ストーカー

あべせい

ストーカー



「すいません。こちらの席、空いていますか?」

「……」

 新幹線の指定席。

 ABCと3席並ぶ真ん中のB席で、クラブのママ風の夫人が寝ている。通路側のC席は、夫人のものらしいバックでふさがっている。

 おれは、手提げバッグを網棚に乗せると、切符の座席番号を確かめて、もう一度声をかける。しかし、反応がない。

「もし、もし」

「……」

「もし、もし、奥さま」

「……」

「奥さま、お財布が……」

「なに、なにッ、なによ? 財布ッ!」

 夫人は慌てて、腕に通しているハンドバッグを見る。

 おれは、ゆっくり床から財布を拾いあげ、

「失礼、ぼくの財布でした」

「! あなた、いったいナニサマのつもりッ。ひとが気持ちよく寝ているのに!」

「こちら、8号車の5Bですが……」

「そうよ。わたしは、いま寝ておかないと、仕事に差し支えるの」

 そう言うと、ギュッと目を閉じる。

 おれは一気に怒りがこみあげ、

「奥さん、ここはぼくの席なンですッ」

「(目を開き)エッ!? なに? なに言ってるのッ!」

 おれは、手にしている切符を示し、

「ここは、ぼくの指定席です」

「(周りを見渡し)こんなに空いているンだから、ほかに座りなさいよ。気転のきかない子ね」

 再び、ギュッと目を閉じる。

 車内は2割ほどの乗車率。そこかしこに、空席がみえる。

「そうですか。ぼくがいけないンですか」

 夫人は目を閉じたまま、

「そうよ。わかってきたじゃない」

「じゃ、空いたところに座ります」

 おれは、C席のバッグとB席の夫人をまたぐ。

「あなた、なにするの! スカートが」

「空いた席に座りますッ!」

 おれは、半ば強引に窓際のA席に腰を下ろす。

 夫人、仕方なさそうに、C席のバッグをB席に移し、通路側のC席に移動した。

 おれが、B席のバッグをチラッと見て立ちあがったとき、列車がホームに停止。7、8名の乗客が通路を進んできた。

 その中の20代後半の女性が、夫人をチラっと見てから、窓際のおれに、

「すいません。わたし、5Aなンです……」

「アッ、ごめんなさい。ぼくは、5Bだったので……」

 おれは、網棚の自分のバッグをずらせたあと、5Bのバッグを乱暴にその横に放り投げた。

「アッ、そのバッグ……中に、主人の……」

 おれは再び夫人を乗り越え、通路に出る。

 すると、おれと入れ替わった女性が夫人に向かって、叫ぶ。

「どいてッ、どかないの!」

 おれは、唖然。

 夫人は、女性を見上げて、仕方なさそうに立ちあがる。

 女性は、窓際のA席に落ち着いた。

 この結果、窓際から、女性、おれ、夫人の順にと並んだ。三列並びの座席で、全部埋まっているのは、その車両ではそこだけだ。

 そこへ、車内販売の女性がカートを押しながら現れた。

 と、A席の女性がそれを見て、

「缶ビール2本に、サキイカをください」

 と言って買い求めた。

 女性、缶ビール1本をおれに差し出し、

「どうぞ」

「エッ、ぼくに?」

「ビール。お嫌いですか?」

「好きですが……」

 おれは右のC席の夫人を見やった。

「いいンです。お隣は……。お休みでしょうから」

 夫人、膝の上の雑誌に手を置いたまま、開いていた目を閉じた。ただ、顔は男性のほうに傾け、耳はしっかり立てている。

「わたし、聞いていただきたいことがあって……」

 女性は缶ビールを一気に飲んでからそう言い、大きな瞳でおれを見つめた。

「はァ……」

 おれは、警戒しながらも、話を聞く態勢になった。

 女性とは初対面だ。肩までの短い髪に黒縁の眼鏡。かなりの美形だ。しかし、記憶にない。女性は以前からおれを知っている風に、親し気におれを見つめる。

 列車は東京駅を出発して30数分。品川、新横浜に停車したあと、次は小田原だ。あとは、熱海、三島と続く。

 と、女性は、

「わたし、つけられているンです」

「つけられて? ストーカーですか?」

 おれは、思わず、周囲に目を配った。こちらを見ている者はいない。

「新横浜まで逃げてきて。この列車に飛び乗ったンです」

「しか……」

