第29話 馬場香織・六日目

 斎藤は約束通りにナミと会わせてくれた。

 久々に病室の外に出れたことも嬉しかったが、やっぱり、談話室に入ってナミの姿を見た時は格別だった。

「ナミ」

「久しぶり」

「う、うん。でも」

 会えたことで嬉しかった気持ちは、ナミの服装や髪形を見ると、恥ずかしい気持ちに取って代わってしまった。

 ナミはすっかり綺麗な女性になっていて、病院着のまま、寝ぐせのまま出てきてしまった自分とは大違いだったのだ。

「ああ、これ。驚かせちゃった? 私、無事に退院できたのよ」

「そ、そうなんだ」

「もう、恥ずかしがらないで。すぐにあなただって綺麗な格好が出来るわ」

「えっ」

「大丈夫。退院できるわ」

 驚く香織に、ナミは力強く頷いてくれる。

 退院できる。

 それは夢にさえ見たことがない未来だ。だから、香織はびっくりしたまま、どう反応していいのか解らなかった。

「私、でも」

「大丈夫よ。今からゆっくり説明してあげるからね」

 ナミはそういうと談話室の入り口を振り返った。そこには斎藤がまだ立っていたが、手にはノートパソコンを持っていた。

「退院にあたって、色々と勉強してもらわなきゃいけないんだ。それを、先輩であるナミに頼んだんだよ」

 持っていたノートパソコンを近くのテーブルに置いた。ナミはそこに座ると、香織においでと手招きする。

「ほ、本当に退院できるの? だって、私」

「ええ。とっても大変な病気だったわ。でも、もう大丈夫なの。先生たちの治療のおかげね」

「ほ、本当に」

「ええ。でも、その病気に関してちょっと困ったこともあるから、今から順番に説明するね」

「あっ、うん」

 大変な病気であることは解っている。この病院で色んな検査や手術を受けて、何度気分が悪くなったことだろう。

「まず、あなたは一度心停止したことがあるの。ここに来る少し前に交通事故に遭ったのよ」

「えっ」

 いきなり衝撃的な内容を告げられて、香織は退院以上にびっくりしてしまった。

 心停止。交通事故。

 それってつまり死んでしまったってこと。

「大丈夫よ。すぐに蘇生されたから。でも、その影響で記憶が消えてしまっているの。カオリ、あなた、昔のことって覚えている?」

 問われて、香織はふるふると首を横に振った。

 点滴中も疑問に思っていたことだ。自分は昔、学校に通っていたのか。いつから病院にいるのか。思い出せなかったのは、記憶が消えてしまっていたからだったのか。妙に納得してしまう。

「そうでしょう。きれいさっぱり解らないはずなの。カオリは気づいていないかもしれないけど、実は脳も手術しているのよ」

「そんな」

 香織は頭に触れてみる。しかし、特におかしな部分はなかった。

「橋本先生の手術が完璧だったおかげね。傷はまったく残っていないのよ」

 にこっと笑ってナミは教えてくれる。しかし、橋本が自分の手術をしていたなんてびっくりだった。同性だからか、男性医師以上に冷たい印象を持っていたのに、それは悪いことをしてしまった。

「そうだったんだ」

「ええ、そう。あなたは事故に遭って死にかけたんだけど、見事に蘇生したの。その影響で記憶がなくなってしまった。ここまでは大丈夫かしら」

「ええ」

 びっくりすることの連続だったが、ナミのおかげかすんなりと納得することが出来た。すると、ナミがよしよしと頭を撫でてくれる。

「でね。記憶がないから日常生活に関して解らないことが一杯あると思うの。それを一つ一つ教えていくわね。それと、脳だけでなく他のところも手術しているから、色々と注意事項もあるわ」

「う、うん」

「点滴で体調も整っているでしょうから、まずは食事から確認しましょうか。斎藤先生、お願いします」

「ああ」

 説明の様子を遠くから眺めていた斎藤は、頷くと談話室を出て行った。しかし、すぐにお盆を持って戻って来る。そのお盆には調理されていない食材が色々と載っていた。

「手術の影響でアレルギーが出る食べ物が多くなっているのよ。それの確認よ」

「うん」

「まずはグレープフルーツ。これは退院後も飲んでもらう薬と相性が悪いから、絶対に食べちゃ駄目よ」

「そ、そうなの」

「ええ。グレープフルーツに含まれる成分が薬の効きを悪くしてしまうの」

「へえ。ナミ、なんかお医者さんみたいね」

「退院してから色々と勉強したからね」

「へえ」

 ここにいる時からナミはしっかりしていたから、そういうことが出来るんだ。香織はナミの顔を眩しそうに見つめてしまう。

「大丈夫、カオリも出来るって」

「そ、そうかな」

「ええ。退院出来たら色んなことが出来るようになるわ。だから、しっかり勉強しましょう」

「うん」

 ナミに励まされると、本当に何でも出来るような気がしてしまう。香織は笑顔で頷くと、食品に関する注意の続きに耳を傾けたのだった。

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