第2話 狂気に堕ちた姉

「君のお姉さんを?」


 二階堂の問いに、采牙さいがはうなずいて言葉を紡ぐ。


「姉は玖遠くおんというんですが、一週間くらい前から様子がおかしくなったんです。怒りっぽくなったっていうか、乱暴になったっていうか……。今まで優しかったし、めったに怒らなかったのに――」


 采牙は、姉の玖遠とともに九尾の里で暮らしている。九尾の里は、幽幻亭から車で一時間ほど北に行ったところにある森の中に位置する、九尾の狐だけが暮らす集落である。


 玖遠も采牙と同じ九尾の狐で、とても優しく仲間から慕われていた。ところが、一週間前に森で円形の折りたたみ式手鏡を拾ってから様子がおかしくなったのだ。


 玖遠が拾って来たその日に、采牙はそれを彼女から直接見せてもらった。女性の手のひらにすっぽり収まるサイズのそれは、とてもきれいなべっ甲色がどこか妖しげで、見る者を引きつけ魅了する力があった。


 なぜ森の中に捨て置かれていたのかはわからないが、傷がほとんどないところを見ると、以前の持ち主が大切にしていただろうことがうかがえる。だが、采牙はそれを見た瞬間、ものすごく嫌な感覚に襲われた。別段、なにがあったというわけではない。なんとなく嫌だと、近づきたくないと思ったのだ。


 それ以降、姉に手鏡を手放すようやんわりと告げていたのだが、その度に「手鏡は手放さない。誰にも渡さない」と拒絶されてしまった。日を追うごとに玖遠の性格は乱暴になり、長くきれいなみかん色の髪を振り乱しながら他人を罵倒するようになっていった。


(やっぱり、あの手鏡が原因だよな。どうにかして捨ててもらわないと……。でも、どうやって?)


 早く以前の優しい姉に戻ってほしいと、采牙は一人で悩んでいた。本当は長老に相談すべきなのだが、厄災を持ち込んだと非難されるのではないかと考えてしまい相談できずにいた。


 だが、采牙のこの選択が、最悪の結果をもたらしてしまう。玖遠が、里の広場で遊んでいる幼い九尾達を次々に殺してしまったのだ。


 家の中で悩んでいた采牙が、騒ぎを聞きつけて広場まで行くと、そこはすでに惨劇の舞台と化していた。地面は被害者の血を吸って赤黒く変色し、その場にいる九尾達は一様に悲鳴をあげて逃げ惑う。亡骸を抱いて泣き崩れる者や、無謀にも玖遠に攻撃をしかけて返り討ちにあう者もいた。


「――っ! 姉さん!」


 惨劇の中心に姉を認めた采牙は、彼女に駆け寄ろうとする。しかし、彼女の妖気がいつものそれとは明らかに違うことに気がついて足がすくんでしまった。玖遠がまとう妖気が、禍々しいものに変貌しているのだ。


 こちらに気づいたのか、玖遠がゆるりと采牙に顔を向けた。目鼻立ちの整った彼女の顏にはなんの表情もなく、采牙と同じ若葉色の瞳には光が宿っていなかった。おそらく、手鏡が持つ妖しい力に取り込まれてしまったのだろう。


「そんな、嘘だろ……」


 つぶやいた采牙は、絶望したようにその場に立ち尽くした。


 それをいいことに、玖遠は大きな狐火を瞬時に作り出して采牙へと放つ。


「危ない!」


 声と同時にもう一つの狐火が、采牙の左側から飛んで来た。二つの狐火は、采牙のすぐ目の前で衝突し相殺する。


 その爆風で我に返った采牙が勢いよく左を向くと、息を切らしながら走ってくる長老の姿が見えた。


「なにをぼさっとしておるのじゃ! 早く逃げろ!」


 長老は采牙に駆け寄ると、急かすように告げた。


「でも、姉さんが……」


「いいから逃げるんじゃ! あやつは、わしがなんとかする!」


 長老はそう言うと、玖遠に相対した。


 采牙は躊躇しながらも、この場は長老に任せることにしてきびすを返す。広場とは反対の方向に避難用の施設があるのだ。里を脅かす者から妖術が使えない九尾をかくまうために作られた物で、結界が張られている。同族である玖遠からの攻撃も、一時的にはしのげるだろう。


