八 魔狼



 悲鳴に混ざって、動物の声というよりは地鳴りのような奇妙な唸り声が聞こえた。かかとを滑らせながら角を曲がると、黒い影のような姿をした獣がたくさん。普通の狼よりも一回り大きいかという程度の体躯に対して、あまりにも声が低いように感じる。


「多いな」とドノス。

「見えているだけで三十四」とルノ。


 そんな魔狼の群れは身の毛のよだつような唸りを上げながら、何かを取り囲んでいるように見えた。


「ユシ――」

「静かに!」


 アルンが友の名を叫ぼうとしたのをドノスが鋭く遮った。


「私の、私の親友なんです!」

「黙れと言ってる! 魔獣は最も恐怖している人間を狙う習性があるんだ。気持ちはわかるが、臆するな。もし心で恐れても、決して泣いたり喚いたりするな!」


 はい、と言おうとしたが声を出せばに悲鳴になってしまいそうで、頷くだけにとどめた。暴れ出しそうな感情を走りながら必死に静める。アルンは心の中に一粒の種を思い描いた。種はすぐに芽吹き茎を伸ばすと、今にも爆発しそうな自分を頑丈な蔓でがんじがらめにして、見えなくなるまで葉を茂らせる。


 魔狼達が取り囲み繰り返し牙を突き立てているのは、幸いなことにユシエではなかった。その場に居合わせたらしい火の神官が二人、必死の形相で分界ぶんかいの術を維持し、半球状になった赤い光の紋様に守られたその中で――


 息を止めて歯を食いしばり、悲鳴を堪えた。目を閉じて横たわるユシエは遠目にわかるくらい血まみれで、左腕の肘から先が無かった。火の神官の一人が腰帯を解いて二の腕を縛り、どうにか止血しようと試みている。つまり、まだ血が噴き出し続けている。


「すぐに運ぶか、水の神官を連れてきたい。道を開けられる?」


 ルノが言った。ドノスが難しい顔で「やってみるが、時間がかかりそうだ」と言う。


「救助に来た! 心を強く持て! お前達の恐怖が魔獣を集めている!」


 ドノスが呼びかけると、盾の中の神官が叫び返す。


「長くは持たない! 俺はあまり顕現術けんげんじゅつが得意じゃないんだ!」

「弱気になるな! フランヴェールに仕える身だろう!」

「そうは言っても!」

「結び目の下に短剣の鞘を差し込んで捻れ! 止血帯がまだ緩いんだ!」


 ルノが叫んだ。ユシエの処置をしていた方の神官が頷く。と、ドノスが急停止し、なんとか魔狼を蹴散らして先へ進もうとしていたシルイに声をかけた。


「一度退け、シルイ! それではキリがない!」


 シルイは振り返らず、襲いかかってきた魔狼の首を串刺しにしようとした。が、直前で身を捩られて槍は腹に刺さる。シルイが舌打ちして腕を振るうと、大きく裂かれた傷口からどす黒い血液と、それから液体ではなさそうな何かが溢れ出した。目を逸らそうとして思いとどまり、喉まで込み上げた胃液を飲み下す。


 しかし魔狼はそれでも動きを止めず、むしろ抜けかけた槍に突っ込むような動きでシルイに襲い掛かった。体勢を整えた彼が今度こそ首を貫こうとして、直前でビュッと風を切って槍を返す。横から飛びかかった別の個体の眉間を貫いた。回した槍の柄で腹を裂いた方の魔狼を弾き飛ばし、すぐさま追撃を加える。心臓をひと突きにされて魔狼が倒れる。しかし、これで二頭。


「シルイ退け、矢を使う!」


 するとドノスが叫んだ。今度はシルイも反応する。彼が群れから距離を取ったのを見て、ドノスがすうっと空中で弓を引き絞るような動作を見せた。手の中から真紅の炎が燃え上がり、みるみるうちに大きな弓の形を成す。最後に眩しいくらい輝く炎の矢が現れて、そして音もなく放たれた。一頭の魔狼が片目を燃え上がらせてよろめき、すぐにもう片方の目も潰された。すぐさまシルイと、一番隊の隊員が両側から槍で貫き、息の根を止める。


「一頭ずつ、確実に倒していくぞ!」

「はい!」


 しかし勝ち筋が見えてきたかと思えたその時、群れの中央でユシエを守っている神官が悲鳴を上げた。


「だめだ、もう分界が消える!」

「もう少し耐えろ!」

「祝福がもう尽きかけてる、もう、私の意識が……!」


(ユシエが、死んじゃう)


