第9話 橋本真由・二日目

 腹が立つことに、斎藤は現れなかった。

 食料と水分は寝ている間に置かれていた。

 これも腹が立つが、さらに腹が立ったのは、食事と一緒に入院着が置いてあったことだ。

「ふざけないでほしいわ。私を検体だと思っているわけ? ああそう、立場が逆転したのよとでも言いたいわけなのね」

 いちいち腹を立ててしまうが、それでも入院着のズボンは借りた。さすがにジーンズでは寝苦しかったのだ。しかし、それでもずっとそのズボンで過ごすのは嫌で、朝起きるとすぐに着替えた。

「何がしたいわけよ。まったく」

 出された缶詰の、冷えた焼き鳥を食べながら、イライラはどんどん増していく。

 ご飯は他に乾パンとチーズ。取り合わせが適当なのも腹が立つ。

 お情けなのか、缶コーヒーが付いているのも、イライラを助長させてくれる。

「何がしたいのよ、本当に」

 ここに閉じ込められる苦しみを味あわせたいにしたって妙な話だ。そう思うのならば、缶コーヒーは置かないだろう。

 ひょっとして、これは斎藤からの詫びだろうか。だとしても、このくらいで機嫌がよくなるわけがない。

「そもそも、ここに閉じ込めてしまえば謝るとでも思っているのかしら。あんたたちは所詮、人間とは別物なのよ。iPS細胞の寄せ集めでしかないくせに」

 もちろんそう言い切るのは語弊があるものの、ほとんどは試験管から作られたパーツが人体骨格の中に入っているだけだ。そのことを、あいつらは知るはずもないし、知ることもできない。

 なぜ様々なデータを取られるのか。それは体内に取り入れたiPS細胞が正常に働いているかを見るためだ。それを、あいつらは治療だと思い込んでいた。

「脳が最も難しいのよね。iPS細胞で作れたとしても、それは脳の形をした似て非なるものになりがちだわ。成功したのはナミくらいかしら」

 思考が自分の研究分野にずれたおかげか、橋本の怒りは少し収まった。

 ここで行った研究の数々は、いずれ多くの難病を患った人を救うことが出来るだろう。それだけでなく、認知症を発症した脳を取り換え、正常な生活を続けるなんてことも出来るはずだ。

「ここでの研究は素晴らしかったわ。そりゃあ、倫理的な問題が全くないとは言わないけど、それでも、ナミを除いて彼らはそもそも死んでいたのだから問題ないわよ」

 橋本はむかつく原因の一つだった缶コーヒーに手を伸ばし、ナミはやはりES細胞を利用したのかなと、そんなことを考える。

 あれは他の検体と違い、純粋なクローンのはずだ。ただ、成長速度をどう早めたのかという謎がある。

「私だって全部を知っているわけじゃないんだから。総ては土屋七海の頭の中にあったのよ。私はその一つを研究テーマにしただけだわ」

 だから、責められる覚えはない。

「ふわああ。まだ眠いわ。まったく、久々にお酒を飲むと身体に残るのね」

 コーヒーを飲んでも眠気が取れない。年だなんて思いたくないが、三十を越えれば若い頃と同じように行かないのは仕方がないだろう。

 橋本は再びベッドに横になる。それでも、まだ研究に関して考える。

「iPS細胞も成長速度のばらつきが問題になることがあるのよね。これをどう解決すればいいのかしら。移植に使う場合、効率よく速く成長させることが必要になるもの。石田の研究を見ていたら、それを痛感するわ」

 橋本の研究は臓器移植そのものではないが、密接に関連するテーマだ。人間の寿命、それを大幅に伸ばすためには、臓器や体の組織の劣化を何とか食い止めるしかない。しかし、何の助けも借りずに伸ばす方法はないのだ。

 そこでiPS細胞が重要になると橋本は考えている。そのためにここで、少々狂気じみた研究まで行ったのだ。結果は良好と言っていい。いずれ人間は相当長く生きられるようになるだろう。

「でも、寿命が長くなったら、人間はどうやってその長い時間を過ごすのかしら。そこはまあ、私が考えるべきことじゃないわね」

 まだ技術も確立していないのだ。人間の寿命が倍になった世界なんて、まだまだSFの世界でしかない。

 でも、全くの夢物語ではない。それが橋本の考えだ。

「ああもう、腹が立つうえに眠いんだから」

 なんなのこれ。なんでこんなに眠いの。

 そう腹を立てたものの、橋本はまた眠りに就いていた。

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