三 どんぐり



「ちょっ……と、うわ」


 崩れ落ちる部屋を見て、ルノが愕然と目を見開く。どうやら床も抜けたらしく、ものすごい音と共に一階の窓が割れて火の粉が噴き出した。アルンは真っ青になって彼の背中をバンバンと手のひらで叩いた。


「ど、どうしよう、ねえ、どうしよう!」

「うるさいよ馬鹿! ……火の神官には盾の術があるから、潰されてはいないと思う。けど僕一人じゃあの瓦礫は持ち上げられない。応援が来るまであの付近に雨を集中させてはみるけど」

「瓦礫、瓦礫をどかしたら二人は助かる?」

「煙に巻かれてなければ」

「私、行ってくる!」

「え? おい待てって!」


 声が追ってくるが、返事をしている余裕はない。大雨で自分の全身が隅々までびしょ濡れなのを走りながら確認し、アルンは大きく息を吸って止めると、開きっぱなしだった一階の扉から建物の中へ飛び込もうとした。が、直前でルノに腕を掴まれる。


「離して!」

「馬鹿じゃないの、死ぬよ!」

「――私なら瓦礫をどかせる!」


 腕を振り払って睨むように見上げる、ルノはそれを怖い顔で睨み返したが、アルンの強気な目を見て少しだけ視線の色を変える。


「本当だろうね?」

「……たぶん」


 問われると自信がなくなって俯く。ルノは数秒、眉間に皺を寄せて思考を巡らせるようにアルンを睨んでいたが、ちらと燃える窓を見てため息をついた。


「いいか、僕から離れるなよ」

「はい」

「姿勢を低く保って、できるだけ息するな」


 室内に飛び込む。玄関はまだそれほど燃えていない。奥の部屋へ続く扉を開けようと手を伸ばし、肩を掴まれた。見上げると首を横に振られ、代わりに彼が鉄のドアノブを握る。濡れた手のひらからぶしゅうと蒸気が上がり、ルノが顔をしかめる。


「ル……っ!」


 声を上げかけて頭を叩かれた。そうだった、と呼吸を止めて中へ駆け込む。とそこでアルンは急停止して、息を呑みそうになるのをなんとか堪えた。


(なに……これ)


 がらんとした広間。いや、集会場らしい大きな机とたくさんの椅子が広間の真ん中で、凄まじい勢いの火柱が上がっていた。燃料らしい燃料もないところで天井まで垂直に燃え上がる、色の薄い黄色の炎。火柱を中心に足元へ大きく広がる、光の線で描かれた禍々しい幾何学紋様。


(……魔法、陣?)


 熱と煙で顔が、目が、全身の肌が痛い。何もしていないのに〈祝福〉の力がどんどん消費されてゆくのが感じられた。神の加護がアルンの身を炎から守ろうとしているのだ。


 バンと背中を叩かれて正気に戻った。まだだ、まだ奥に行かないと。


 次のドアはもう半分以上燃えていたので、ルノが蹴り崩した。中は火の海かと思ったが、案外そこまででもない。一気に落ちてきた天井が一時的に火の勢いを弱めているらしい。しかし積み重なった太い梁の山に一度燃え移れば、おそらく誰も助からないだろう。


 どうするんだ、という顔で見下ろしてくるルノに頷き返し、右手でポケットを探る。突入前に帯の革袋から移しておいたそれを、アルンは力一杯部屋の中央に向かって投げた。


 コロンコロンと、一粒のどんぐりが跳ねながら床を転がる。


「は?」


 ルノが間の抜けた声を上げ、強く咳き込んだ。まずい、煙を吸ってしまう。


「――大地の神よ!!」


 肺の中の空気を全部使ってアルンが祈りを吐き出した途端、目の前で何か大きなものが飛び跳ねた。ルノが咄嗟にアルンを突き飛ばし、床に転がる。肘を擦りむいて涙が滲んだが、祈り続ける。


「神よ、お許しください。人の命を救うため、この一粒の種子に犠牲を強いることを」


 アルンの鳶色の瞳が緑色に輝き、それに応えるように目の前の――信じられない勢いで芽吹き、茎を伸ばし、目にも留まらぬ速さで大樹へとなった樫の木が淡く光を放った。


「女神よ、かの種子へ大地の祝福を!」


 ドカンと音を立てて太い幹が瓦礫を弾き飛ばす。アルンが枝の一本に飛び乗ると、ルノも慌てて同じ枝にしがみついた。梁や床の破片が降り注いだが、分厚く葉を茂らせた梢が二人を守る。背後の火柱がふっと消えた。床を割った根に魔法陣が壊されたらしい。


 もう一度ドカンと大きな音が鳴り、屋根が割れて上からキラキラと深緑色の木漏れ日が差した。煙が一気に空へ昇ってゆき、息ができるようになる。見上げると、上の方の枝に目をまん丸くしたドノスとシルイが引っかかっていた。


