第9話 絶対正義の到来

窓から染み出る白い影が室内を照らした。

どうやら朝になったらしい。

目を閉じることなく迎えた四度目の朝だ。


そしてきっと今後、それは数える意味もないのだろう。


女には、もはや睡眠という行動は不要のものとなっていた。

眠気というものがないのだ。眠ろうと目を閉じてみてもまったく眠くならない。


いつか、夜警の任についているときに、眠らなくてもよくなればいいのにと笑い合っていたことをふと思い出した。


―――笑い事では、なかった。


眠ることができない。

人として当然にあるはずの行為をできないということ。

それは自分が、もう人と呼べないものになってしまったような感覚で。


そんなバカなと、笑うことすらできやしない。


女はそっと吐息して手なぐさみにオノの髪を撫ぜる。

長くぼさぼさの髪は、けれど思いの外滑らかで、そうしているとなんとなく心地よい。

しばらくそうしていた女だったが、やがてオノが「にゃむ……」と身じろぎをするのでとっさに手を離した。

しかしオノはそのまま寝返りをしただけで目を覚ます様子もなく、安堵の息を吐いた女は彼女の胸元に父からの封筒を忍ばせる。


「代わりに持っていてくれ」


そう言って彼女の額に口づけを落とした女はそっとベッドから降りた。


朝日の差し込む窓を眺める。

列車はどうやら、水平線すら見通せるほどに大きな湖のそばを走っているらしい。

山間を抜けて透き通った太陽を讃えるように、湖はざわめき煌めいている。


窓を開く。

飛び入ってくる冷ややかな朝の空気に目を細める。

きっと陽光に目を覚ました草花が一斉に吐き出したのだろう新鮮な空気は、吸い込めば肺に透けるように全身を巡った。


そして女は、まるで散歩でもするくらいの気軽さで窓の外に身を乗り出した。

封筒はオノに持たせたのでなんの気兼ねもなくそんなことができる。

窓の縁を掴み、軽やかに跳躍して屋根の上へ。

わずかに曲を描き傾斜する屋根の上でバランスをとりながら、女は列車が通り過ぎてきた線路の向こうに鋭い視線を向けた。


―――それに気が付いたのは、少し前のこと。


後方より届く、どこまでも鋭く研ぎ澄まされた牙の気配。それは野獣のごとき荒々しさでもって心臓に喰らい付き、そして今もなお彼女を苛んでいる。


殺気。


そう呼ぶことすらもどかしいほどの圧倒的な意志。

女を破壊し、滅ぼし、消し去るという絶対的な意志。


恐ろしいほどの速度で接近するそれは、気がつけばもうほんの数百メートルもの距離にあった。


なにせ見晴らしのいい場所である。

女はほどなくして、視線の先にそれを見た。


男だ。


筋骨隆々の大男。

オールバックにした金髪が陽光を弾き、鋭い黄金が女を射抜いている。

男は蒸気の力で動く文明の利器に、その脚力でもってせまっていた。


単なる魔術によるものではない。

もっと別のなにか。

女は、男が人ならざる存在であることを悟っていた。


女は腰からマチェットを抜きながら列車の後方に向けて歩き出す。

元居た寝台車の後ろにはいくつかの貨物車が並んでいる。そこであれば、多少さわいでも叱られまい。


女は歩き、男は疾駆する。


やがて女が最後尾の貨物車の上にまでやってきたとき男は跳躍した。

線路を揺るがす剛脚。

地鳴りすら引き起こした男が一直線に女へと飛翔する。

女は拳を引き絞り、迫る男へと真っ向から叩きつけた。


ゴッ――――――!!!!!


