二 火災



「すまんが、集めて隊舎に届けてくれないか。新人の荷物だって言えば分かるから」


 近くを歩いていた水の女性神官の腕をむんずと掴んで、ドノスが言う。彼女は突然のことに「えっ、はい……」と困ったように顔を赤らめ、そして「あの、癒しを」と言ってドノスの額に触れた。祈りの言葉が囁かれ、ドノスが「ありがとう」と笑う。傷を治してもらったようだ。


「いいえ……皆様が水神オーヴァスの癒しを受け取るお手伝いをすることこそ、我ら水の神官の務めですから……」

「あ、うん」


 微かに震えながら頬と目元を真っ赤にしている彼女をドノスは怪訝そうに見て、そしてすぐ真剣な顔に戻ると、アルンに「行くぞ」と言った。アルンは何が何だかわからないまま「はい」と言って彼の後に続いた。走り始めながらちらっと、目を閉じて両手で頰を押さえている女性神官を振り返る。そんなに泣きそうになるほど怖い人には見えないけどな。


「あの、どうしたんですか!」


 なかなか追いつかないので、階段を二段飛ばしで駆け下りながら問う。するとドノスは「警鐘だ。さっそく初仕事だぞ、アルン」と言う。


「警鐘?」

「どこかで何かが起こって、誰かが火竜の助けを求めてるってことだ」

「つまりこの音は、出動してくれっていう合図?」

「ああ」


 寝室塔の外に出ると、途端に鐘の音が大きくなった。以前にも似たような音が鳴っているのは聞いたことがあったが、まさか火竜隊の警鐘だったとは。走って裏門の方へ向かう。隊舎は裏門近くのうまやの隣にあるのだ。


「お前、結構体力あるな。乗馬はどれくらいできる?」


 さほど息切れしていないアルンを見てドノスが言う。


「何度か乗ったことはあります。筋はいいって言われたけど、それくらい」

「じゃあ今日は俺と相乗りだな――ルノ、状況は!」


 隊舎から出てきた女性隊員に、ドノスが大声で呼びかけた。隊員が叫び返す。


「火災だよ! 星の湖岸の集会所」


(あれ? 声が低い)


「おい、二、三、四が別の火災に行ってるだろう? まだ帰ってきてないのか」

「まだだね。本殿に人をやって応援を頼んでるけど、あの人達決断が遅いし、そんなにすぐには出ないと思う」

「くそっ――水部隊がいないのはキツいが、とりあえず五番だけで行く!」


 見た目は女の人、声は男の人な隊員が厩の方へ走っていくと、入れ違いに一頭の馬が走り出てきた。


「シルイ! 皆を待て!」


 馬上の人物にドノスが呼びかけたが、その人は「先行する」と言い残して裏門から飛び出していった。さっきの隊員がその後を追いかけながら「勝手に先行って、馬鹿じゃないの!? ちょっとドノス、急いで!」と言っている。ドノスが「だから二人とも待てって!」と怒鳴ったが、二頭の馬はあっという間に走り去ってしまった。


「……今の二人が、俺達五番隊の仲間だよ。金髪の方がルノ、黒髪の方がシルイ」


 舌打ちをして厩に駆け込んだドノスが、既に鞍を着けてある一頭を連れ出しながら言う。


「ルノって、男の人ですか? 女の人ですか?」

「信じられんかもしれんが、男だ――ほら、乗れ」


 ひらりと馬に飛び乗ったドノスが手を差し出してくる。その手を掴むなり、一気に馬上まで引き上げられた。すごい力だが、すごく腕が痛い。


「痛いです」

「はは、悪い!」


 ドノスがトンと腹を蹴り、馬は二人を乗せていきなりものすごい襲歩ギャロップで走り出した。鞍の後ろにたくさん取り付けられた小さな鐘が、カラカラと独特の音を立てる。その加速と体力に仰天してよくよく見ると、馬の頭に短い角がある。有角馬ゆうかくば、一角獣との混血だといわれている生き物だ。道理でこんな無茶ができる。


