第3話 九尾の里へ

「お待たせー!」


 やや緊張感のない声とともに、白い厚手のジャケットを着た二階堂が二階から戻って来た。左手首には、銀色に輝く雪の結晶モチーフのブレスレットをしている。


おせえよ、誠一」


 蒼矢が揶揄やゆするように告げると、


「悪かったな。お前の上着、持って来てやったってのに」


 ほらと、二階堂は手にしている紺色の厚手のジャケットを蒼矢に差し出した。


 礼を言って受け取ると、蒼矢は早速それを羽織った。九尾の狐といえど、人に変化へんげしている時はさすがに寒いのである。


「采牙君、九尾の里までの案内、お願いしてもいいかな?」


 二階堂がたずねると、


「もちろんです!」


 と、采牙はうなずいた。


「……蒼矢、この子になんか言った?」


 二階堂は、采牙のうるんだ瞳とわずかに赤くなった鼻頭に気づくと蒼矢に問うた。その低めの声音には、失礼なことを言ったのではないかという疑念が含まれている。


「事実として、姉さんを殺すことになるかもってことは言ったぜ」


 肩をすくめて告げる蒼矢は、先ほど采牙に告げたことをかいつまんで説明した。


「そういうことか……」


 黙って聞いていた二階堂は、納得したように言って采牙に視線を向けた。


 あまり呪物に詳しくない二階堂でも、呪われてしまったらかんたんに解くことはできないということだけは理解できた。その唯一の方法が、残酷なものだけということも。


「そんな悲しそうな顔、しないでください。どんな結果になったって、俺は大丈夫ですから」


 二階堂の視線にいたたまれなくなったのか、采牙は苦笑しながらそう言った。


「采牙君……」


「おいおい二人とも、湿っぽくなるのはまだ早いぜ。玖遠にも会ってねえし、里にも行ってねえんだから」


 蒼矢が少し呆れたように言うと、


「そうだった。じゃあ、行こうか」


 と、二階堂は気を取り直して告げた。


 三人は外へ出ると、二階堂は車の運転席へ、蒼矢は運転席側後部座席へ、采牙は助手席へとそれぞれ乗り込んだ。


「それじゃあ、ナビよろしく」


 二階堂は、采牙にそう言って車を発進させた。


 九尾の里は、幽幻亭から車で一時間ほど北に行ったところにある森の中に位置する。里の詳しい場所は、口頭で伝えるのが難しいらしく、とりあえず森を目指すことにした。


「……なあ、采牙。玖遠は、術使えるのか?」


 幽幻亭を出てからおよそ十数分後、蒼矢はふと気になったことを采牙にたずねた。


「ある程度は使えるはずです。小さな狐火を出すくらいなら、たまに見せてもらってましたから」


 そう答える采牙の声は、わずかに弾んでいた。きっと、姉との思い出は楽しいものが多いのだろう。


「へえ……ある程度、ね」


 蒼矢はそうつぶやくと、なにか思うところがあるのかそのまま押し黙ってしまった。


「お姉さんのこと、好きなんだね」


 運転しながら二階堂が言うと、


「え……まあ、はい」


 と、采牙は少し恥ずかしそうにうなずいた。


「なら、なんとしてもこれ以上の凶行は止めないとだね」


 二階堂は、改めてそう決意を言葉に乗せるとアクセルを踏んだ。もちろん安全運転で、である。


 特に渋滞に巻き込まれることもなく、一行を乗せた車は一時間後に目的地である森に到着した。


 邪魔にならないところに停めると、三人は車から降りた。ここから先は、徒歩でしか行けないらしい。


「俺が先に行きますから、はぐれないようについて来てください」


 そう言うと、采牙は森の中へと入っていく。一見、道などないように見えるのだが、彼は迷うことなく進んでいった。


 二階堂と蒼矢も采牙を見失わないように、道なき道を歩いていく。


 晴れているはずなのに、森の中はどこか薄暗い。とても静かなことも相まって、不気味な雰囲気がある。ただ、この不気味さの要因が静寂だけでないことは、二階堂も蒼矢も感じ取っていた。森の中に微弱ながら瘴気が漂っているのだ。


「この森、いつもこうなのか?」


 と、蒼矢が前を行く采牙にたずねると、


「いえ、いつもはもっと空気が澄んでるっていうか、嫌な感じはしないです。やっぱり、あの手鏡のせい……ですよね」


「ああ、間違いねえ。この嫌な感覚、呪物特有のものだからな」


 蒼矢は、顔をしかめながらそう言った。


 たしかに、森に入った瞬間から嫌な感覚があった。肌にまとわりつくような、それでいて無数の細い針で肌をチクチクと刺すような、そんな不快さがある。


 ごくごく普通の人間が、長時間この感覚にさいなまれ続けたら、間違いなく精神に異常をきたすだろう。それを、玖遠は高濃度で四六時中浴びているのだ、おかしくならないわけがない。


(玖遠さんは、僕達より絶対辛いはずだよな……。どんな形であれ、早く彼女を救ってあげないと)


 二階堂は一人、静かにそう決意を新たにする。


 それからしばらくの間、三人は押し黙ったまま森の中を進んでいった。


 どのくらいの時間が経ったのだろう、代り映えしない景色に同じところを回っているだけなのではという疑念が湧いてきた頃だった。


「着きましたよ」


 それまでだんまりだった采牙が告げた。


 視界が開けると、日本家屋に似た平屋が多数建っている集落に出た。ここが、九尾の狐だけが暮らす九尾の里である。


 二階堂と蒼矢は、ほぼ同時に顔をしかめた。


 さえぎるものがなくなったせいか、それとも根源に近いせいなのか、肌にまとわりつく瘴気の濃度が先ほどよりも濃くなったからだ。


「……なあ、なんか血の臭いしねえ?」


 と、蒼矢が警戒しながら指摘する。


 二階堂と采牙は同時に臭いを嗅ぐ。すると、たしかに風に乗ってきた血の臭いが鼻をつく。それに、微かにではあるが戦闘しているような音も聞こえてきた。


「まさか……っ!」


 采牙はなにか心あたりがあるのか、そうつぶやくと音がした方へと一目散に駆け出した。


「采牙君!」


 二階堂が呼び止めようとするが、彼には聞こえていないらしい。


 蒼矢は舌打ちをすると、狐耳と尻尾を瞬時に出現させて戦闘モードに移行する。


「誠一、俺達も行くぞ!」


 そう言うと、蒼矢は集落の中へと駆けていった。


 二階堂はうなずくと、一瞬遅れて走り出す。途中、「雪華せつか」とつぶやいて、左手首の雪の結晶から愛刀のささめ雪を取り出した。刀身の反りがほとんどない刀で、刃文には細かい粒子を散りばめたような模様がある。柄には純白の糸が巻き締められていて、その中央に直径五センチメートルの雪の結晶を模した銀色の金具がはめ込まれていた。それは、二階堂が神のもとで修業した際に神から賜った武器である。


 集落の内部に行くにつれ、ところどころ破壊されている家屋が目についた。それも、一軒や二軒どころではない。中には、瓦礫と化したものもある。おそらく、玖遠の攻撃によるものだろう。


 漂う血の臭いも濃くなり、戦闘していると思しき音も徐々にはっきりと聞こえてくる。誰が彼女と戦っているのかはわからないが、命が奪われる前に到着しなければと、二階堂は走る速度をあげた。

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