第150話 疑念
「藍沢くーん!」
自転車に跨り、信号で大きく手を振る仁科坂が見える。制服は冬服に変わり、いつもと違う彼女の雰囲気に新鮮さを感じる。ブレザーは仁科坂の胸の大きさを強調するようにウエストが細いデザインで彼女の綺麗な体のラインを意図せず見せつけてくる。
自転車で近づく俺は、仁科坂の大きな胸を見ていると思われないように彼女の瞳を見つめた。
「寒いね? 藍沢くん、上着着なくて大丈夫?」
秋の空は高く、水色の空に筆を横に引いたような雲がいくつも流れている。
昨日は結局一ノ瀬のお願いを断り、逃げるように社宅から帰ってしまった。千里に遭遇したくないってのも理由の一つだけど、バイト先に行くと何故か住人たちとのイチャイチャが始まって収拾がつかなくなるからだ。
「仁科坂、冬服似合ってるな」
「ありがとう。ところで藍沢君ってモデル事務所でバイトしてるんだって? 昨日の帰り、杉岡さんっていう人が私にモデルにならないかってしつこく迫って来たんだけど……」
「は? 仁科坂にも?」
「うん。何だか私の体型を求めてたって力説されて……私、杉岡さんに圧倒されて近くのファミレスに連れて行かれて一時間も勧誘されちゃったよ」
杉岡美智子……仁科坂にまで毒牙を……。
「まさか仁科坂、契約したのか?」
「ううん、まだだたよ。でも、ちょっと気になるかな……モデルなんて誰にも出来るって訳じゃないでしょ? だから、悪い気はしないよね。知ってる人もそこで働いてるし、怪しい会社じゃないんだよね?」
「ああ、会社自体は至極まっとう、杉岡さんはまっとうじゃないけどな」
クスクス笑った仁科坂は「藍沢君が居るなら契約しちゃおうかな?」と言って自転車のペダルに足を掛けた。
「行こう藍沢君、遅れちゃうよ?」
俺と仁科坂は自転車を並走させながら学校へ向かった。
駐輪場に仁科坂と隣合わせで自転車を停めると背後から聞き慣れた声が聞こえた。
「私を断った理由がこれか……」
頭から冷水を浴びた感覚がして、俺はギクリとコマ送りの動画ように声の主に振り返る。
「一ノ瀬! 違うんだ!」
「何が違うのさ! 私、バカみたい……一人で電車とバス乗り継いで……。本当は藍沢と一緒に登校したかったのにっ!」
一ノ瀬は柄にもなく学校で大きな声を出し、近くにいた生徒たちが一斉に振り返った。
「また藍沢だ、アイツいっつも女子と揉めてるよな」
「やだーっ、朝から痴話喧嘩してるし。藍沢君って最悪だよね」
ぐっ! 最近校内での俺の評判は悪い。女ったらし認定を受けてしまい一部の女子からの視線は厳しく、男子からは妬みのオンパレードで、体育の授業では有り難くないかわいがりを受けることが多い。
「わ、私、先に行ってるね?」
仁科坂が周りの視線に耐えられなくなったのか逃亡を図る。
涙ぐむ一ノ瀬に俺はたじろぎ、言葉が詰まる。周りの生徒たちは「なになに?」と野次馬の如く集まり始めた。
や、ヤバいっ!
「一ノ瀬、ちょっと来て!」
俺は彼女の手を引っ張って人気のない体育館の影に連れ出した。
息を切らし、膝に手をついている俺に一ノ瀬は言った。
「私、仁科坂さんに負けてるの? 見田園さんには勝てないの分かってるけど……」
「ち、違うって! 俺んち方向だと仁科坂によく会うんだって! だから勝とか負けとかそういうのじゃ無いから!」
「だったら証明してよ!」
一ノ瀬は俺の目の前に立ち、目を閉じて顎を上げた。
これはキスを求めるポーズ、俺がキスをしたら彼女の中で藍沢作也はどのような位置づけになるのだろう?
だけどしなかったら……一ノ瀬はショックを受けるかも知れない。
どうすれば……俺は彼女の背後にまわり、背中から抱きしめた。
「ごめんな一ノ瀬、今日は社宅に泊るから明日は一緒に登校しような?」
俺に抱きしめられたまま、彼女は黙って俯いた。
「…………いいよ……」
背中からまわした俺の腕を触り、一ノ瀬はポツリと言った。
「藍沢ってホントずるいよね? そうやってハーレム維持しようとしてさ」
「えっ? そんなつもりは……」
一ノ瀬はくるりと俺に向き合い、少し怒った顔で俺を見る。
「だけどね、私はハーレム脱退する気無いからっ! 他の全員が藍沢に愛想つかすまで待つもん!」
これは愛の告白だ。彼女の気持ちに揺るぎはないのだろう、それに俺はどう応えていいのか分からない。
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