「力抜け、後で尻が痛くなるぞ」


 言われたアルンは必死に鞍の端を握りながら、どうにか体の力を抜こうと努力した。有角馬に乗ったのは初めてで、それも一人用の鞍に無理やり二人乗っていて、かなり怖い。なにせ普通の馬の二倍近い速度を出しているのだ。せめて前ではなく後ろに乗せてほしかった。そうしたらドノスの背中にしがみつけるのに。


「ふうん、乗馬の筋がいいってのは本当みたいだな……もうすぐ着くから、心の準備しとけ。お前の役割は主にルノの〈祝福〉補充係だ。力を持て余してるんだろ? ちょっと譲ってやってくれ。水の神官はあいつだけだからな」

「はい」

「返事はいい。舌噛むぞ」


 ちらりと聞いた「星の湖」は、神殿から一番近い湖だ。数分走らせたところで広々とした水面が見えてきて、そしてその対岸に凄まじい量の黒い煙を上げている建物が――アルンは、それまでどこかまだお客さん気分だった自分を心の中で叱咤した。あの中から人を救い出さねばならないかもしれないという状況に、冷や汗が背を伝う。


「……な、中に人は」

「わからない」


 ドノスが呟くように答えた。抑えた声だが、焦りが感じられる。そういえば水の神官の部隊がいないとか言っていたな、とアルンは思い出し、そして青褪めた。


(なら、どうやってあの火を消すの?)


「ルノって人、一人だけでどうにかなる火じゃありませんよね、あれ」

「黙ってろって、舌噛むから」


 風に乗って流れてきた煙が目に染みて、アルンは咳き込みながら目をぎゅっと瞑った。落ちると思ったのか、腹にドノスの片腕が回される。痛みを振り払って目を開けると、ガラス窓の向こう側が真っ赤に光っているのが見えた。


 幻獣混じりの勇敢な有角馬は燃え盛る炎にも臆することなく疾走する。あっという間に小さな木立を突っ切って湖畔を駆け抜け、集会場のある広場に滑り込んだ。そしてアルン達が降りると、馬達は三頭まとまって風上の方へ走っていく。


「あ、馬が……」

「大丈夫だ、ちゃんと呼べば戻ってくる」

「頭いいんですね」

「隊できっちり訓練された有角馬だからな。副隊長が上手いんだ、馬の調教」


 声だけはにこやかに話しながら、ドノスが鋭い目で現場を見回す。遠巻きに見守っていた人々が「火竜隊が来たぞ!」と安堵したように叫んでいるのが聞こえた。先行していた二人のところへ駆けてゆくと、青い帯を巻いた水の神官ルノが、燃え上がる屋敷を前に祈りを唱えているところだった。


「我が神オーヴァスよ、その愛娘にして雨の神サラファールよ。我が祈りに応え、この地へとなんじらの――」


 聞いたことのない文句だが、その言葉はさらさらと澱みない。みるみるうちに建物の上空へ黒い雲が集まり、そしてぽつりと一滴の雨がアルンの鼻先を濡らした。すぐに夕立のようにざあっと雨脚を強くして降り注ぎ始める。


 一人でも優秀な水の神官がいることにホッとして、アルンは少しだけ肩の力を抜いた。が、次の瞬間、誰かに強く腕を掴まれて飛び上がる。


「な、何ですか!」

「神官様! 妹が! 妹が中にいるんです!」

「えっ!?」


 頬を煤で汚した若い男性が膝をついてアルンの腕にとりすがり、泣き叫ぶように言った。


「お願いします、どうか、どうか妹を助けてください!」

「どの部屋かわかるか」


 大股で走ってきたドノスがすぐに尋ねた。男性は頷いて「二階の、一番奥の部屋です。自室で勉強していましたから」とハキハキ話す。


「あの窓か」


 指差した先を見た男性が「はい!」と叫ぶ。既に火が回っている室内を見据えて、ドノスが顔を歪めた。


「おそらくもう数分で応援が到着する。悪いがそれまでは――待て! シルイ!!」


 走り出したもう一人の、赤い帯を巻いたシルイ隊員を視界の端に捉えたドノスが叫んで走り出した。しかし青年はそれに目もくれず、後ろで縛った長い髪をたなびかせながら助走をつけて木の枝に飛び上がり、するすると上へ登って二階の窓の高さまで到達する。