 しかし、指定席でしょ、と言いかけて、おれはやめた。

 何か理由があるのだろう。話の腰は折りたくない。

「……どちらまで、おいでになるのですか」

「三島にしようと思っています」

 おれも三島だ。これは偶然なのか。彼女は若く、魅力的だ。これは幸運か、よくないことが起きる前兆か。

 時刻は、もうすぐ、20時。三島到着は20時半頃。この時間にホテルを探すのはたいへんだ。しかし、それを聞いて、どうする。おれは話題を元に戻す。

「ストーカーに心当たりはおありですか?」

「仕事先の方です……」

「思い過ごしということはありませんか」

「被害妄想、わたしが?」

 彼女の表情がにわかに険しくなった。

「いいえ。ぼくにも経験があるものですから」

 おれは、思い出す。つい先月、3週間ほど前のことだ。

 参考図書の仕入れで業者との打ち合わせを終え、そのビルを出たとき、後ろから声をかけられたような気がして、振り返った。

 しかし、見知った人間は見当たらない。

 気のせいか。しかし、5階から乗った数分前のエレベータ内で、若い女性のつぶやきが気になった。

 エレベータのなかには、4、5人の男女がいた。顔見知りはいない。つぶやいたのは、左隣にいた20代後半の女性。化粧は濃いが、えもいわれぬ魅力があった。

 その女性が、

「許せない、許さない」

 をぶつぶつと繰り返していたのだ。

 ビルの外に出たときはすっかり忘れていたが、急に気になりだした。どこへ行ったのだろうか。

 歩道で立ち止まったまま、周囲を見回した。白いブラウスに山吹色のタイトスカート。山吹色、山吹色……を目当てに探したが、見つからない。

 仕事が終わり雑用はまだあるが、昼時だったので、近くの蕎麦屋に入った。蕎麦屋を出たとき、視野の端を山吹色がかすめた。

 おれは咄嗟に駆け出した。山吹色のスカートに向かって、あとを追った。目の先数メートルになり、走ることをやめた。と同時に気付いた。

 エレベータの女性ではない。髪型がまるで違う。目の前の女性はショートカットだ。しかも、山吹色は少し薄い。

 と、その女性が振り返った。

「あなた、なんですかッ。警察を呼びますよ」

「いいえ、人違いです。間違えました。すいません」

 おれは頭を下げて、深く詫びた。

 ショートカットの女性は美形だった。すぐにでもつきあいたいと思うほどの。

 おれはストーカーの加害者になりかけ、間違いですんだ。A席の女性は、あのときのショーツカットの女性と同じ思いをしたのかも知れない。

「経験? あなたの場合は、ストーカーをしたほうでしょう」

 彼女はそう言って笑った。冗談でも、当たっているから怖い。

 おれは押し黙った。よく見ると、それまで気が付かなかったが、彼女のスカートも山吹色。淡いが。

 まさかッ!? 彼女の容貌は……ショートカットの女性に似ている……。深く記憶しているわけではないが。おれには美人はみんな同じに見える。モテない男の習性なのだ。

「ストーカーと間違われたことはあります。あなたにとても似た女性に……」

 おれは思い切って、そう言った。

「わたしをストーカーしていたのは、あなた、ですって? おかしい、おかしいわ」

 確かにおかしな話だ。しかし、時間軸を変えれば、つながる。

「わたしの後をつけていたひとが、どうしてわたしより先にこの列車に乗っているの?」

「そうですね。ありえない」

 おれはそう言いながらも、妙な気分に襲われていた。

「あなた、いい加減に本当のことを言ったら」

 突然、右隣の夫人が小さな声で口を挟んだ。

 おれはびっくりして夫人を見た。夫人は左手で頬杖をついて、眠っている風だ。寝言なのだろうか。

 おれは、正体不明の女性2人に挟まれている薄気味悪さを感じた。

 夫人はさらに、

「借金取りに追われている、ってメールを打っていたじゃないの」

 寝言ではない。

 おれは知らない。気づかなかった。

 A席の彼女は黙っている。そういえば。彼女がスマホをいじりながら、車内に入ってきたことを覚えている。座席に腰かける際、スマホ画面を夫人のほうに向けていたのなら、そのとき見えても不思議ではない……。

