第11話 馬場香織・三日目
昨日、ようやく斎藤が顔を見せた。
「大丈夫かな。変わりはないかい?」
優しく訊かれて、香織の気持ちは凄く楽になっていた。
「大丈夫です」
そう答えると、斎藤はにっこりと優しく微笑んでくれた。
ああ、それだけで、本当に気持ちが軽やかになる。
「今、ここの人数は極端に足りなくてね。看護師さんは基本的に来れないんだ。少し不便だと思うけど、我慢できるね」
斎藤にそう問われると、香織は素直にはいと頷いていた。
もともと、ここの病院の看護師は極端に少なかった。そしてよく辞めていた。今更驚くことでもない。
「代わりに先生が来てくれるのよね」
でも、それを確認せずにはいられなかった。斎藤はもちろんと大きく頷いた。
「今日から点滴も始めるからね。大丈夫、定期的に見に来るよ」
斎藤はそう言うと、慣れた調子で香織の右腕に点滴を刺す。点滴は三つあって、それが点滴用の棒にぶら下がっている。
「少し眠くなるよ」
斎藤はそう説明しながら点滴の速さを調整していく。
「別にいいわよ。やることないし」
香織はそれに、ちょっと不満そうに唇を尖らせて言った。しかし、斎藤はそれには何も答えなかった。
「もうすぐ終わるみたいだけど、来てくれるのかな」
香織はぼんやりと点滴を見つめながら、昨日の回想から現実に戻り、そう呟く。
斎藤が担当してくれるのは嬉しい。だけど、なんだか今までと違うように感じた。
これは、しばらく別の病院に移動していた影響だろうか。
そう言えば、転院先の病院では点滴はなかった。
腕を動かし、この不自由さにまた慣れなきゃ駄目なんだなと溜め息を吐く。
別に大した不自由じゃないけれども、行動を制限されてしまうから厄介に感じる。
特にこの狭い部屋の中を移動するのが億劫になる。点滴が下がる棒はベッドに差し込んで固定するタイプだから、持って移動することが出来ないのだ。だから、トイレまでがギリギリで、窓に近付くことは出来ない。
「今までと同じなんだけど、駄目だわ。この間までいた病院と比較しちゃって」
なんで、あんなに自由な場所があるんだろう。
なんで、ここはこんなにも不自由なのだろう。
いずれ死ぬ自分は、どんな病気を抱えているのだろう。
「大人になれば、二十歳になれば教えてくれるのかしら」
まだまだ未熟だと思われているんだろうな。そう思うと、ちょっと切ない。
でも、もうすぐ死ぬのならば、未熟かどうかなんて関係ないはずだ。
どうして、説明してくれないのだろう。
ここの病院はどうして他とは違うのだろう。
この点滴は何のためにやっているのだろう。
考えれば考えるほど、疑問が湧き上がってくる。
こんなこと、今までなかったのに。
「寝よう。考えるだけ無駄だもの」
前の病院が快適だったからって、文句を言っても始まらない。それは解っていると、香織は自分に言い聞かせる。
ここは不自由だけれども、ずっとお世話になっている場所。
一生のほとんどを過ごしている場所だ。
「あれ。私って入院する前は何をしていたんだっけ」
長くお世話になっていると言いつつ、いつからかが思い出せない。
それまでは、普通に学校に通っていたのだろうか。それとも、虚弱だから通っていなかったんだっけ。
意外と曖昧な記憶に驚くが、今までこんなことさえ考えたことがなかったのだと気づく。
「解らないわね。私自身のこと、何も知らないわ」
香織はその事実に気づき、びっくりしてしまった。
どうして、今まで全く疑問に思わなかったのだろう。
そんな自分に呆れてしまい、ますます目が覚めてしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます