第147話 ドキドキ

 千里は熱い息を吐き、野菜スティックを押し込んだ人差し指をあま噛みして意識が抜けてしまったかのように俺を見つめている。

 か、可愛すぎるっ! 俺は今の続きがしたくてきゅうりのスティックをシチューに漬けてから咥えた。

 俺に引き寄せられるように千里は顔を近づけ、きゅうりをコリコリかじり出して俺に接近してくる。千里は止まる気がないのかあと少しで唇が重なりそうだ。

「藍沢くーん!」

 階段の方から如月さんの声が聞こえ、俺たちは驚いた猫が跳ねるように顔を離し、俺はキュウリで喉を詰まらせてむせかえり、千里はスプーンを床に落とした。

「あ、いたいた。藍沢君、私、出掛ける予定無くなっちゃたからご飯あるかな? って、どうしたの?」

 むせ返る俺に駆け寄り、如月さんは暖かい手で背中を優しく擦ってくれた。

「な、何でもありません! ご飯なら有りますよ! 今用意しますから」

 俺はお茶を一気に飲み干してキッチンに向かってぎこちなく歩き出した。さっきまでイチャコラモードだった千里は俺を冷たい視線で眺めている、もしかして今のも浮気とか言わないだろうな?

「ん? 何か二人とも顔真っ赤だけど大丈夫? それ辛いの? 私、辛いの苦手なんだよなぁ……」

「い、いや、大丈夫ですよ。ちょっとシチューが熱過ぎたみたいで……」

 鍋のシチューを器に盛り、一人分のおかずを用意する。なんか具合悪っ、千里に興奮してドキドキしてたのに如月さんに驚いて心臓が止まりそうになっちまったからか? 感情の乱高下に体がついて行かないのか少し眩暈を覚える。

 やっぱり職場では千里とイチャ付くのは止めよう。真面目に働かないと駄目だし、こんな事が何度も続けば俺の身が持たない。



 如月さんが食事を終え、俺は三人分の皿を洗っていた。後は朝食の準備をして共有スペースの清掃で終わり、とっとと帰ってたまには勉強をしないと。

 三階から一階までモップを掛け、玄関を箒で掃いていると急に雨が降って来た。げっ! マジかよ、傘無いんだけど……。しかも雨脚は強く、傘があってもずぶ濡れになりそうな勢いだ。

「雨なんか降るって言ってたっけ?」

 俺はスマホで天気予報を確認した、7時から9時まで降って止むのか……なら管理人室で時間でも潰すか。

 管理人室に入り、寝具のないベッドに寝転がり小さな液晶テレビを点ける。チャンネルを幾つか変えて見たい番組を探したが一つも面白い物が無い、俺はリモコンでテレビを消し、仰向けでスマホを眺めた。部屋の小さな窓の外からは激しい雨音が聞こえ気分が萎える。ホントに雨、止むんだろうな? 俺は一抹の不安を感じながらスマホを横にしてサッカーのゴール集の動画に見入る。

 スマホが熱を帯びている、だいぶ動画を見たせいだ。何十分くらい見たんだろう……だんだん瞼が重くなって来て顔面にスマホが落下した。

 あ、駄目だ……俺はスマホよりも先に充電切れを起こしたらしい。

 心地いい意識の遠のきに身を任せ、俺は瞼を閉じた。



 ガタン! と聞こえた気がした、だけどそれが現実なのか夢なのか分からない。

「うわーっ、マジ気持ち悪……吐きそう……」

 女の声? 良く分からない。

 ギシッとベッドが軋み、微かに揺れる。

 え? 何だ? でも……眠い…………。

「何なのアイツ……あたしの魅力が分からないなんて最悪なクズだよ! ねえ? 作ちゃんもそう思うでひょ?」

「あっ……はい…………」

 頭を撫でられ、誰かが抱き着いている感覚がする…………。

「作ちゃん、私のどこが好き?」

「……全部です……ん?」

 これは夢……じゃない?

「かわいいよぉ! あたし、作ちゃんのどーてー奪っちゃおうかな?」

 はあっ⁉

 瞼を開けた目の前にあげはが横たわって俺を潤んだ瞳で見ている。

「えっ? なんで⁉」

 メチャクチャ至近距離にいる彼女に俺は驚き、慌てて離れようとして背後の壁に頭をガン! と打ち付けた。

「痛ってー!」

「大丈夫? 作ちゃん……」

「大丈夫な訳無いでしょ! ア、アンタいったいここで何やってんだよ?」

 ベッドの上で壁に張り付き、最大限あげはから距離を取る俺。

「作ちゃんはフラれた伸子を慰めるのっ!」

 あげはが俺の体をペタペタ触り、顔を近づける。

「言ってる意味わかんないって! 伸子って誰だよ!」

「伸子はここに居ますけど! って何で私の本名知ってんのよっ!」

 あげはは俺をベッドに押し倒し、馬乗りになって泣き出した。

 な、なにこの最悪な酔っ払い? 俺……どうなっちゃうの?

 顔が引きつるのを抑えられない俺は、隙をみて脱出を試みる。

「だめぇ! 逃げちゃやだぁ!」

 覆いかぶさるあげはの柔らかさに完全に石化した俺の体、ヤバいって、この人!

 俺の頬を両手で押さえたあげはは「うふふ」と笑って顔を近づける。

「えっ? ちょ、なに?」

 強張る俺の唇にあげはは唇を重ねた。

「ゔーっ!」

 俺は声にならない声を上げたが、あげははキスを止めないどころか顔中にキスをする。

「作ちゃんとのキス、美味しい!」

 な、何言ってんのこの人!

 あげははまた顔を近づける。

 ゴンッ! と俺の顔の横に彼女は額を打ち付け、いきなり彼女の全体重が俺の体にのしかかる。

 重っ! 耳元でスースー寝息が聞こえて来た。は? 嘘だろ? なにこのやり切り痴女。

 スイッチが切れたように眠る彼女を俺の上からゴロンと避ける。

 あ~っ、びっくりした……。なんつー酒癖だよ! そんなだからフラれるんじゃないの? 伸子さん……。

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