「失礼ですが」

 おれは借金と聞いて、関心が湧いた。

「ぼくも仕事上の借金があります。ぼくの場合は百万ほど。でも、貯えがありますから、すぐに返済できる額です」

 A席の彼女は黙っている。懸命に思案している風だ。

「わたしの知人も借金に苦しんでいるの。百万……」

「それくらいなら……」

 おれは惚れやすい。とりわけ、美女には弱い。相手の性格がどうであれ、美形であれば、見境なく好きになってしまう。

 これから会いに行く未世(みよ)に対しても、3ヵ月前、懐かしさから恋心に転じた。彼女は宿泊したホテルのフロント係だったが、高校時代の同級生とわかった。

 一方で、信用金庫の窓口係の女性にも、ほのかな思いを寄せている。よせばいいのに、と他人は言うだろうが、こればかりは性格なのだから、どうにもならない。

 信金の美女は、同僚と昼食をとりに外に出るとき、「トンちゃん」と呼ばれていたので、おれの頭の中では「トン子」となっている。まさか、「豚子」ということはないだろうが、強いて名前を探ろうというほどの強い思いはなかった。

 いま、未世とA席の女性を比べて、未世にこだわる理由がなくなってきている。

 未世も借金がある。A席の女性も条件は同じではないか。わざわざ、三島まで行く必要があるのか。

「失礼ですが、三島で食事をご一緒していただければ、その返済の相談にのります」

「ホントッ、うれしいィ」

 彼女は目を輝かせて微笑む。

 しかし……。これはおかしくないか。列車でたまたま一緒になった男が、借金の肩代わりを申し出る。A席の彼女は、それを安易に受ける……。

 おれはそう思いながらも、スマホをいじる。今夜予約しているホテルに、もう1つシングルを予約する。未世が怪しむかも知れない、無駄になるぞ、という声を聞きながら。

 A席の彼女が立ち上がった。

「喫煙室に……」

 おれは、腰を引いて、前の座席の背もたれと膝の間を空ける。

 すると、隣の夫人は通路に出て、気持ちよく席を空けた。

 現れたときの彼女の乱暴なことばが蘇ったのか。

「失礼します」

 彼女は満足気に後方の車両に向かった。

 夫人はその後ろ姿を見送ると、席に戻り、おれに話しかける。

「あなた、あの女に騙されているわよ」

「どういうことですか」

 夫人は50才前後。肌はつやつやして女の魅力を発散しているが、同時に香水の香りが強烈だ。おれには好きになれない香り。避けるように体を反らせてみるが、夫人には通じない。

「あの女はあなたのお金を狙っているの。あなた、小金を貯めているでしょう」

 と言う。

 どうして、知っているンだ。しかし、小金とは失礼じゃないか。

 おれは、塾経営の傍ら、親から譲り受けたマンションがあり、その家賃収入がバカにならない。毎月、200万円の貯蓄ができ、信金に入金している。その信金には5000万円の定期がある。近く億ションを買う計画もある。

「あなたはどなたですか?」

「まだ、わからないの?」

 わかるわけがない。

「わたしがここに座っている理由を考えなさいな。おバカさんね」

 おれは悔しそうに夫人の大きな口をにらみつける。

 夫人がトイレに立った。入れ違うようにA席の彼女が戻ってきた。

「あのおばさんとナニを話したの?」

「特になにも……」

「そんなことないでしょ。まァ、いいわ」

 

