第25話 小松潤・五日目その一

 衝撃の事実を知った後、検査を終えた潤は病室ではない個室を与えられた。

 ベッドと机があるのは一緒だが、トイレは別に付いているタイプの部屋だ。窓に鉄格子はなく、当然、ドアも外から施錠することは出来ない。

 どうやら以前まで、ここに研究に来ていた研究者が寝泊まりする時に使われていたらしい。

「一体、何がどうなっているんだ?」

 しかし、潤は部屋が快適になったことなどどうでもよくなるほど、大問題を抱えてしまっている。

 昨日、斎藤が見せてくれた資料のトップに表示されていたのは、なんと小松潤の死亡診断書だった。そう、小松潤という人間は、一年半前に死亡していたのだ。だがしかし、こうして潤は生きている。そこに絡繰りがあったのだ。

 科学の力によって復活された存在。それがジュンだ。

 自分が実験体なのは当然だった。それを理解したが、では、このジュンという人間は何なのだろうか。

 入れ物は小松潤だ。しかし、小松潤であった痕跡は自分の中にどこにも存在しないのである。脳は小松潤の物らしいが、その記憶を潤は持っていない。

「どういうことだよ」

 解らなくて、いや、理解したくなくて、潤は部屋の中をうろうろと歩き回ることしか出来ない。

 検査の結果、今の潤には何の問題も見つからなかったようだ。つまり、小松潤として生きていくのに問題のない状態だという。

 二十二歳の青年として、何の問題もない。

 健康そのものだという。

 しかし、その実は問題だらけだ。

「死体が蘇った。それが俺。そして、ここにいた奴ら」

 何ということだろう。だが、そうと解れば、ここの研究者たちの態度も納得できる。

 人間であって人間ではないモノだから、何をしてもいいと思っていたのだ。脳を剥き出しにして実験することもまた、許されることだったのだ。

「くそっ」

 考えると気持ち悪くなってくる。しかし、土屋に協力すれば、このまま潤は生きていくことが出来る。

 完璧な人間だと証明して、小松潤の残りの人生をジュンが生きることが出来るのだ。それはつまり、死亡が嘘だったとするということだ。

「でも」

 それって正しいことだろうか。本当は、ここで、この研究所でその命が消えるのが正しいのではないだろうか。

「いや、でも」

 ここで繰り返されていた非道なことを、誰にも知られずに抹消してしまっていいのか。

 潤はいわば、生ける証明なのだ。自分が死ねば、ここで実験をしていた連中が殺人を行っていたことは、永遠に表沙汰になることはない。

 死体を蘇らせ、また殺していたなんて異常なことは、なかったことにされてしまうのだ。

「この身体も」

 一度は死んだ。でも、それは潤が知らないことだ。

「今、こうやって考えている俺は何なんだろう」

 自分というものが、どんどん解らなくなっていく。

「不安なのは解るわ」

 と、そこに声がした。振り返ると、いつの間にか白衣を着た土屋が立っていた。

「解る、だと」

「ええ。私の妹も、同じだったから」

「えっ」

 どういうことだ。潤は微笑みながら立つ土屋を凝視してしまう。

 土屋の妹が同じだっただと。

 それはつまり、土屋の妹は一度死に、そして蘇らせた存在だということか。

「私は、彼女を救いたかったの」

「なんだって」

「そのために、この実験の大本となるiPS細胞の新たな発展形を作り出した」

「じゃあ」

 お前が元凶なのか。

 潤はどういう感情を向けていいのか解らず、驚いたものの、それ以上のリアクションは取れなかった。

「iPS細胞は知ってるわね」

 土屋はゆっくりと潤に近付くと、肩に触れて優しく訊ねてくる。

「いや」

 潤が知るのはこの研究所が異常で、自分が異常な存在だということだけだ。なんとか細胞なんて聞いたことはない。

「ああ、そうか。ごめんなさい、つい。記憶がリセットされているんだったわね。iPS細胞そのものは、今や珍しいものではないわ。万能細胞とも呼ばれることがあるの。とても、優秀な再生医療の一つなのよ」

「はあ」

 いきなり専門的な説明を始める土屋に、潤は曖昧な返事をするより他はない。万能細胞と言われても、どういうものを想像すればいいのか解らなかった。

「ああ、そうね。あなたの記憶は小松潤とは分断しているものね。忘れてしまっているのは仕方ないわ。まあ、そこに座って。ゆっくり説明するから」

 土屋は潤にベッドに腰掛けるように勧めた。そして自分は壁に凭れて腕を組む。その姿はやはり医者というより研究者だった。

「小松潤は、iPS細胞について知っていたのか」

 潤は素直にベッドに腰掛けつつ、気になったので訊ねた。

 この身体が小松潤のものだったとしても、今の自分は何も知らない。だから、少しでも情報が欲しかった。

「ええ。小松君はとても優秀な人だった。でも、脳に腫瘍が出来て入院していたのよ。とても手術が難しい位置だったわ。それこそ、脳を取り換えなければならないくらいに、取り除くのが難しい場所だったの」

「っつ」

 潤の脳裏に、あの死体がちらついて気持ち悪くなる。まさか自分も、同じようなことをされたのだろうか。

「大丈夫よ。昨日も説明を受けたと思うけど、脳の大部分は小松君のもののままなの。でも、腫瘍が侵食していた、記憶を司る海馬の一部をiPS細胞で再生させているから、どうしても以前の記憶は消えてしまっているのよ」

「えっ」

「脳腫瘍を切り取り、足りない部分はiPS細胞によって補われた。それがあなたなの。でも、これはまだ治療法として確立しているものじゃない。今のあなたが全くの別人格であるように、認められるはずのない、禁断の手術だったのよ」

「じゃあ」

 記憶がないのは当然だというのか。

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