九 生命の祈り



「しっかりして……ルノ、ルノ!」


 耳元で声をかけながら、必死に周囲を見回す。応援の隊員が現れる気配はなく、青い帯を巻いているのはルノだけだ。


「水の……三番隊は!」


 声を上げると、襲い来る魔狼を次々に炎で消し炭にしているシルイが「隊舎にはいるはずだ。なぜ来ないのかは知らないが」と言った。


「シルイ、ルノを治療院に運ぶの手伝って!」

「こいつらを片付けたら。お前の恐怖に反応している」


 数を半分ほどに減らした魔狼は、相変わらずアルン達を取り囲んでいた。必死に恐怖を引っ込めようと努力するが、どくどくと溢れる血液が両手を温かく濡らしていて、どうしようも、どうしようもないのだ。


「ルノ……」

「お前、地の神官だろう。時間稼ぎはできないのか?」

「もう一度種を蒔くってこと?」

「そいつが失血死するまでの時間だ」

「わ、私は……」


 ルノを見下ろす。神殿治療院に勤める大地の神官がいることは知っていたが、その技術を学んだことがあるわけではなかった。


「私は……やり方、知らなくて」

「神官の術というのは、祈りだろう」

「え?」

「顕現術の『顕現』というのは、『神の力を顕現させる』という意味だ。わざを行うのはお前じゃなく、神なんじゃないのか」


 ハッとした。返事をする時間も惜しくて、地に投げ出されたルノの手を握る。


 ――神よ、我が愛しき命と豊穣の女神テールよ


 目を閉じて、祈る。体の中の魔力――神に与えられた祝福の力が祈りに応えて動き出し、天を目指して芽吹くのを感じた。知らず、アルンの髪がふわりと風に吹かれるように持ち上がり、その姿が薄っすらと緑色の光で包まれる。


「かの者の命を繋ぎとめたまえ。生きる力を与えたまえ。汝の兄にして癒しの神オーヴァスの御手が差し伸べられるまで、かの者に希望を与えたまえ。慈しみ深き我が神の愛を、雨の愛し子に分け与えたまえ」


 アルンの肌を輝かせる淡い光が、ルノの手を伝って流れ始めた。光はルノの全身を呑み込み、そして段々と輝きを強くする。周囲の地面から小さな草の芽が次々に芽吹き、木々の梢がつやつやとその色を鮮やかにした。


(テール様、ルノを助けて)


 握りしめた手に、ぽたぽたと涙が滴った。光はどんどん強くなりながら神殿の裏門前に草を繁らせてゆき、ドノスとユシエが立て篭もる分界も呑み込んだ。光に触れた人々の心に希望が与えられ、恐怖を狙う魔狼達が勢いをなくす。


 その時のことだ。そんな状況も知らず、一心に祈り続けていたアルンの肩に誰かの手が置かれた。顔を上げると、ルノやシルイと同い年くらいに見える青年が微笑んでいる。水色のトーガだ。しかもこの人は見覚えがある。


「あ……治療院の先生」

「一番隊の方に呼ばれました――ああ、その術はそのままで。よく頑張りましたね」


 ルノとは違っていかにも水の神官らしい、穏やかで優しさに満ちた声がかけられた。が、その目は真剣そのもので、若先生はアルンが止血しようと必死で押し付けた上着を慎重な手つきで剥がすと、骨も内臓も見えている傷口に手をかざした。


「――我が神にして癒しを司りし水の神オーヴァスよ、我が祈りに応え、傷つき苦しみの中にある弱きものをこの苦難より救い給え」


 まるで傷口に蓋をするように、信じられないくらい細かい光の紋様が目で追えない速さで描かれてゆく。その紋様がまだ描き上がらないうちに、流れ出す血がその勢いを弱めたのがわかった。


「痛み、哀しみの源泉たる深き傷を癒し、清め、その心に恵みの泉を宿し給え。世の清廉を司る夜明けの神よ、今この時、我が涙と心の全てを汝に捧げん――ユ・エテス=ティア・ハツェ」


 ちゃんと音が合っている短い古語の歌が歌われ、先生の茶色の目が一瞬、鮮やかな水色に光った。見間違いかと思って目を擦っているうちに顕現陣はキラキラと光の粒を残しながら消えて、そして傷ひとつないまっさらな肌が現れる。


「治っ、た……治った!」


 飛び跳ねるように立ち上がろうとして、まだルノの手を握ったままだったことに気づく。もう術をやめてもいいのかと先生に尋ねようとして、口を開く前に「まだ、そのままで」と言われた。