 おれは、身の回りで何が起こっているのか、懸命に考える。

「ぼくは深井康二といいます。あなたの名前を教えてください」

「あなた、わたしのこと、まだわからないの?」

 おれは、アイラインで縁取られた彼女の大きな瞳を見つめた。

「ちょっと待って。そっちを見ていて……」

 彼女はそう言い、窓のほうに体を向け、俯き加減にハンドバッグの中をいじる。

 まもなく、

「いいわよ。こっちを向いても」

 おれの前に、黒縁の眼鏡をかけ、あごのラインまでの短い髪型の美女がいた。

「! トン子ッ!」

「トン子ってなに。トンちゃんなら呼ばれているけれど」

「信金のひとでしょう?」

「あなた、相変わらず、鈍いわね」

 おれは先週、赤塚信金の窓口に行き、100万円の定期預金を解約して50万円を引き出した。そのとき、窓口にいたのが、トン子だった。

 おれはトン子が好きで、彼女の窓口を狙って信金に通うといってもいい。ふだんの生活費などはATMで引き下ろすが、トン子と話がしたくなると、定期に預金したり解約したりと、何かと口実をつくって、3ヵ月に一度くらいは、彼女と間近に接している。

 先週は、窓口で、聞かれもしないのに、

「来週の日曜日、三島に旅行します。その費用です」

 と、ささやくと、

「だれと?」

 と、小さな声がする。前を見ると、トン子は俯き加減にペンを動かしいている。しかし、声の主は彼女以外に考えられない。

 おれは、

「ひとりです。あなたが一緒だったら」

 とささやいてみた。

 すると、トン子がペンを置いて顔をあげ、

「お待たせしました」

 と言って、何事もなかったように通帳を寄越した。

 おれは、いつも通り、

「ありがとう」

 と言い、踝を返した。

 あのときは、気のせいだと思ったが。

 目の前のトン子は、眼鏡とヘアウイッグを外して、

「わたしの名前は、伊東季衣(いとうとしえ)、トが2つもあるから、職場ではいつの間にか、『トンちゃん』になったの。眼鏡とウイッグは仕事用。変装じゃなくて、仕事とプライベートを区別しているの」

 と話した。

「でも、その指定席……」

 おれは、彼女が隣の指定席券をもっている理由が解せない。この列車の8号車5Bは、おれ自身がネット予約する際、選んで指定したものだ。この時間帯のこだまはすいていて、3列シートの真ん中は左右がたいてい空席だと噂で聞いていた。

 ただ、おれは塾の一部の生徒に、休塾日であるこの日に、用事があって三島に行くと漏らした。その生徒が、彼女とつながりがあるのか……。

「こちらのご夫人、遅いですね」

 C席の夫人のことが気になった。

「あのオバさんは戻って来ないわよ」

「エッ」

 網棚を見る。いつの間にか、おれが乱暴に乗せた手提げバッグがなくなっている。

「あの女性、わたしの母なの」

 信じられない。

「ひどい親でね。わたしと父を捨てて、男に走ったのよ」

「この新幹線で待ち合わせておられたのですか」

「1年に1度、忘れた頃に現れて、お金をせびるの。父が亡くなったから、いいと思っているのかも。先週も、お客のふりをして職場の窓口にきて、100万ほど都合してちょうだい、だって……」

