第42話 小松潤・八日目その二

「それより、あなたの考えを聞かせて」

 土屋もそれを痛感していて、潤の意見を求めた。今日、潤にカオリの様子を見てもらったのも、自分たちではカオリの治療に限界があると感じたためだ。

「そうだった。つまり、俺は完全に昔の記憶がない。そして思い出すきっかけもない。だから、今の自分が総てであり、余計なことを考えずに現実に向き合うことが出来る。

 ところが、カオリは前の記憶が多く残っていて、それが理解しようとするのを阻んでいるんだ。今と昔の差を埋めるためのものが見つからず、これ以上思い出しては駄目だというブレーキが自然に働いてしまうんじゃないか」

 潤の指摘に、土屋は思わず舌を巻いた。それは記憶喪失の人たちが遭遇する症状と似ている。それを潤は一瞬で見抜いたのだ。もとより聡明な人物だったが、潤はその状態を取り戻し、鋭い洞察力を発揮している。

「つまり、今のまま進めるしかないってことね」

「だろうね。無理にここのこと、理解させる必要もないんだよ。ここのことを表沙汰にしようとしているんだ。社会に出れば、いずれカオリの耳に入ることになる。それを待つのが一番だろうよ。あんたがナミとして現れたのも、結局はそのことに気づいていたからじゃないのか」

 それって今更じゃないのかと潤は訊ねる。

「ううん。あの子とナミは仲が良かったから、それを利用しただけよ。でも、結果としてよかったということね」

 しかし、それは意図して行ったわけではなく、何度もナミがカオリに接触していたという情報から選んだだけだった。ナミにとって、双子の姉以外に見る初めての同世代の女の子だったのだ。色々とお喋りしたかったのだろう。

「ってことは、あんたにとってカオリはナミの友達だから大切だってことか」

「えっ」

「だって、教え方が馬鹿丁寧だったからさ」

「――そうね」

 潤に対するものよりは、はるかに丁寧だろう。しかし、それは彼女が患者としての意識が強いためだ。いきなり対処を変えるわけにはいかない。これは先ほどのやり取りでも明らかにしたばかりだ。

 土屋が不服そうに顔を顰めると、潤はやれやれとばかりに肩を竦めた。

「で、斎藤は?」

「次の作戦のために出掛けているわ」

「ふうん」

「あなたにも、もうすぐここを出てもらうんですから、カオリのようにしっかり勉強しておいてよ」

 土屋はそう言うと、潤に部屋に戻るように言った。潤としても、まだまだ調べたいことがあるので歯向かうつもりはない。でも、言いたいことがあった。

「カオリのこと、大切に思っているんだったら、もっとちゃんと向き合ってやれよ」

「えっ」

「俺と違って、あいつは割り切れてないんだからさ」

 土屋は驚いた顔をしていたが、潤はもう何も言うことない。だからさっさと部屋へと戻った。そして、先ほどまでのことを、もう一度一人で考えてみることにした。

 ともかく、土屋と斎藤の計画は最終段階に入りつつあるようだ。これから先、どうやって生きていくべきか。潤だってちゃんと考えなければならない。

「とはいえ」

 住居と当分の生活費は、土屋が慰謝料として払ってくれるという。それほど慌てる必要はないだろうと考えていた。

 こういう落ち着いて考えられるところも、カオリとの違いだろう。しかし、どうしてそう落ち着いていられるのかは、自分でも解らなかった。おそらくは覚えていないものの、昔の小松潤の性格なのだろう。だが、それ以上に思い当たる節もないので、そう納得しておくのが一番だ。

 潤にとって今、最大の問題はここを出て警察に行くという指令を渡されていることだ。あの土屋が警察のアドバイザーになっているから、警察に行くのが最も効率がいい方法だという。潤もそれを検証してみたが、確かにここの問題を公にするという最大の目的を果たすには、警察の手に委ねてしまうのが一番だろうと思う。

 しかし、自分の身は安全なのかという疑問があった。

 死体が蘇った。これだけでもセンセーショナルなはずだ。さらには身体のあちこちがiPS細胞に置き換わっているという。果たして、ここから無事に出られたとして、その先は実験体から脱出できるのか。

「無理だろうな」

 研究者というのが厄介な生物であるらしいことは、潤も十分に理解している。実際、自分の身体のことだって不思議で仕方がない。だったら、それを解明しようと動き出すはずだ。

「また捕まってたまるか」

 そこが一番の問題なのだ。

 生活の安全の保障を、あの土屋が守ってくれるかどうかは不明だ。下手すれば、あいつが他の研究者と組む可能性だってある。では、どうすればいいのだろうか。

「警察に行くのはいいが」

 自分がそのままのこのこと警察の世話になっていいのか。そこだけが疑問だ。

「どうするかな」

 潤はこの時初めて、部屋を勝手に出てみるかという気になっていた。

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