「治療院に運ぶまではそのままにしておいてください。……これだけの大きな治療を一度にできたのはあなたのおかげですよ。あなたのその力がなければ、彼は治癒に必要なだけの生命力を維持できなかったでしょう」


 先生は疲れた様子もなく、一際優しくにっこりした。そして軽い調子で「あ、ルアニスは三日間の入院ですから」と告げる。背後でシルイが飛び掛かってきた魔狼を串刺しにしているが、見向きもしない。


「あの、先生。ユシエも助けてあげてください」

「腕を怪我した子ですね、もちろんですとも」


 そうして先生はさっと立ち上がり、少しだけ周囲の状況を見て、そしてなんと魔獣がうろつく真ん中を突っ切って歩き始めた。


「は!?」


 思わず叫んだアルンと、ドノスの声が被る。先生は礼儀正しく手の甲で分界をコンコンコンと三度ノックし、「入れてくださいな、ドノリエス」と言っている。


「ファラ! 危ないだろうが!!」とドノス。知り合いらしい。

「大丈夫ですよ、心を静めていればそうそう狙われません」と先生。

「んな馬鹿な……」


 呆れ果てた顔のドノスが術をいじって中へ入れてやると、先生はしゃがみ込んで「上手に止血できていますね、取れたおてては拾いましたか?」と言っている。はいと答えた火の神官が千切られたユシエの腕を手渡したのを見て、アルンは目を伏せた。


「ああ、いいですね。魔獣が肉食でなくて良かった。くっつけるだけなら簡単ですからね――けどこの子も入院かな、血を増やすお薬を出しておきますね」

「あの、ルノは」ドノスの声。

「大丈夫ですよ。でも三日間は治療院で安静にしてもらいます」

「……ありがとう、ございます」

「神のなされたことです――はい、綺麗にくっつきました」


 先生のなんだか気の抜けるような声を聞いているうちに、ようやく、応援部隊が駆けつけたようだった。赤い帯の隊員達が一斉に槍を構えて魔狼に踊りかかり、青い帯の隊員達が浄化の術で周囲一帯を清める。すうっと空気が綺麗になったのを感じて、アルンは無意識に詰めていた息を吐いて深呼吸した。魔獣は目には見えない瘴気のようなものを発しているらしく、それを浴びると人は恐怖や怒りの気持ちを抑えられなくなるという。初めて本物の魔獣を見たが、確かにこうしてみると、自分では制御できない発作のような恐怖心はそれが原因だったのかもしれないと思う。


「……隊員が、傷を負っているな」


 その時、近くの魔狼を倒し切ったシルイが呟くように言った。


「え?」

「向こうでも、何かあったのかもしれない」


 全く不自然さを感じさせない動きで戦っている彼らを見ると、確かに、応援に加わった隊員達の何人かの隊服が裂け、中のシャツが赤黒く染まっているのが見える。それに、副隊長の姿が見えない。


「副隊長は……」

「治療院に運ばれました。表門にも魔狼が出たのです。こちらのように群れではなく、巨大なものが一頭」


 振り返ると四番隊長のエシテだった。ひどく顔色が悪い。


「巨大な?」

「体高が、隊舎の屋根くらいまでありました。この群れのリーダーではないかと思いますが……それにしては、群れから離れているのがおかしい」


 エシテは最後の一頭が倒されたの見て疲れ切ったように地面に座り込み、アルンが生やしたと思われるタンポポの花をそっと撫でた。生真面目そうに引き結ばれていた口元にほんのり笑みが浮かぶ。


「あ、エシテさん、笑うと可愛い」


 また心の声がそのまま出てしまった。エシテは驚いたように目をぱちくりして、そして少しだけ頬を赤くすると、すぐ真面目な顔に戻って言った。


「確証はありませんが、この襲撃も何者かに仕組まれたものである可能性が高いです。この国には元々四つ脚型の魔獣が生息していない。このように大きな群れが国境を抜ければ騎士団から通達があるはずで、何者かが秘密裏に――」

「エシテさん」

「……はい?」


 押し殺した声で話を遮られ、エシテが不思議そうにする。その顔も可愛い。


「少しの間、ルノを見ていてくれますか。すぐ戻るので」


 そう言って、アルンは立ち上がった。裏門を抜けた奥、神殿を取り囲む森の奥を睨みながら。











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