衝撃波が湖を爆ぜさす。

弾き飛ばされた女が回転しながら貨物車を飛び越え、屋根へとマチェットを叩きつけ強引に停止した時には元の寝台車近くにまで吹き飛ばされていた。


ぐちゃぐちゃにへし折れた女の腕からは肩まで骨が突きだし、散った鮮血がじゅうと音を立てて蒸発していく。

しかしその傷は瞬きの間に修復され、女は手を握りその感覚を確かめる。


竜の呪いは死すらを遠ざけてしまっていた。

それを女は感覚としてすでに知っていたけれど、それでもわずかに表情を歪ませる。


そして前方、隣り合う貨物車の屋根に降り立った男は、立ち上がる女を見下ろし牙をむき出した。


「鬼ごっこは終わりだ。悪なる者よ」


物理的な重圧すら感じるほどの重々しい宣告。

しかし女はそれを鼻で笑い、立ち上がってマチェットを構えた。


「さて。貴様と遊んでいた記憶はないが―――何者だ?」


あくまで言葉は軽々しく、しかし視線を鋭く油断なくマチェットを構える女に男はぎちりと歯を鳴らす。

ドムンッ!と打ち合わされる砲弾のような拳。


男は告げる。


「我が名は絶対正義。あらゆる悪を打ち砕く者」

「ずいぶんと物騒な正義の味方もいたものだな」

「否ッ! 我こそ神罰の具象物。我が行い即ち神の御意思。故にこの我こそが絶対なる正義そのものよ」


一切の疑いなく、ただ事実を語るかのような男―――絶対正義の言葉。

女は「狂信者め」と吐き捨てながら足元を踏みしめる。

言葉の通じる相手ではないとすれば、もはや選択の余地などない。


彼もそれ以上問答を重ねるつもりはないらしい。ぎちぎちと音が鳴るほどに拳を握り締めながらファイティングポーズをとる。


ひとときの静寂。


そして次の瞬間ふたりは爆ぜる。

ぶつかり合った拳と拳、弾き合った直後に振るわれるマチェットを絶対正義は肉を散らし骨を半ば断たれながらも腕で受け止め、お返しと強烈な蹴りを叩き込む。

とっさに足を挟んで受けた女はそんなことでは抑えきれない衝撃に吹き飛ばされ、即座に体勢を整え着地したところに絶対正義が追従する。

叩き下ろされる拳を真正面からマチェットで迎え撃てば、またしても弾き飛ばされはしたものの絶対正義の手からは鮮血が噴き出した。


―――そしてそれらの傷すべてが、まるで逆戻しのように血液ごと再生していく。


竜に呪われた女の超速治癒ともまた異なる再生能力。そのうえ怪力に関しては女よりも上ときた。


圧倒的なまでの強者である。

それを嫌というほど肌に感じた女は無意識に口角が上がるのを感じた。


心臓が爆ぜる。

血が巡っていく。


ぐぐ、とマチェットの柄を軋ませ女は飛び出した。

迎え撃つ絶対正義の拳を額で弾き飛ばし膝を腹部に叩き込む。まるでゴムでも蹴ったかのような感触を強引に弾き、即座に伸ばしきった足先で追撃。

屋根に弾み吹き飛んでいく絶対正義に追従し、跳躍から振り下ろすマチェットでその脳天を狙う。


さすがにそれを受ける訳にはいかないらしく受け止めた絶対正義の腕を両断した一撃はしかし頭蓋骨に阻まれ、もう片方の腕が女の首を掴み強引に屋根に叩きつけた。

その一撃で屋根を突き抜け落ちながら、女は空中で身を捻ると絶対正義の腕を切り落としてその巨体を蹴り飛ばす。


部屋の中、詰まれた樽や木箱を薙ぎ倒し中身の食料品をぶちまけながら互いに吹き飛ぶふたり。

壁に叩きつけられつつもすぐに立ち上がった女は、首に掴まったままなおも締め付ける腕を喉の肉ごと強引に引き千切り、それを絶対正義の元へと投げつけながら駆ける。


飛来した腕に殴りつけられながらも体を起こした絶対正義は、一瞬視界から消え去るほどに低くしゃがみ込むと全身で跳ね飛び女もろとも屋根に開いた穴を飛び越え空中へ。


腹部に叩き込まれた超重量に汚物を吐き出し一瞬だけ意識を捻じ伏せられた女は、気が付いた瞬間には絶対正義の鉄拳を腹部に叩き込まれ、臓物を撒き散らしながら墜落していく。

崩壊した屋根を通り過ぎ、床すら砕いて落ちる女。


すでに傷の塞がりつつあった背を線路に削り取られながらも、辛うじて砕けた床に肉が引っかかったおかげで途中下車を免れた彼女は飛び上がる。口から塊の血を吐き捨てるとぎらぎらと燃え盛る眼差しで屋根の上、白み始めた空を見上げた。


「く、くくっ、くははははははは!!!」


弾む、弾む、弾むッ!

胸が、心臓が、魂が、激しい闘争に燃え盛る。

血色の竜威がその身から染み出し陽炎のように揺らめく。

ざわざわとざわめく女の表面にはいつしか赤黒い管が脈動している。


流れるのは血だ。

竜の血だ。

もはや人の身に余る激熱が、女の身体を強引に作り変えていた。


もっと熱く、もっと猛れ、もっと強くと、魂が望むままに女は闘争に適応していく。


そして女は跳躍。

すぐそこで待ち受けていた絶対正義の薙ぎ払うような蹴りをつかみ取り、屋根に足を突き立てるとその勢いを利用して絶対正義をぶん投げる。

一瞬のふらつきをねじ伏せ着地した女はマチェットをたしかに握り直し、すでに着地し体勢を整えている絶対正義へと駆けていく。


拳と刃が交差する。


先ほど弾かれたはずのマチェットがいともたやすく絶対正義の拳を切断して振り抜かれ絶対正義の胴体を分断した。


絶対正義は上下に身体を分断されながらも女の顔面をつかみ取り、それを振り下ろしながら膝で蹴り上げ女の頭を砕いた。


びぐんッ!と弾む女の身体。

それでもなお女にとって致死には至らない。

しかしたしかにその瞬間、あらゆる思考は消失した。


ぐわん。


と、女を投げ出した絶対正義が両の腕を左右に開くようにして後ろに振りかぶる。

深々と腰を沈めただけで屋根にひびが刻まれ音が張り詰める。


「神罰―――」


おおゆみが如く引き絞られた剛腕が、ぐぐぁと咆哮を上げて膨らんだ。

極限まで力を絞り出さんと増殖する筋繊維、動力を届けるために増設される血管、心臓すらも置き去りに集まる血液。超高密度に集結するそれらによってもはや空間を歪ませるほどの熱が発生し、剛腕が神の武器へと鋳造される。


「―――執行ォオオオオッッッッッッッッ!!!!!!」


空の雲が、女もろともに消失した。

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