 氷のように冷たい恐怖が込み上げて、アルンは無意識に隊服の胸元を掴んだ。真っ黒な絶望が、すぐ手の届くところまで迫っているような感覚。呼吸が段々と喘ぐように荒くなり、彼女はそれを抑え込もうと――


(……あ)


 抑え込もうとして、やめた。


「……ドノス、私が隙を作ります!」

「は?」


 走り出す。帯に下げた袋に手を突っ込み、小さな種を撒きながら。


 アルンは魔獣の群れが少ない、一番人のいない森側へ滑り込むと、そこに崩れるように膝をついた。石がゴロゴロしていて、ちょっと涙が出そうなくらい痛い。


 それくらいで、ちょうどいい。


「――嫌ああぁアァっ! 来ないで! 来ないで! 助けて!!」


 蔦でがんじがらめにされていた恐怖心を一気に解放する。「やめろアルン!」と叫んだドノスがこちらへ走ってくる前に、魔獣の群れが彼女に向かって殺到した。


「テールよ、種子へ祝福を!!」


 大地の女神の名を叫んだ途端、爆発的な速度で地面から無数の種が芽吹き、太い蔓となって走る魔獣に絡みついた。蔓草というのは元々、触れたものに巻きついて枝や壁を登るようにできているのだ。だから成長速度を上げれば、それだけの速さで触れたもの全てに絡みつき、絞め上げる。


 蔓草は次々に魔狼を拘束していったが、残念ながら、種はアルンが走った道に沿って真っ直ぐ並んで生えているだけだった。長くうねる蔓を避け、大きく回り込んだ魔狼の、血の色をした瞳と目が合う。真っ黒な長い牙が鈍く光る。


「あ――」

「馬鹿!」


 金色の何かに飛びつかれて地面を転がった。背中をしたたかにうちつけ、呻きながら目を開ける。目の前にルノの顔。


「ルノ」

「……っ!」


 美しいかんばせが二度、三度と苦痛に歪んだ。頭を捻って彼の後ろを見ようとして、押さえつけられる。


「動く、な……って!」

「……嫌!! ルノ、やめて! やめてお願い――!」

「早くしろ馬鹿!」


 ルノが叫び、そして頭を押さえていた手が緩まった。腕の中から無理やり顔を出すと、魔獣とルノの間にシルイが立ち塞がっている。ユシエの方を見ると、あちらはドノスが飛び込んで術の盾を作り直したようだ。


「シルイ!」

「そいつを診てろ」


 シルイが短く言って、両手で持った槍を体の前でぐるっと回した。槍の穂先が赤い光の円を描き、その中に複雑な紋様が描かれてゆく。顕現術だ。魔術とは異なる神官特有のその術は、大きな力の気配と共に強く光り輝き、次の瞬間、魔狼の群れに向かって凄まじい勢いの炎が噴き出した。一番手前の一頭が、見る間にボロボロと灰になって崩れ落ちる。そんな技が使えたなら、とアルンは一瞬考えたがすぐに思い直した。こんなの、ユシエ達ごと焼き尽くしてしまう。今はそんなことよりルノだ。


「……ルノ。き、傷が」

「……どっかの馬鹿が馬鹿やったせいだね」


 ルノが掠れた声で言って、ぎゅっと眉を寄せたまま苦しげに口の端を上げた。


「自分で治せないの?」

「できないね。僕が使えるのは……土地に、雨を呼ぶ術だけだよ。火事の時……湖から直接放水した方、が、早いのにって……思わなかったの?」

「お、思わなかった」

「……馬鹿だね、ほんとに」


 コホッと小さく咳き込んだ拍子に飛び出した赤色が、アルンの頬にびしゃりと落ちる。「ああ、ごめん」ともう一度痛みに歪んだ笑みを浮かべて、ルノは意識を失った。


「ルノ! ルノっ!!」


 アルンはどうにかルノの下から這い出し、脱いだ上着を押し当てて、溢れる血を止めようとした。けれど布はすぐにずっしり重くなって、少しも……彼の命が流れ出るのを、堰き止めてくれない。


 腹部と右脚、左肩。三箇所を大きく喰い千切られたその傷は、明らかに致命傷に見えた。





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