 トン子は饒舌になった。腹に据えかねたのだろうか。

 おれは適当に相槌を打っている。

「そんな義理はないの。わたしのほうが欲しいくらいよ」

「それであげたのですか?」

「さっきすれ違ったときね。でも、半分の50万だけ」

「ひどい話ですね」

「あなたのご両親は?」

「5年前に続けざまに亡くなりました。土地と家、マンションと生命保険を遺して……」

「すてきなご両親だこと」

「そうですか。でも、親がいないと淋しいです」

「わたしは早く亡くなって欲しいと思っている」

 トン子なら、おれの預金額を知っている。信金の分だけだろうが、それで追いかけてきたのか。

「季衣さんは、ぼくに用があって、この列車に乗られたのですか?」

「三島にいる姉に会うためにね。だから、浜松に帰る母をこの列車に呼び出した、ってわけ」

「ぼくと会ったのは、全くの偶然ですか」

「そう、こういう偶然もあるのね」

 本当なら、たいへんなめぐりあわせだ。

「三島のホテルは決まっているのですか?」

 トン子は黙って頷く。そして、含み笑いをしている。

「まさか、同じホテルじゃないでしょうね」

「アクスルホテル……」

「同じです」

「あなた、未世はやめたほうがいいわよ」

「未世さんのこと、どうして……」

 おれはトン子の優しい瞳をじっと見つめた。そして、その理由がなんとなくわかったような気がしてきた。

「未世はわたしの姉。母によく似ている。浪費家で無責任……」

「でも、あのホテルは季衣さんが紹介してくれた……」

 伊豆のほうに旅行すると行ったら、トン子は三島のあのホテルを紹介した。半年も前のことだ。

 トン子と話がしたくて、定期口座を開設する口実で、相談窓口で彼女に旅行の計画を話した。

 そのとき紹介されたホテルを利用したが、そこで出会った未世に一目ぼれしてしまった。

 トン子があのホテルを紹介した理由は聞かなかったが、気にはなっていた。

「本当にあのホテルに泊まるとは思わなかった。姉を好きになることも想定外だったわ」

 思い出した。未世には、この列車の時刻、座席位置をメールで知らせていた。

 未世がトン子に教えたのなら、トン子がこの列車に乗ってきた理由は理解できる。偶然ではない。おれの座席の隣を予約したのだ。

「でも、姉はダメ。姉には決まったひとがいるから。それも、質のわるい男……」

 おれが未世に会えば、お金を貢がされる。トン子はそれを恐れている。おれにとっては、未世でもトン子でもリスクは同じだ。強いて言えば、目の前のトン子のほうがつきあいが長い分、おれにはつきあいやすい。

「季衣さん。ホテルを変えます。別のホテルにシングルを2つとります」

 おれはすぐにアクスルホテルをキャンセルして、近くのホテルに予約を入れた。キャンセル料が発生するが、トン子とつきあえるのなら安いものだ。

「一緒にするのは食事だけよ。それだけ……」

 トン子はおれを見て、やさしい笑みをもらす。

 それだけでいい。その笑顔だけで、おれは癒される。両親も兄弟もない、天涯孤独のおれは、資産を失うことを恐れ、女性とのつきあいを警戒して、世間並みの恋も結婚も出来なかった。

 トン子がどんな女性か、全く知らない。彼女もおれについては、資産の一部しか知らない。互いに知らない者どうしが、このような形で親しくなっていいではないか。この先どうなるのか、だれにもわからない。

「あなた、わたしのこと、知っているの? 知らないでしょう?」

 トン子がからかうように尋ねる。

「知りません。これから、たくさん知ることになります。それでよくないですか?」

 信用金庫に勤めているのだから、それなりの身上だろう。出自、学歴、職歴、多く知らないが、幸い彼女の母、姉の外見は知っている。

 それでいいじゃないか。あとは、トン子をどれだけ好きになるか。なれるか。好きになれば、あとのことはついてくる。問題が見つかれば、解決しようという気持ちになる。

「そうね。わたしもあなたのことは、資産家の跡取り息子で、流行らない塾経営者ということしか知らない。注文をつけたいところは、いくつもあるけれど、それがあなたにいいことなのか、どうか、よくわからない。このつきあいは時間がかかるわね」

「2人とも、いまの調子だと。死ぬまで時間はたっぷりあります。これから食事しながら……。もうすぐ、三島です」

「そうね。じゃ、わたし、姉に断りの電話を入れる。あなたと食事をすると言えば、どう反応するか。楽しみだわ」

「ぼくのことも言い添えてください。恋人が見つかったって……」

「もしもし、未世ちゃん、わたし……」

 トン子はスマホを取り出し、電話をしている。

「ええ、エッ、知っていたの。母さんから電話があったのね……。そういうこと。深井さんは何も知らない。……わたしだって、それほどバカじゃないわ……。彼、いまそばにいるよ……代わる?……そォ、じゃ、おやすみ」

 どんな話なのか、よくわからない。しかし、これでいい。トン子とはすべてこれからだ。知らない者どうしが、危険を承知でつきあいを始める。しかし、危険といっても、小さなものだ、いまのところは。大きくなるかも知れないが、それは彼女を好きになれば、よりはっきりする。とにかく、好きにならなくては。

 おれはこう考え、窓際でしあわせそうに笑みをもらしているトン子の横顔を見つめた。

                     (了)

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ストーカー あべせい @abesei

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