「長老なら、姉さんを止めてくれるはず……。きっと、大丈夫」


 避難用施設に向かいながら、采牙はそう自分に言い聞かせる。そうでもしないと、罪悪感と絶望に押しつぶされてしまいそうだった。彼女がああなってしまったことに、少なからず自分も関わっているからだ。


 できることなら、二人とも無事でいてほしいと虫がよすぎることを願ったところで、背後から長老の叫び声が聞こえた。それは、まるで断末魔のようだった。


「長老……!?」


 采牙は、足を止めて背後を振り返る。視界に映るのは見慣れた里の風景だが、なぜか知らない場所のように思えた。死の気配が忍び寄ってきたせいだろうか。


 身震い一つすると、采牙は一目散に駆けだした――。


「――それが一昨日のことです」


 と、一通り説明をした采牙は紅茶で喉をうるおす。


「なるほど。それで、他の人達はその避難施設に?」


 二階堂がたずねると、采牙はうなずいた。


「長老の親族が結界を強化してくれてるので、なんとかもってるって感じですけど」


 それもいつまでもつのかわからない状況だという。


「なら、さっさと現場に行った方がよくねえ?」


 言いながら立ち上がる蒼矢に、二人はうなずいた。


 二階堂は、蒼矢と采牙に少し待つように告げると上着を取りに二階へと向かう。


「蒼矢さん。姉は……もとに戻りますよね?」


 と、采牙は蒼矢をまっすぐ見つめて不安そうにたずねる。


「あー……そう、だな……」


 采牙から視線をはずし、どう言おうかと言葉を探す蒼矢。どうつくろっても、ごまかすことはできないだろう。


 蒼矢は観念したようにため息をつくと、采牙を正面から見据えた。


「仮に、手鏡の呪縛から助け出せたとしても、お前の姉さんがもとに戻るかどうかはわからねえぞ。おそらく、その手鏡は相当な呪物だからな」


「じゅ、ぶつ……?」


 聞き覚えがないのか、采牙は首をかしげる。


「ああ、呪われたアイテムってこと。その手鏡が玖遠と同化してたら、その時は……殺すしかない」


「そんな……!」


 采牙は言葉を失った。


 万が一でも、姉は助かると信じて疑わなかった。そのわずかな希望さえも否定されてしまった。それも、唯一と言ってもいいくらいの頼れるだろう人物にである。目の前が真っ暗になるのは当然だった。


 そんな采牙を見て、蒼矢は小さく舌打ちをした。依頼人に酷なことを告げるのは、正直なところ心苦しい。希望に満ちた耳触りのいい言葉でごまかせるのなら、いくらでも紡ぐことはできる。しかし、それをしたところで最悪の結果になってしまったら目も当てられないし、言い訳のしようもない。だから蒼矢は、依頼人にとってどれだけ辛いことだろうと甘言でごまかすことはしないと、心に決めている。


「采牙」


 蒼矢が呼ぶと、采牙は呆然とした表情で顔をあげた。


「姉さんを助け出したい気持ちはわかる。俺だってそうだ。けどな、呪物と完全に同化してたら、引き離すことはできねえんだ。命を終わらすしか方法がない。でも、ここで殺さないって選択をしたら、お前や里のみんなが殺されることになる。最悪の事態ってやつだ。わかるな?」


 諭すように告げる蒼矢に、采牙は黙ったままうなずく。その目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいた。


「それに、姉さんの魂も手鏡に囚われたままになっちまう。それは、さすがに辛すぎるだろ? だから、せめて彼女の魂だけでも救いたいんだよ」


 そうならない方がいいけれど、いざという時のために覚悟だけはしておいてほしいと、蒼矢は優しく告げる。


 采牙は、蒼矢の真摯な眼差しに心打たれたのか、涙を乱暴に拭うとわかりましたと力強くうなずいた。

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