「……え、ルノ? アルン?」

「ルノ、雨を降らせてください!」

「もうやってる」


 祈りの言葉を唱えながら枝を登ったルノは、呆然としながら赤い光の紋様に包まれている二人に「動ける? 頭痛、目眩、吐き気は?」と立て続けに訊いた。盾の術の一種と思われる球状のそれを消したドノスが、まだ目を丸くしたまま頷く。


「ああ……窓に近い場所だったからな、どうにか大丈夫だ。……これは?」

「話は後。ひとまず屋根に出るよ」


 梢の中をよじ登って穴の開いた屋根に下りると、外は大雨だった。アルンは若枝の一本に手を当て、思いきり力を流し込んだ。この雨が炎を消し止めるまで、この子が焦がされた樹皮を再生し続けられるように。


「おい、まだ要救助者を発見していない!」

「戻るのは無理だよ、シルイ。見ればわかるでしょ」


 ありがとう。ごめんねと木に囁いて戻ると、屋根の上でルノ達が揉めていた。


「無理とは何だ!」とシルイ。

「無理なものは無理。無駄に死者が出るだけ」


 ルノが吐き捨てると、ドノスが困りきった顔で「おい、喧嘩するなって」と言う。しかしシルイは大きく腕を振って強引に腕を掴もうとしたルノを遠ざけ、言い募った。


「まだ死んでいるとは限らない! 私達は決して――」

「少なくともこの中に生きている人はいない、と思う……ひとまず降りよう、崩れるよ」


 アルンが言うと、三人が同時に振り返る。ドノスが「……そうか、地の神官。命の神の祝福か」と呟いた。生命の女神の祝福のおかげで、アルンは少しだけ、生き物の気配を感じ取れるのだ。


 屋根の端までやってくると、ドノスがシルイとルノに「降りられるな?」と尋ねる。二人が頷くと、ドノスはアルンを抱え上げ、そして彼女が反応する間もなくピョンと二階建ての屋敷の屋根の上から飛び降りた。


「ぎゃっ!!」

「歯を食いしばれ」


 耳元で囁かれ、慌てて口を閉じる。すぐにぐるんと視界が回ったが、思っていたよりずっとやわらかく着地が済んだ。転がった時にちょっと押し潰されて痛かったくらいだ。


「ちょっとお馬鹿さん達! 建物から離れて!」


 とその時そんなルノの声が聞こえて、アルン達は慌てて壁から距離を取った。アルンの力を得て更に成長し、建物なら五階建ての高さを越したかなという大きさになった樫の木が、その枝で屋根を突き破り壁を崩しながらつやつやとした青葉を茂らせる。


「……とんでもないな」

「ドノス、中へ戻るぞ」

「は?」


 淡々としたシルイの声にドノスが振り返る。黒髪の青年は静かに言った。


「要救助者の絶命を確認したわけではない」

「……いや」


 ドノスは首を振った。彼は周囲を見回して、小さな声で言う。


「おそらく、初めからいなかったんだろう――見ろ、兄だという男が姿を消している」

「え?」


 慌ててキョロキョロすると、確かにアルンの腕を掴んできたあの男性が見当たらない。


「もしかして炎に飛び込んだとか」

「いや、周りも騒ぎになってないでしょ。そんなことしてる奴がいたら流石に誰か気づくさ。……それにあいつ、『妹は自室で勉強していた』って言ったろう? あれ、街の集会所だぜ? 誰も住んでないし自室なんてあるわけない」


 ルノが嘲笑混じりに言う。そしてアルンが「確かに」と口に出す前に、彼はビシリとシルイを指差した。


「けど、こいつはそれを聞いていながら何も考えず火の中へ飛び込んだ! 馬鹿なんだよ」


 指先を突きつけられたシルイはそれを無視して、段々と炎が小さくなってきた集会所を見上げた。ルノは苛ついた顔をして、そしてキッと突然アルンを睨んだ。


「で、この子は誰?」

「ええと……今日付で五番隊に配属されました、アルンです」

「はあ? こんなちびっ子が? しかもまた考えなしだ。火の祝福持ちでもないくせに、いきなり一人で火に飛び込もうとする新人がどこにいるんだよ。馬鹿じゃないの?」


 ハッと鼻で笑って見下ろしてくる様子は、全然水の神官らしくない。癒しの神に仕える彼らは、少なくとも本殿ではみんな優しくて穏やかな人ばかりだったのに。


「僕は考えなしの馬鹿共を認めないし、その馬鹿の言動にいちいち付き合ってやってるドノスも認めない。馬鹿は馬鹿で勝手にキャッキャしてなよ、馬鹿」

「おい、そんな言い方はないだろう……シルイも、アルンに礼を言え。こいつの機転のおかげで助かったんだぞ」


 じっと炎を見つめていたシルイはちらと視線だけでアルンを振り返り、そして無言のまま炎に視線を戻した。「よろしくお願いします」と声をかけてみたが、返事はない。


 アルンはそんな面々を見回し、眉を寄せた。意地悪ばかり言うルノに、返事もしないシルイ、そしてどうにも彼らを纏めきれていない様子のドノス。


 これから彼らと上手く付き合っていけるのだろうかと、アルンは少し不安になって雨雲の浮かぶ空を仰いだ。




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