第6話 馬場香織・二日目

 昨日は斎藤先生に会えなかったな。

 起きた時に思ったのは、それだけだった。

 でも、来ないのは斎藤だけではない。あれから丸一日。看護師もやって来ていない。

「何で誰も来ないんだろう」

 食事を持ってきたのもロボットだった。これはここに入院している時、人手が足りない場合に利用されていたので、驚くものではなかったが、今、そんなに忙しいのだろうか。

「だったら、もう少し後に転院させてくれればよかったのに」

 まだ読み終わっていない漫画があったのにな。

 そんなことを考えて、自分は変わったものだなと思った。

 ここにいた頃は、漫画の続きが読めないなんて日常茶飯事。下手すれば二度とその漫画に出会わないことだってあったのに。

「ううん。でも、斎藤先生なら」

 ちょっと話を聞いてくれるのに。

 香織の頭の中に浮かぶのは、やっぱり斎藤のことばかりだ。

 優しく、ここの先生の中ではイケメンで、傍にいて気分が軽くなる人だった。

 もちろん香織にだけ優しいのではなく、どんな患者にも分け隔てなく優しかった。

「言葉が話せない子とか、手や足がない子にも優しかったもんなあ」

 十七歳らしい恋心がなかったといえば嘘になる。しかし、自分が独占しては駄目な人だというのはよく理解していた。

 彼の優しさは医者としての優しさだ。香織がここに入院しているからこそ、優しくしてくれるだけなのだ。そして、その優しさはここに入院している人みんなが必要としているものだ。

 他の先生がどこかよそよそしく、時に冷たいと感じることがあるだけに、斎藤の優しさは貴重だった。

 自分がどんな病気か解らず、でも、死ぬことだけは解っているだけに、その優しさに縋るのは当然だった。

 でも、それならばどうして、他の先生は冷たかったのだろう。

 どうせ死ぬからと思っていたのだろうか。

 それってお医者さんとしておかしくないかな。

「まあ、そんなことを考えても仕方ないか」

 香織はベッドに腰掛けて、朝食として出てきた食パンにジャムを塗って噛り付きながら、考えても無駄だと首を横に振った。

 いつだったか、他の入院患者が石田に食って掛かったことがあった。その子は石田の手術を受けていたから、よく顔を合わせていたようだ。それなのに、全く打ち解けてくれないことが不満になっていた。

 香織はたまたま斎藤と一緒に廊下に出ていた時、その場面を目撃してしまった。

「もっと優しくしてよ」

 それは、思わず出た言葉だと思う。

 香織だって、何度も考えたことだ。

 でも、それに対して石田は

「必要ない」

 たった一言で切り捨てた。

 しかも、その子にまるで汚いものを見るかのような目を向けて。

「あれはショックだったろうなあ」

 優しくないと非難したところで、不愉快そうな目を向けられるだけだ。それを思い知らされた事件だった。

 斎藤はそれに対して悲しそうな顔をしたものの、石田に対して抗議することはなかった。言うだけ無駄だと思っていたのか、それとも――

「やだやだ。斎藤先生も実は心の中で私たちのこと蔑んでいたとか、そんなこと、考えたくない」

 自分の考えを打ち消すために、あえて口に出した。するとちょっとは気分がすっきりした。でも、不安感は消えてくれない。

 だから急いでパンの残りを口に突っ込み、冷めたスープを飲み干した。さらに嫌いな牛乳も一気に飲み干す。

 お腹がいっぱいになると、少しは寂しさが和らいだ。

 この解決方法を教えてくれたのも、斎藤だった。

「ああ、もう」

 斎藤と他の先生は何が違うんだろう。

 いや、他の先生たちはどうして入院患者を嫌うような素振りを見せていたのだろう。

「ううん」

 香織はベッドに寝転びながら、解らないことだらけだなと思った。

 これも、別の病院を知ったせいだろう。

 転院先の病院では、どの先生も、患者に対してあんな視線を向けることはなかった。それどころか、みんな優しかった。

 しかも先生の数も全然違った。

 ここにいる先生は基本的に三人だ。斎藤、石田、橋本。このメンバーは固定でいつもいた。でも、後はたまにやってくる先生で、それがいっぱいいる。

 しかし、これも他の病院では奇妙なことだったのだ。

「解らないことばっかりだな」

 比較対象が出来るとこんなにも疑問だらけになるものなのだろうか。香織はううんと唸りつつ、それでもベッドに潜り込んでいた。

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