だった。

「わたくしに背中を向けたままとはなぁ」

 こちらを向け!

 鞭の撓りにも似た鋭い命令口調だった。

 若者がゆっくりと女帝の方へと方向転換をする。

「これもとらぬかっ」

 若者がかぶる布をその細い手で薙ぎ払う。

 整えられた爪が若者の頬にかすかな血の筋を描いた。

 ひらりと落ちる布。

 しかし誰ひとり布に気を取られるものはいない。

 なぜなら。

 布の下から現れた若者の顔に目を奪われたからである。

 象牙のように艶やかなその輪郭の中、秀麗な容貌を描き出す目鼻立ち。

 静謐で穏やかな慈愛を湛えた夜空を写した闇色の眼差し。

 男であれ女であれ、見惚れずにはおれないであろうほどの。

 息を忘れたようなひととき、その雰囲気を砕いたのは、

「宰相、此奴を捕まえよ」

 女帝の声だった。

 否はない。

「わたくしから、首飾りを盗んだ盗人ぬすびとだ」

 若者の首を飾る黒曜石のようなドラゴンの意匠の首飾りを引き千切る。

 細かく断った鉱石を繋げ、目に紅いガーネットを、爪の部分に金を、牙の部分にオパールを用いたような、繊細な細工物であった。

「それはっ!」

 夢から醒めたような女帝と若者以外の者たちの目の前で、硬い音を立てて首飾りが女帝の手に握られる。

 小指の爪についた若者の血が、一滴にも満たぬそれが、ドラゴンの意匠の牙に触れた。

 刹那、首飾りが小刻みな音を立てて震えた。

 女帝が首飾りを捨てる。

 床に落ちたそれから、閃光が迸り、止んだ。

 眩い光が消えた後、そこには一頭の黒いドラゴンの姿があった。

 揺らめく篝火をその鱗の一枚一枚に映し、金色のドラゴンででもあるかのように見えた。

 ヒッ−−−と、誰かが息を吸った。

 女帝と宰相との前に盾となったのは騎士たちである。

「お下がりください」

 シャランと鞘走る音が複数聞こえた。

 聖銀製の剣が篝火を弾く。


 魔性のものでも構わない。


 そう言った己を、女帝は後悔した。

 初めて目の当たりにする真の魔性−−−ドラゴンはとても恐ろしいものだった。

 そうして−−−。




*****




 止めるのではなかったと彼は思った。

 胸に宿るその痛みこそが、肉を焼かれる痛みよりも強かった。

 けれど、痛みは痛みだ。

 痛い。

 呻く。

 呻かずにはいられない。

 叫ばずにはいられかった。

 女帝の心の痛みも、弟の痛みも、すべてが我がもののように彼に襲いかかってくる。


 弟−−−。


 聖銀の鎖に縛りつけられ、太い杭に繋がれた漆黒のドラゴン。彼の悲鳴に弾かれるように全身を膨らませ、その度に皮膚と鱗の間に聖銀の剣を差し込まれている。流れる青い血。剥がされる漆黒の鱗。

 それこそが、若者の弟だった。

 それも、紛れもない双子の弟である。


 若者の脳裏に走馬灯が駆け巡る。


 輝かしかった神の園。

 主神とその妻である女神の最初の子として彼は生まれた。

 双子の弟が生まれた瞬間、女神は死んだ。

 弟の持つ膨大な力に彼女は耐えることができなかったのである。

 そうして、愛した妻の死に激怒した主神は心のままに弟に力を振るった。

 バラバラになった弟のからだを集めて繋ぎ合わせたのは兄である。

 最愛の女神の生んだ我が子であると言うのに、主神は興味を抱かなかった。それどころか、あらゆる生き物と関係を持ち、それらとの間に生まれた子を園に招いて可愛がった。

 それは愛玩動物に対するものと同様の愛情であるように見えたが、与えれるはずのものを与えられなかった双子の目には輝かしいものとして映ったのだ。

 そうして、いつしか、違いしかその目に映さないようになった。

 それは弟にこそ強く現れた。

 弟は、兄に対する愛情を隠すことなく、独占欲を抱くようになっていった。

 それはある意味、甲斐のないように思えたろう。

 彼の兄、主神の第一の御子は、寛容と慈愛の神であったからだ。

 どこまでも深い愛と許容を持つ、美しい神であった。それゆえに園に招かれたものたちは、一度は兄神に惹かれる。そうして、弟神に妬み嫉みを向けることがあった。

 弟神の男らしい美貌は兄神に向ける笑みを他のものには向けなかった。それゆえ、実のところ彼に惹かれるものもいたのだが、無視される現実に逆に憎しみを向けるようになると言うこともあったのだ。

