第2話 川上賢太・一日目

 気づいたら見知らぬ部屋にいた。

 昨日は論文を仕上げるために、大学の研究室に夜遅くまで残っていた。少し疲れて仮眠したはずだったが――

「どこだよ、ここ」

 目が覚めたらここにいたのだ。

 寝かされていたのはベッドの上だ。それも病院にあるようなベッドだった。部屋の中の作りもどこか病院の個室めいている。

 ただし、普通の病院と違って窓には鉄格子。カーテンもなく、窓は十五センチほどしか開かない。さらにドアも自分では開けられないようになっていた。

 まるで精神科のような病室だ。しかし、川上賢太かわかみけんたがそんな場所に世話になったことも、またなる必要もなかった。

「どういうことだ?」

 意味が解らず、首を捻ることしか出来ない。

 大学で寝ていたら、いつの間にか精神科の病院に運び込まれていた。

 そんなことはまずないだろう。

 しかもここには人の気配がない。すなわち、ここは病院として機能していないのではないか。

 嵌めたままになっている腕時計を確認すると今は朝の九時。研究の関係で大学病院に赴くことがあるから、川上はこの時間が最も忙しいことを知っている。それなのに静かだということは、ここが病院として機能していない証拠になる。

「新しいのか古いのか解らないな」

 しかし、廃病院に放り込まれたのだとして、ここがどこだかさっぱり解らない。

 ベッドや窓際に置かれた机、それに入口付近にある洗面台を見る限り、あまり古くはなさそうだ。だが、壁にはいくつか傷があり、なんだか古びた印象を与えられる。少々ちぐはぐな印象があった。

 ここが機能していないことも含めて考えると、何か訳ありで閉院に追い込まれたのかもしれない。

「ううん」

 どうにか場所を特定できないかと、鉄格子の嵌った窓を覗いてみる。しかし、窓のすぐ傍は山で、ここがどこなのかさっぱり解らなかった。

 解ることはといえば、ここが大学からかなり離れた場所だということだろう。大学の、しかも川上の研究室があるのは都会のど真ん中だ。窓から山は見えるが、こんなすぐ傍にはない。

「嫌がらせか」

 こんな場所に連れて来て、論文を提出できないようにさせようとしているのだろうか。しかし、川上がいなくても、共同研究者が残りを仕上げてしまえば問題ない話だ。わざわざこんな大掛かりな嫌がらせをする必要はない。

 確認したが、スマホはない。ここから助けてくれと外部に連絡を取ることは出来ない。

 ということは、少なくとも犯人はここに隔離してやろうという意思を持てやっているはずだ。だが、その目的が全く見えないのである。

「ううむ」

 窓から離れ、机に備え付けられている椅子に座ってみる。少々重たい椅子だったが、ぎいっと音を立てることもなく、まだ新しいことを示しているようだ。

「机の上にはメモ用紙か。でもペンはないな」

 置き型のメモ帳は置かれているが、それに筆記具は付属していなかった。ここが過去、精神科の病棟として使われていたのならば、ペンがないことも頷けるが、ではどうしてメモを残したままなのか。

「解らないなあ」

 犯人が来るまで待つしかないのだろうか。しかし、トイレはどうすればいいのだろう。喉が渇いたが、ずっと我慢しなければならないのか。

「くそっ」

 監禁されているのだ。その事実は覆せない。

 だがしかし、川上にはこんなことをされる心当たりが全くなかった。一体どうして犯人は自分を監禁したのだろう。

 大学で研究しているとはいえ、五十五歳の教授なんて大したことはない。同じ分野を研究している人も多く、川上がいなくなれば研究を独占できるようなものでもない。さらに今やっている研究は共同研究者も多く、研究の成果が丸ごと川上のものということもなかった。

「金銭トラブルもないしなあ」

 医学系の研究をしているものの、どこからか賄賂をもらっている事実はない。むしろ忙しいばかりで万年金欠だ。国立大学が法人されてからこの方、給料は下がる一方である。おかげでワイシャツがよれよれで注意されたことは数知れずだった。

「一体何がしたいんだ」

 疑問が堂々巡りしてしまう。

 それだけ自分が狙われる理由がない。存在しないと断言できる。

「あの土屋七海つちやななみでもあるまいし、しがない中年研究者なんて珍しい存在でもないだろうに」

 川上は去年亡くなった若手の新進気鋭の研究者を思い出し、人生とは思い通りにいかないものなんだなと溜め息を吐いていた。

 土屋は天才ともてはやされ、次々と新しい手法を生み出していた。それなのに、去年の春、交通事故で亡くなった。これからもっと凄い成果を上げ、いずれはノーベル賞なんて言われていたのに、実にあっけないものだった。

「しばらくはぼおっとしておくか。そのうち、こんなバカげた悪戯をした犯人が来るだろうし」

 徐々に考えるのも馬鹿馬鹿しくなって、川上は再びベッドに舞い戻っていた。

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