第43話 斎藤隆一・八日目

 実験をナミに任せることになったため、斎藤は部屋で後始末を始めていた。

 まず、もう使うことのない実験器具の電源を落とし、カバーを掛ける。ついで、警察に渡すための資料を作る。

 この二つだけでも意外と時間を食ってしまった。特に一連の事件、斎藤がこの事件を起こしたことについて自白する文章は、論文とは違って感情が入ってしまうためか難しかった。机に向かうこと数時間、いつの間にか夕方になってしまっている。

「ふう」

「順調みたいね」

 一息吐いたところで、ナミが斎藤の部屋へとやって来た。そのナミも疲れた顔をしていることから、二人の相手は大変だったようだ。

「何とかレポートは出来ましたよ。あの二人はどうですか?」

「ジュンは順調よ。ちょっと色々と気になっているみたいだけど、それでもここで起こったことも、自分のこともしっかり理解しています。でも、カオリはちょっと問題が多いですね。ひょっとしたら、ここを出てからも少しサポートが必要かもしれません」

 ナミが困ったように報告する。ナミも自分の体のことを気に掛けなければならないから、カオリを全面的にサポートすることは出来ない。それが気になるようだ。

「もし駄目ならば、前回のように、どこかの病院に任せるのが一番でしょう」

「ええ。土屋七海の名前を出せば何とかなるはずですね」

 ナミは頷いたものの、出来ればその方法は採りたくないようだ。退院できると言っている以上、その言葉通りに外の世界を体験させてやりたいと考えているのだろう。

「無理はしないように」

「解っています。それで、斎藤先生に関してですけど」

「はい」

 そうだ。自分の問題もあるのだったと斎藤はナミを見た。

 やはり、そこにいるのは土屋七海だと勘違いしそうになる。しかし、彼女が土屋七海のはずはないのだ。土屋は事故で死んだ。大学からの帰り道、それも、大きなシンポジウムをこなした後での事故だ。

 あれが、ナミのはずはない。彼女にはそこまでのことは出来ない。

 しかし、それならば、目の前にいるナミはどうなのか。事故からの半年で、必死に土屋七海をコピーした彼女は。

「どうかしましたか?」

 ナミが心配そうにこちらを覗き込んでくる。その顔は、ああ、やっぱりナミだなと思うものだ。土屋は絶対にそんな顔をしなかった。

「いえ、少し疲れただけです。それよりも、何かいい策がありましたか」

 斎藤は妙な考えをしていたものだと、すぐに気を取り直して質問する。

「はい。七海が残していた資料に、丁度いいものがありました」

 土屋七海の名前に、斎藤の目の色が変わるのが解った。ナミは思わず溜め息を吐きそうになるのを堪えると

「血液の成分を一部置き換える、というものです。これは、いわば治療の応用ですね。本来は赤血球に異常が見られた場合、それを正常な赤血球に置き換えるようなもの、と言えば、先生にはすぐに理解できるでしょう」

 と説明した。すると、斎藤は解るよと大きく頷いた。

「貧血の治療に使われる手法ですね。しかし、まさか貧血を起こさせるのですか」

 逆にわざと一部を悪くした赤血球をこの身体に投与しようというのか。斎藤はそれで目的が達せられるのかと懐疑的だ。

「貧血ではありません。今のは例えですから」

「ああ、そうですね」

「それに、聞いてしまうと構えてしまうでしょう。何かは知らない方が、私たちと同じ気持ちを味わえるでしょうし」

 ナミがあえて被験者のことを持ち出すと、斎藤の顔色が僅かに暗いものに変わった。しかし、すぐにその通りだなと頷いた。

「私だけ何が起こるか解っているというのは不平等ですね。責任を取るとはいえ、その部分もしっかりさせておいた方がいいでしょう」

 そしてそれでいいとナミの提案を承諾した。

「では、すぐに用意します。今日の夜にも実験を始めることが出来るでしょう」

「解りました。iPS細胞の操作は」

「大丈夫です。七海から何度か手解きを受けましたから」

「そうですか。ああ、そうだよな。君たちは双子なんだから、私的に習うことも出来たか」

「ええ」

 ナミは大きく頷くと、斎藤を残して部屋を出た。

「似ているな。いや、当然なんだけれども」

 その後ろ姿を見送ると、斎藤もまた机に向かう。しかし、ナミが行うという実験が気になって、すぐに続きに取り掛かることは出来なかった。

「例えば、明日が手術だと言われる気持ちとはこういうものだろうか」

 斎藤は机に頬杖を突くと、ここにいた検体たちはどういう気持ちだったのだろうと思案する。

 彼らは蘇った影響で、身体のあちこちが悪い状態だった。一度心停止しているのだから、血液循環が止まった影響で細胞が壊死している場所があるのは当然だった。この部分をipS細胞で置き換えるのが、この研究所で施す実験の第一段階だ。もちろん、それらは一気に行うことは出来ないから、自然と数回に分けて行うことになる。

そういう状況だからか、検体たちの誰もが手術を受けることも、点滴を受けることも当たり前だと思っていた。つまり、自分は今現在病気なのだと理解していたわけだ。

「それが徐々にエスカレートして、健康な部分までiPS細胞に置き換えようと考えるようになるんだよな」

 斎藤はいつしか石田のことを考えていた。一度の成功で、これならば総てを置き換えても大丈夫ではないかと考えるようになった石田。内臓が新しくなれば、それまでの不具合は消えてなくなるわけだから、確かに素晴らしいように思える。

 それは橋本も同じようなものだ。脳という場所の一部を新しいものに置き換えても問題がない。これだけでも凄いことだが、全部が取り換えることが出来るのならば、人間の寿命は大きく変わる。そう考えたわけだ。

 何もかもを作れるのがiPS細胞だ。だからこそ、新しいものを作って変えてやればいいというのは、当然のように出てくる発想だ。しかし、現実はそう簡単なものではない。一部の置き換えの成功が凄いことであるように、全部を入れ替えても生きられるというのは、夢物語だった。

 斎藤自身の研究対象である血液は、iPS細胞で作ろうとも、最終的に体内で新しいものに作り替えられる。だから、全身の血液が一度入れ替わろうと、それは人体への影響が少ないのだ。

 要するに、斎藤がやっていた実験は輸血と同じというわけだ。ただし、それを一度に大量に行うところが違う。今まであったものを無理やり抜き取り、新たにiPS細胞で作った血液に置き換えているのだから、やっていることは石田たちとは変わらない。

 だが、石田たちと違い、それらの血液は、徐々に、だが確実に体内で元々の自分の細胞から作られた血液に置き換わってしまう。そもそも、赤血球は百二十日で寿命を迎えて溶血される。白血球ならば数時間から数日の間に寿命を迎え、新たなものに置き換わる。サイクルが早いのだ。

「では、俺の研究は無駄だったのだろうか」

「いいえ。少なくとも、一つの命は救いました」

 独り言にナミが答えたかと思った瞬間、意識がふっと途切れていた。




『G県S川で石田さんと橋本さんの遺棄死体が発見された事件で、二人はG県に半年前まであった、独立行政法人機構、基礎病理研究研究所に勤めていたことを発表しました。また、警察は二人と同じ研究所で一時期一緒に働いていた斎藤隆一さんを探しています。

 斎藤さんは三か月前から行方不明になっており、事件に何らかの形で関与しているのではないかと考えられています。また、同じく行方不明になっている川上賢太さんもこの研究所に関係があるということです。警察は本日よりこの研究所についての捜査を開始し、かつて勤務していた人たちから詳しい話を聞くことにしています』


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