 園の平穏を乱すとして、二人は園の外れの森の中に館を建てて暮らしていた。

 弟神の兄神に向ける眼差しに、恋情が籠るようになったのはいつからだったのか。

 主神以上に力を持つ弟神に、神の力を持つとはいえど兄神が適うはずもない。

 元より、寛容と慈愛の、許容の神である。

 それらが、すべての過ちの下地となったのに違いない。

 引き倒されたきっかけがなんであったのか、既に兄神は覚えていなかった。

 したたかに感じた床の硬さどよりも、己を引き裂いてゆく弟神の陽根の硬さが熱が痛みこそがよほど生々しい。

 兄と弟である。

 同じ父と同じ母を持つ、双子の。

 苦悩も悩みも、すべては心の奥底深くに沈殿していった。

 表面上はいつもと変わらずに。

 ただその苦痛は悩みは、憎悪の域には達することなく。

 グルグルと心の奥底で蟠る。

 沈殿する。

 一度で済むことなく弟神による兄神に対する行為は、繰り返される。

 それを見たのは、母親違いの神々の誰であったのか。

 園に二神の関係は広がり、やがて主神にまで届いた。

 怒れる神、嫉妬する神。全知全能でありながら他者を疑わずにいられない神は、弟神が己の地位を狙っていると言う疑いを消すことができなかった。

 ために、それを好機と見て二神を園から追放した。

 その際、二神の力を封印した。なぜなのか主神の力を持ってしても、二神から力を奪い取ることができなかったためである。ただ、その時、弟神はなぜか漆黒のドラゴンへと変貌を遂げた。

 そうして神々の園を追われた二神は、人界を彷徨うことになったのだ。


 神の力を封印されても、老いることも死ぬこともなかった。

 飢えることも渇くことも。

 だから彼らは見つけた洞窟で深い眠りについた。

 どれだけの時を眠って過ごしたのか。

 救いを求める声に目覚めた。

 そこは乱世だった。

 人が人を殺し、巻き込まれた動物たちも逃げ惑う。

 奈落もかくあらんばかりの赤黒い時代だった。

 そんな時代にあっても、親の怪我を、兄弟の怪我を、死を嘆き救いを求めるものがいる。

 そうして、彼らに覚醒を促したのは、肉親の怪我を嘆き悲しむ泣き声であったのだ。

 ドラゴンを連れた薬師の噂は広まり、さまざまな理由から狙われるようになった。

 逃げ隠れるうち、弟神は己の血を流せばその血にわずかばかりの力が含まれていることに気づいた。それを使えばドラゴンの姿を変えることができるのだと。ただし、生き物には変わることができなかった。幾度試しても、彼が変わることができるのは、無機物だけであったのだ。

 だから、弟神は兄が身を守るためにも、常に兄神とともにあるためにも、首飾りになることを選んだのだ。

 そうして兄の首を飾って幾星霜。

 兄神は放浪の民と行動を共にした。

 おおらかで仲間意識が強い彼らの中で薬師として暮らすことで、兄神の心が癒されてゆくのを弟神は感じていた。

 己の行為が寛容と慈愛の神であった兄神を傷つけていたことに、ようやく気づいたのだ。




*****




 そうして今。

 兄神が彼の目の前で燃えている。

 兄神が止めなければ、あの時、聖銀の剣を向けられようと彼らを殺し逃げることができた。

 落とされたとはいえ、己たちは神なのだ。

 魔物ではない。

 魔性ではないのだ。

 しかし、兄神が苦しむたびに戦慄するドラゴンの皮膚から浮かび上がった鱗の隙間を目掛けて聖銀の刃が突き立てられる。

 その時の痛みは、彼を苦しめた。

 しかし、焼かれる兄の比ではない。

 滴る血が多ければ多いほど封印された力が溢れ出す。

 だから。

 いくらでも鱗を剥げばいい。

 やがてたまった血に混じる力がお前たちを殺すだろう。

 怒れる神のさがを、己は紛れもなく受け継いでいる。

 だからこそ、兄は寛容の神であり慈愛の神であるのだ。

 双子であるからこそ、対の神。

 兄は自分を止めるだろう。

 しかし、許しはしない。

 命を助けた兄神に恋をしたことはまだいい。受け入れられないと拷問の後の死刑を命じた女帝も、兄神を蔑み魔性と決めつけ火刑に処したものたちも、面白い見せ物だと集まったものたちも、許しはしない。

 兄神がどれほど嘆こうと悲しもうと、これは譲れない。

 譲ることはしない。

 彼の怒りを収めることができるのは加害者や傍観者の苦しみもがく姿だけだった。



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