「気の到着を待て、シルイ! 隊長命令だ!」

「既に火が回っている。一刻の猶予もない」


 ぼそりと声が返され、木の上の青年がぐっと身を屈めた。急激に力が膨れ上がる気配がして、彼は赤い火花を散らしながら木の幹を強く蹴って窓に向かって跳ぶ。顔の前で両腕を交差させ、そのまま頭からガラスを突き破って室内に転がり込んだ。


「か、かっこいい……!」


 流石火の神官、とアルンは感嘆していたが、その隣でドノスが「馬鹿野郎!」と叫んだ。


「ルノ! 雨は!!」

「土砂降りだろ。でも空中で蒸発してるんだ。この炎なんか変だよ」


 ルノが顔をしかめて振り返った。金髪がさらりと揺れる。よく見てもやはり顔は女性に見えた。


「くそ、連れ戻しに行く!」

「いや、応援を待った方がいいでしょ」

「捕まえて、すぐに戻る」


 ドノスがそう言うなり、口の中で何かの祈りを唱えながらシルイが登ったのと同じ木を登り始めた。太い枝の上で幹に片足をつき、飛び出す構えになる。


「フルム・ナ・ヘリマ=ユ・ファウ・レヴィ」


 最後の詠唱と同時に、建物の火が強くなったのかと思った。が、違う。燃え上がった炎の光を浴びるように、全身が淡い赤色の光で包まれているのだ。


 ドノスの脚が強く幹を蹴ると、普通の人間には明らかに不可能な速度で筋肉の付いた重い体が宙へ飛び出す。たぶん、あれが内炎術ないえんじゅつというやつだろう。火の神官が使う、特殊な身体強化術。


「……あっ!」


 とそこで、先程の青年の時と違ってドノスが窓の中に入れそうもないのに気づいてアルンは声を上げた。反射的に受け止めようと走り出すが、しかし彼は空中で一杯に両手を伸ばし、ギリギリのところで窓枠に指をかけた。すぐさま弾みをつけて建物の中へ飛び込んでゆく。


「よ、良かった……」

「あーあ、本当に行っちゃったよ」


 ルノが呆れたように首を振る。


「何か……問題があるんですか? 二人とも火の神官なら、火傷は負いにくいですよね」

「問題は熱じゃないんだよ。煙」


 振り返った瞳が炎を移してキラッと光る。この人、本当に美人だな。美男というより美女だけど。


「煙……」

「そう。呼吸を助ける気の神官がいないと、あっという間に充満した煙で中毒になる。どれだけ息を吸っても酸素を取り込めなくなって窒息。人を助けるどころじゃないよ」

「そんな、あんなに煙が出てるのに」

「だから、たぶん息を止めて速攻で引きずり戻すつもりなんだろうね……ていうか君、誰?」


 薄緑のローブにトーガ姿のアルンをルノがじろじろ見たが、彼女は飛び込んでいった二人を心配していて気づかなかった。が、幸いなことにすぐ窓辺にドノスが姿を現す。左肩に担ぎ上げられて暴れるシルイ。


「良かった、戻って来――!」


 窓枠に登ろうとしていたドノスが、息を呑んで背後に飛び退った。直後、バキバキと音を立てて崩れた天井が、燃え盛りながらその場に降ってくる。必死な顔で何か祈りを唱えながら、肩に担いでいたシルイを胸に抱え込む。窓の中は赤を超えて黄色く光り始めた炎で一杯になった。





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