十三 尾行



 シルイはすぐにでも追いかけようとしていたが、決行されたのは三日後だった。朝の訓練を終え、風呂で汗を流して着替え、朝食の後、隊ごとに時間をずらして休憩をとるのだ。食堂からふらっと外へ出て行ったドノスに、そっと目配せして頷き合う。


「行けそう?」

「うん、大丈夫。こっち見てない」


 忍び足で窓から外に出て、裏庭から回り込んで水の神殿の方へ向かう。治療院の塔と空中回廊で繋がっているあたりを見ていると、ちらりと焦茶の頭が見えた。


「居た! やっぱり治療院に行くフリして水の神殿に入ってる」

「行くぞ」


 木の陰でアルンとシルイが帯を解き、青色をしたルノの替えの帯を締め直す。こうしていれば火竜の水部隊に見えるので、怪しまれることなく水の神殿の中を歩けるという作戦だ。


 白い石でできた塔の中は、おおよそ大地の塔と同じような内装だった。磨かれた石の床、天井付近に控えめな彫刻の施された壁、そして立ち並ぶ柱。唯一違うのは、広間の真ん中に大きな池のようなものがあるところだ。


「ねえ、あの水何? 触ってきていい?」


 アルンがコソコソ尋ねると、ルノが「やめろ馬鹿」と顔をしかめた。


「ここで『すごーい!』とか言ってお水をちゃぷちゃぷさせてたら、水の神官じゃないってバレるでしょ。また今度連れてきてあげるから」

「やった!」

「はしゃぐなって! シルイも仏頂面しない! ここの人達はみんな落ち着いてて慈悲深いんだから」

「ルノは違うじゃん」

「……僕以外みんなだよ!」


 小突き合いながら螺旋階段を上がり、先程ドノスを見かけた空中回廊の場所までやってきた。回廊の奥には倉庫と書庫と、「カルテ」と書かれた扉の部屋。


「治療院のカルテを、ここで保存してるの? 診察室から遠くない?」

「いや、ここは特に難病とか、難しい怪我の治療とか、医学的に重要な患者の記録を長期保存してあるところだよ。亡くなった人のものだけ、数百年分。あんまり人が来ないから……たぶんここかな。アルン、部屋の中に気配はある?」

「ちょっと待ってね」


 足音を立てないように扉の前に移動して、目を閉じて命の気配を探る。


「いる、大人が二人……流石水の神殿だね、掃除されててダニとか少ないからわかりやすい」

「声は……」


 シルイが囁いて扉に耳を当てた。アルンも真似して隣に耳をつける。


 ――ああ、やはり

 ――うん、灰色のマントを着ていたそうだ

 ――灰色とはつまり……少し待ちなさい、ドノス

 ――え?


「あっ」


 まずい、と思った時にはもう扉が開かれていた。目の前に迫る手。そして低い囁き。


「『全員動くな、声も出すな』」


 線の細い男の人だ。最近護身術を教わり始めたアルンにとって、歯の立たない相手には見えなかった。しかし、体がぴくりとも動かない。声も出せない。シルイとルノも動く気配がない。


(……魔術、師?)


 その瞳の鋭さに背筋を凍らせながら、アルンは唯一自由に動く目玉を動かして、その人の顔を、そして首筋と、ローブの袖からはみ出した腕を見た。その肌には、特に手の甲から指先にかけてびっしりと、何かの魔法陣に見える灰色の線が刻まれている。神殿では決して見ることのない、魔術師達の使う緻密で華麗な幾何学紋様。


「『物音を立てず、中へ入れ』」


 囁き声が言う。すると足が勝手に動き出し、アルン達三人はカルテ室の中へぞろぞろと入っていった。奥の方にドノスが座っていて、アルン達を見るなり「うわ、お前ら」と目を丸くした。


「お知り合いですか」模様の魔術師が問う。

「俺の隊の部下」ドノスが答える。

「……ふむ」


 魔術師がこちらを振り返り、そしてパンと一度手を叩いた。体の自由が戻ってきた途端、ガクンとつんのめって崩れ落ちそうになる。アルンはすぐに叫び声を上げようとしたが、冷たい声で「騒げばまた声を封じますよ」と言われて口を閉じた。


 ルノとシルイが静かに進み出て、アルンと魔術師の間に立ち塞がる。守られていることに悔しさが込み上げたが、しかし今は隊の中でアルンだけが極端に接近戦に弱いのも事実だった。


「……あの」


 そっと呼びかけると、奇妙な紋様の男は瞳だけを動かしてアルンを見た。魔術師というと白髭の老人のイメージが強いが、この人は結構若い。ドノスと同じくらいの歳に見える。顔色が悪くて、少し病的に見えるくらい痩せている。


「……その模様って、なんか、呪われてるんですか?」


 尋ねると、ルノが「いや、初めに訊くの絶対それじゃないでしょ……」と言う。


「貴方は何者ですか? なぜ魔術師が神殿に、何の目的で……魔獣をけしかけた『フラトラジネ』とやらの仲間なのか」


 ルノの質問になるほどと思っていると、ドノスが首を振った。


「いや、こいつは魔術師じゃない。ヴァスルはな――」


 そしてすぐに言葉を切る。シルイが「話せないようなことなのか」と低く言った。


「お前のことは……神殿の中でも、信じられる人間だと思っていたのに。魔術師でないというならば、もしやあの魔術師が述べていた『迫害し恭順を求める』神官というのはお前のことか。彼を魔術師から強制的に神官に、それが彼らを追い詰めて」

「いや……いやちょっと待てシルイ、今」

「待たない!」

「待って、シルイ。何か聞こえる」


 怒りが混ざり始めた声を遮って、アルンが言った。遠くの方で、時刻を告げるそれとは違う、カランカランと性急に鳴る鐘の音。


「これ……警鐘?」

「話は後だ、行くぞ」


 ドノスが素早く椅子から立ち上がった。魔術師に向かって早口に指示を出す。


「ヴァスル、お前は念のため治療院に行っとけ」

「……わかりました」

「治療院で何をするつもり?」


 ルノがじりじりと扉の前に移動して「行かせないよ」と言う。それを見たドノスが口を開きかけた時、突然壁を通り抜けて大きな鳥が部屋の中に飛び込んできた。灰色をした半透明のミミズク。気の神官からの伝令の術だ。それはバサバサとドノスの肩に舞い降りて、「どうぞ」と言われるなり嘴を開く。


「伝令! 隊舎前に魔術師らしき人物を発見! 魔狼事件の際に目撃された人物と思われる、灰色マントの男! 警鐘を自ら鳴らし、隊員を待ち伏せている模様! 十分に警戒の上、全隊員は隊舎へ急行せよ!!」


 エシテの必死な声がそう告げた、直後。ドォンと凄まじい爆発音がして地面が揺れた。ドノスが駆け寄って窓のカーテンを開ける。隊舎の方角に真っ黒な煙が上がっているのが見えた。





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