十 魔術師



「テール様、どうかしばしの間、彼をお守りください」


 アルンは両の脚でしっかりと大地を踏みしめ、森を睨んだまま神へ祈った。〈祝福〉の力がアルンの体から大地へと流れ込み、足元の草が更に青々と生い繁って花を咲かせる。少しの間なら、これで草花達がルノを守ってくれるだろう。


 眠るルノの呼吸が安定しているのを確かめ、アルンは森に向かって走り出した。エシテが「アルン! どうしました!」と呼びかけてくる。彼女は立ち上がってアルンの後を追いかけようとして、ルノを置いてゆけずに踏みとどまった。


「すぐ戻りますから!」


 そう言って素早く裏門を出る。見回すが人影はない。しかし、気配がある。比較的大きな――そう、ちょうど人間くらいの大きさの、生命の気配。


「……どうして姿を隠すの」


 アルンは低く問うた。真っ直ぐ、一本の木の陰を見つめる。ゆらめき立ち昇る大地の力が彼女の鳶色の瞳を新緑色に輝かせ、その光が気配を射抜く。


 すると、ゆらりと陽炎が揺れるように木陰の空間が歪み、そこに人影が現れた。裾がほつれ、薄汚れた灰色のマントを纏った男。顔はフードで隠れて見えない。


「あなたは、魔術師なの? この魔獣を呼んだのも、集会場を焼いたのも、あなた?」


 畳み掛けるように追及する。


「火災は私だが、勘違いしないでいただきたい。馬車と除草剤は組織の末端の者だ。私はあの無様なやり口を罰する側にあった」

「組織?」


 ローブの袖から覗く痩せ細った手、汚れて伸びた爪、少なくともまともな暮らしはしていなさそうだ。魔術師なんて、王都へ行けば引く手数多だろうに。働きもせず、食べもせず、複数の人間が組織立って罪を犯している?


額突ぬかずいて全てを捧げぬからと我らを迫害し、まるで自らのみが神々に愛されし上位の存在であるかのように振る舞う悪しき神官らよ、我ら『浄化の火フラトラジネ』が汝らの盲信せし神々に代わって神罰を下そう」


 さっと、白く濁った光の線が男の足元を走った。彼を中心にアルンを囲う大きな円。その中に描かれてゆく複雑な幾何学紋様。アルンはそれを冷たく見下ろして観察し、そして気づいた。火事の時に見たものとよく似ている。緻密で美しいはずなのになぜか禍々しさを感じる、僅かに歪んだ魔法陣。


「シルラ=ファリ――』


 呪文が唱えられようとした瞬間、アルンは片足を上げてドンとその魔法陣を踏みつけた。濁った色の弱い光が鮮烈な緑色に塗り替えられ、幾何学紋様が蔓草模様に置き換わってゆく。やわらかく茎を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせたそれはアルンの唯一描ける顕現陣だ。もっとも、普段は祈りを唱えるばかりで実際に使ったことはなかったが。


「……なんて、〈魔力〉だ。それもこの彩度、地の女神の愛し子か!」

「イルト・ルヴァ=エツェル・ナ=スクラゼナ」


 短い古語の祈り。魔術師の使う鋭いエルート語とは響きの違う、優しい発音のアルレア語。本当は節をつけて歌わなければならないが、苦手なので唱えるだけ。


 円の中が緑の光でいっぱいになり、急速に育ち始めた植物達が魔術師の足元を崩す。男はしかしよろめきながら、今度は空中に魔法陣を描いた。濁った光が紋様を描き、そして強く〈魔力〉を流されて回転を始める。


(……回転する魔法陣って、どこかで)

 

芯まで凍れシルラ=ファリミステール!」


 枯れた声で魔術師が怒鳴る。アルンから見れば弱々しい〈祝福〉の気配が――突如、彼女の顕現術の気配を全て塗り替えるほど莫大なものになる。吹き出した吹雪が恐るべき速さで周囲の森を凍りつかせ、そしてアルンに襲いかかった。


「――伏せろ、アルン!!」


 喉の裂けるような誰かの叫び声。反射的に頭を抱えてうずくまる。と、その頭上を凄まじい勢いで炎の球が通過していった。氷と炎の気配がせめぎ合い、相殺して爆風を起こしながら散り散りになる。


「……シルイ!?」


 ズサァッと地を滑りながら現れたのはシルイだった。なら、今の叫び声も彼だったのか?


「こいつ、魔術師か」


 シルイが元の淡々とした声に戻ってアルンに問う。アルンは頷いた。


「うん、ルノとユシエに魔狼をけしかけたのもこいつ」

「それで、今度はアルンを殺そうというのか」


 シルイが言った。語尾が僅かに震えている。そして彼の顔を見上げてアルンも震え上がった。強い強い怒りに瞳を燃やし、というか実際に灰色の目を火の〈祝福〉の色に光らせながら、シルイは槍を構えて一歩踏み出した。その気迫に魔術師がじり、と一歩後退る。


「……私はもう二度と、目の前で誰かを死なせたりしない。この手の届く全てを守るのが、私の使命だ」


 毎朝の儀式も食前の祈りも一切しない、まともな信仰を持っているとはとても思えないシルイがどうしてこんなにも強い火の力を与えられているのか、アルンは今初めて理解した気がした。戦いと守護の女神フランヴェールは何よりも「何かを守るために信念をもって戦う者」を愛される。神にかしずく者ではなく、その手で守りたいもののために戦う人間を。


「……神官の分際で、『守る』だと? 神殿こそ我ら魔術師を排斥し、泣き縋る家族から幼子を取り上げ、その視界に入る全てに信仰という名の屈服と恭順を迫る悪漢ではないか。散々暴力を振るっておきながら、自らが傷つけられれば、まるで清廉潔白な勇者の如く振る舞うとは!」

「――何を言ってるかわからないけど!」


 シルイが口を開く前に、アルンが怒鳴り返した。氷と炎に焼かれた大地が彼女の〈祝福〉で息を吹き返し、再び美しい緑の森に戻ってゆく。


「何が正しいとか、そんな話は初めから一言だって私はしていない。私はただ、私の大切な人達を害したお前に憤ってるだけだ」


 フードの下から憎悪の視線。でも負けない。


「幸い二人とも命は取り留めた。けれど体の傷は治っても、心の傷は治らない。自分の腕を獣に食いちぎられる、痛みと恐怖の記憶を抱えて、これからユシエがどんな思いで生きていかなければならないか、あなたは考えてみたのか!!」


 憎悪の視線がほんの少しだけ、揺らぎ、そして強さを増す。傷つけられて逆上するように。


「お前らが、お前らがそのような――」

「誰にだって大事な人のために怒る権利はある。けれど、そのために別の誰かを傷つけていい権利は誰も持っていない。正義を主張したいなら、まずはこのシルイのように、守るための力の使い方を覚えてみろ!!」


 力一杯怒鳴ったら、目眩がした。そういえば火災の時よりもずっとたくさんの力を使っていたのだと思い出す。端の方が暗くなって揺れる視界の中で、隙を見た魔術師の男が背を向けて走り出すのが見えた。シルイが追おうとして、草の中に倒れ込んだアルンを振り返り、立ち止まる。


「いいから、行って」

「……敵があの男一人とは限らない」


 シルイが呟き、槍を置いてアルンの隣に跪いたのが見えたところで、彼女の意識は途絶えた。





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