第48話 馬場香織・九日目午後
目が覚めると、びっくりすることにお昼を過ぎた時間だった。
昨日、ナミとの勉強を頑張りすぎたからだろうか。
「ううん。それにしても、どうして斎藤先生は起こしてくれなかったんだろう」
退院の勉強を始めてから、いつも斎藤が時間になったら呼びに来てくれていたというのに。それとも、もう一人の退院患者、ジュンの相手で忙しかったのだろうか。
「とりあえず、身支度をしておこう」
退院の訓練の一環として、昨日ナミが洋服やメイク道具を貸してくれたのだ。可愛らしいワンピースを着るなんて、ここに入院してからなかったことで、それだけで気分がうきうきとしてくる。
「ちょっとあれかなあ」
ここに戻って来てしばらく点滴生活だったので痩せてしまった身体には、ナミの貸してくれたワンピースは少し大きく感じた。それでも、ふわっとスカートを広げてみると、漫画の主人公になったようで嬉しい。
「まあ、いいか。えっと、まずは」
次に普段は歯磨きの時しか向き合わない鏡に向かい、香織はメイク道具の入っているポーチの中を探る。昨日、一通りナミから説明を受けているが、自分でやるとなると、色々と戸惑ってしまった。
「塗りすぎかなあ」
ファンデーションはこのくらいでいいのか、少し不安だが、後はちゃんと出来ていると思う。アイラインも不器用ながらちゃんと引けた。
「なんか、不思議な感じ」
化粧をした自分の顔を見るのは、今まで生きてきた記憶にない過去を含めても初めてだろう。だから余計に、綺麗になった自分というのは不思議なものだった。
「よし。まだかな」
準備万端と思うと、早くこの姿をナミに見せたかった。しかし、そわそわしているのも妙な気がして、気分を落ち着けるようにベッドに腰掛ける。
見慣れたこの風景ともうすぐ別れるのかと思うと、不思議な気分になった。ベッドとテーブルとイスと一緒になったトイレ、そして鉄格子の嵌った窓と、御世辞にもいい部屋だとは言えないここだが、香織の記憶の大部分はこの部屋で過ごしたものだ。
「妙ね。寂しいと思っちゃうなんて」
退院したら、二度とここには戻って来ない。そう思うと、不思議な気分になった。これから何一つ解らない世界に出て行かなければならない不安もあるからか、もう少しここにいたいような気持ちになる。
「ううん。前を向かなきゃ」
せっかく病気が治ったと、斎藤が認めてくれているのに、それを無碍にするようなことはしてはいけない。交通事故にも遭ったらしいけど、こうして無事に生きているのに。
「そう、生きているのよね」
それは初めて実感したような、不思議な感傷だった。
今までの生活はずっとこの部屋の中で、生きているといっても、単調でつまらないものだった。それがこれから大きく変わるのだ。
「不思議」
香織がしみじみとそう思っていると、ドアががちゃりと開いた。と、そこにいたのはナミだ。
「あっ、ナミ」
「遅くなってごめんね。ああ、ちゃんと出来ているわね」
ナミはすぐに香織の横に座ると、嬉しそうに笑った。それに、香織はちゃんと出来ているかなと顔が赤くなる。
「大丈夫よ。綺麗ね」
「ちょっと、やめてよ」
「ふふっ、本当だからいいじゃない」
ナミは本当に嬉しそうに笑うと、優しく香織の頭を撫でる。そう言えば、まだ髪を梳かしていなかった。
「髪」
「あら、まだだったの」
「うん」
「じゃあ、私がやってあげる」
「えっ」
「退院したら、やってあげられないんだから、いいでしょ」
「ええ、まあ」
やや強引に感じたものの、ナミにやってもらえるのは嬉しい。香織は化粧ポーチの中に入っていた折り畳み式の櫛をナミに渡す。
「お願いします」
「お安い御用よ」
ナミは長く伸びた香織の髪を丁寧に梳かしていく。それは初めてのことのはずなのに、なぜかとても懐かしい気持ちになった。
「変ね。前にもやってもらったような気がする」
香織が思わず呟くと、ナミの手が一瞬止まった。しかし、すぐに動き出すと
「昔、お母さんにやってもらったんじゃない? そういう記憶が呼び覚まされているのね」
と穏やかな口調で告げた。
「ああ、そうか。まったく覚えていないけど、そうかもね」
両親はすでにいないというから、その記憶を取り戻しても仕方がないなと香織は苦笑してしまう。それに、こうやってナミにやってもらった記憶さえあればいい。
ナミに髪を梳かされるのが気持ちよくて身を任せていると
「髪形もアレンジしてあげよう」
悪戯っぽくナミがそう言う。
「えっ」
「任せて。これだけ長いんだもの。両サイドを三つ編みにしてあげて、一つで束ねておくと、少しすっきりしてワンピースにも合うわ」
「へえ」
よく解らないけど、似合うならいいや。香織はナミにお任せすることにした。
三つ編みって複雑なんじゃないかなと思っていたが、ナミは手慣れたもので、ほんの数分で香織の髪形を整えてくれた。
「いいわ。鏡を見てみて」
ナミが満足そうに言うので、香織は立ち上がって鏡を覗き込む。すると、二つの三つ編みが後ろで束ねられた可愛らしい髪形になっていた。
「凄い」
「ふふっ、でしょ」
ナミはとても嬉しそうだった。まるで自分のことのように喜んでいる。その顔に少し違和感を覚えたものの、香織は素直にお礼を述べた。
「ありがとう」
「お安い御用よ。さっ、談話室に行きましょう」
「うん」
ナミと一緒に病室から出掛けるというのも初めてで、香織は嬉しくなる。廊下はいつも通りに寂しい場所だったけれども、そんなことも気にならない。
「さて。私はちょっとの間だけ外すけど、香織、ちゃんと勉強しててね」
しかし、談話室に着くとすぐ、ナミは用事があるのだと言う。ノートパソコンを渡され、ええっと不満な声を上げてしまった。
「大丈夫よ。斎藤先生に頼まれていることを片付けないと」
「あっ、それってもう一人のジュン?」
「ええ。斎藤先生も色々と忙しいから、私がお手伝いしないとね」
「じゃあ、仕方がないか」
香織は昨日今日と現れない斎藤を思い、素直にノートパソコンを持ってテーブルに向かう。だからナミが小さく
「さようなら、私の可愛いナミ」
と呟いたことなんて、気づくこともなかったのだった。
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