第45話 小松潤・九日目午前
驚かされた。
まさか土屋が斎藤を眠らせてしまうなんて。
昨日、ここを出てからどうすべきかを考えていた潤は、部屋をこっそりと抜け出した。
土屋か斎藤に見咎められたら、すぐに部屋に戻ればいい。そう考えての行動だったが、とんでもない現場を目撃してしまったのだ。
「これは必要なことなの。目撃してしまったのならば、手伝ってちょうだい」
しかも、土屋は怒るどころか、潤を仲間に引っ張り込んだ。その後、二人で何とか斎藤をベッドの上に運んだ。それから土屋は斎藤の腕に点滴を手早く繋ぎ、一応と斎藤の腕と足をベッド柵に拘束した。
「何で斎藤を眠らせて拘束するんだよ」
やっていることがおかしくないかと、潤はそこまで黙って手伝ったものの、ついに我慢できなくなって訊ねた。
「だから、必要なのよ。この人が証人になるんだから」
「えっ」
「実験をやったのも、今起こっている殺人事件を起こしたのも彼よ。斎藤先生はそのまま自殺して片を付けるつもりだったみたいだけど、それでは不都合が大きいわ。でも、そのまま警察に赴いて証言されるのも困ることが多い。そこで、少し細工をするの」
平然とそう説明する土屋を見て、ああ、こいつもやっぱり研究者だなと潤は実感した。そして、取引するならば今しかないと決意する。
「じゃあ、全部手伝うから、俺のその後の人生を保障しろ」
「えっ」
土屋は意外なことを言われたという顔をする。しかし、潤にとっては重要なことだ。
「今後、俺の身体が研究に使われるようなことはないようにしろ、って言ってるんだよ」
「ああ、そういうことね。解りました。では、そのためにも斎藤先生には頑張ってもらわないと」
「何だって」
自分の代わりに斎藤を実験体にするつもりか。それは本末転倒な気がして、潤はつい土屋の腕を握って止めていた。しかし、その手を土屋が空いた方の手で掴む。
「彼はすでに殺人犯なのよ。どのみち、何らかの方法で罪を償わなきゃいけないの」
そして、そう諭してきた。
今までの潤だったら、そこで頷いていただろう。しかし、今の潤はこの土屋に関して急速に疑念が強まっていた。しかも、味方だった、それも土屋七海を尊敬している斎藤をあっさりと見捨てるような行動をしている。
それが決定的となって、潤は土屋には協力できないと判断する。
「あんたが唆したんだろ」
だから、勢いのままにそう言っていた。
「あら」
土屋はびっくりした顔をしたが、
「そうね。そう、私が彼に破滅の道を示したのよ。ここで起こったことを明らかにし、ナミの死を無駄にしないためにね」
すぐに蠱惑的に微笑むと、そう言い返してきた。
この時、潤は初めて土屋が怖いと思った。それと同時に、まだ自分が知らないことが何かあると直感した。
「お前」
気づくと、土屋を押し退け、潤は部屋を飛び出していた。
それからずっと、研究所の中を彷徨い歩いている。幸い、土屋は追って来ない。しかし、そのうち捕まえに来るだろう。その予感はある。
だから、何としてもそれまでに潤は土屋が隠しているものの正体を探る必要があった。
「ここの研究を明らかにしたいだけじゃない、か」
あの時、土屋はナミの死を無駄にしないためにと言った。そこに何かがありそうだ。
なぜなら、ナミは交通事故で死んだはずだからだ。この研究所が絡んでいるはずがない。
「ん?」
それに思い至った時、強烈な違和感に襲われた。
ナミは交通事故で死亡。
カオリは交通事故で死にかけていた時、ここに運び込まれて救われた。
「なんだ、これ」
たまたま、だろうか。
交通事故なんて珍しいものではないはずだ。しかし、たまたま生き残った二人が交通事故に関わっているというのは、なんだか気持ち悪いものを感じる。
「一体どうしてだ? いや、どうしてというのはおかしいのか」
気持ち悪さの正体を掴めずに、潤はううむと腕を組む。と、その時、どこかでどんっと大きな物音がした。
「な、なんだ!?」
潤が大きな声を出すと、どんどんっと大きくドアを叩く音がする。
「だ、誰かいるのか」
潤はきょろきょろと首を動かして周囲を探る。今いる場所はかつて実験体たちが閉じ込められていた個室が連なる区画だ。壁は防音されているはずなのに、どうして音がするのだろう。
「あっ」
しかし、唯一の例外がドアだと気づく。ドアは研究者が中の様子を窺えるようになっているため、唯一防音仕様になっていない。左右の音は完全に遮断される病室内だが、廊下を歩く足音は聞こえるのだ。
「ど、どの部屋だ」
どこかの部屋に人がいるのだと解っても、それがどこか解らない。一つずつ覗いて確認するしかないのだろうか。しかし、そんなことをしていたら、土屋に感づかれるのではないか。
「くそっ」
どうしようかと思っていると、再びどんどんっと音がした。確実にこの近くだ。潤はそっとドアに近付き、順番にドアをノックしてみた。すると、三つ目でどんどんと向こう側から叩き返してくる。
「ここにいるのか」
潤はドアの取っ手を回そうとしたが、鍵が掛けられている。それは当然かと潤は舌打ちした。しかし、研究者が中を確認するための覗き穴のカバーに手を掛けると、そこがスライドして開いた。
「おいっ」
「ああ。あんたが犯人か!?」
「は?」
犯人だって。
一体何を言っているんだ。
しかも中にいたのは見たことがないおっさんだった。顔には疲れが滲み、目がぎょろぎょろとしていて血走っている。
潤は思わずドアから離れていた。
「もういい加減出してくれ! 出してくれよう!!」
さらにそのおっさんが潤に向けてがなり立てる。
それはまるで、昔の自分たちを見ているようだ。
「あっ、ああっ」
何をされるのか解らないまま手術を受け、隣には死体があるかもしれない世界。
ついこの間まで日常だった、非常識な世界。
潤は恐ろしさに逃げ出していた。
「出せ! 出してくれぇ」
男の悲痛な叫び声は、潤の恐怖心をますます刺激する。
この場にはいられない。
「出せぇ」
これはまるで、かつての自分ではないか。
「や、嫌だっ!」
ばたばたと廊下を駆け抜け、下の階に降りる。そして、近くにあった部屋に飛び込んでいた。
「こ、ここにはまだ、実験を受けている奴がいるのか」
暗い部屋の中、潤はがたがたと震える身体を丸め、今見たものが何なのかと混乱する頭を必死に動かす。
少なくとも、あいつは何も解らないまま閉じ込められているようだった。
「いや」
気持ちが徐々に落ち着くと、彼が実験を受けているわけではないことが解る。あのおっさんは自分のことを犯人だと呼んだ。
「でも、どういうことだ」
なぜ研究所に関係ない人間がここに閉じ込められているのか。まさか、土屋はまだ何かやるつもりなのか。
「何なんだよ、あいつ」
得体の知れない恐怖が再び込み上げて来て、潤は再び身体が震えてしまい、しばらくその場から動けなくなってしまうのだった。
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