第130話 決意

「うぇっ? な、何いってんだよ、一ノ瀬!」

 いくら俺が困ってるからってお前が犠牲になってどうすんだよ?

「あなたはちょっと黙ってて!」

 杉岡さんが一ノ瀬の気が変わらないようにしようと俺たちの間に割って入る。 

「私、サインしますから、一つ条件付けていいですか?」

 一ノ瀬は杉岡さんを少し睨み付けた。

「あら……条件? 何かしら……」

 眉を上げ、挑戦的な態度で杉岡さんは手で顎を触り、首をかしげる。

「藍沢、貧乏だから私のマネージャーにして下さい」

「「はぁ⁉」」

 俺と杉岡さんは声を合わせて驚きの声を上げた。



 一時間後。

「それじゃあ、これからよろしくお願いします」

 一ノ瀬はモデル事務所オフィスサジタリウスの入り口で大きな白い封筒を抱えたまま杉岡さんに頭を下げた。

「じゃぁ、付箋貼ってる所をお母さんに書類見せてサインとハンコ貰ってね?」

 杉岡さんはニコニコしながら俺と一ノ瀬を見送りにエレベーターホールまで付いてくる。

「ほんとにいいのかよ?」

 俺が小声で一ノ瀬に耳打ちすると、コクリと彼女は頷き前を見据えた。

 彼女の気持ちは変わらない、ただ……この決断が俺のせいだとしたら申し訳なくなって来る。

 エレベーター前で下矢印のボタンを押し、手持無沙汰で待っていると奥の通路の曲がり角に茶色い紐のようなものがヒラヒラと動いているのが見えた。

 あれって……もしかして……。

 俺は壁にはりつくように曲がり角に近づき、ヒラヒラしている物をギュッと引っ張った。

「痛い痛いっ!」

 派手な叫び声と共に小柄なツインテールの女子が通路の角から顔を出す。

「花蓮! やっぱりお前か!」

 ツインテールを掴まれた花蓮は抵抗して俺の腕をパシパシ叩く。

「何やってんのよ、バレちゃったじゃない、花蓮ちゃん!」

 レオナが呆れたように花蓮に声を掛けた。

 花蓮とレオナが通路に姿を現した、どうやら二人は俺たちをつけていたみたいだ。

「レーオーナーっ! いつから見てたんだ?」

「作也と一ノ瀬ちゃんが下手過ぎるんだよ、密会は密会らしくしないとね?」

 悪びれる事も無く、逆に俺たちが悪いと言いたそうなレオナの態度。

「えっ? 何で何で?」 

 パニックを起こしている一ノ瀬の後ろからコツコツとパンプスを鳴らして近づく捕食獣のような杉岡さんは次の獲物を発見したようだ。

「藍沢君、あなた随分いい知ってるのね?」

 すかさず杉岡は花蓮とレオナに名刺を配り、モデルの勧誘を始める。彼女はまるで飢えた狼のように鼻息荒く二人に纏わりついて離れない。

 オバサンのただならぬ圧に花蓮とレオナは苦笑いを浮かべながらゆっくりと後ずさる。

 俺は気づかれないように一ノ瀬の傍に戻り、肩をチョンと触って物音を立てずにエレベーターに二人で乗りこむ。

「あーっ! 逃げた!」

 レオナの声が響き、走る足音が近づいて来る。

「ヤバい!」

 俺は《閉》ボタンを連打した、そんな事をしても早く閉まらないのは分かっているのだが女の子に怒られる恐怖が連打を加速させた。

 間一髪で扉は閉まり、重力が抜けたようにエレベーターは地上へ向かう。

 安堵した俺は背後の壁の大きな鏡に背中を付けて、胸を撫で下ろしている一ノ瀬と目を合わせる。

「一ノ瀬、大丈夫なのか? モデルになんかなって……」

「……勢いで契約しちゃった……。藍沢はいつも私が変わるきっかけをくれる、だから私は藍沢が好き、藍沢が誰を好きでも私の気持は変わらないから……」

 一ノ瀬は俺の目の前に立つと、急に背伸びをして俺に不意打ちのキスをした。

 エレベーターの扉が開く音が聞こえ、一ノ瀬は慌てて重ねた唇を離して何事も無かったかのように一階に降り立った。

「藍沢って隙だらけだよね?」

 くるりと回った一ノ瀬は身体を折り曲げてクスクスと笑う。

 くっ、否定出来ねぇ……今もまったく対処出来なかった……。だけど一ノ瀬だってこの間のキスの後、意識飛んでただろ?

「藍沢! 走ろ?」

 一ノ瀬は俺の手を掴んで走り出した。

「あの二人に追いつかれちゃうよ?」

 嬉しそうな一ノ瀬は俺を駅まで連れて走り、改札を抜けると電車に飛び乗った。

 あれ……これって一ノ瀬の家方面じゃないのか? 

「藍沢、さっき何でも言う事聞くって言ったよね?」

「言ったけど、あれって無効になったんじゃ……」

「いいからウチまで付いて来て! モデルになるって言ったらお母さんに怒られるかも知れないし!」

 うっ……これは結構ヤバいかも、修羅場ってことにはならないだろうな……? ちょっと怖いぞ。

「あ、ああ……分かったよ」

 俺は観念して、一ノ瀬の自宅へ向かう事になった。



「加奈子、本気なの?」

 一ノ瀬家の食卓で彼女のお母さんが杉岡さんから貰った書類に目を通して言った。

「本気も本気。私、やるって決めたから!」

 一ノ瀬は内弁慶、いつもお母さんには強気だ。

 肩を大きく動かしてため息を付いたお母さんは彼女を睨み付ける。

「そう……分かったわ。それじゃ、お母さんハンコ押すけど、直ぐに辞めたいとか泣きごと言わないでよ?」

「大丈夫だよ、最初は地域の小さな広告くらいの仕事らしいし」

「まぁ……お母さんも昔、モデルにスカウトされた事あるからあんまり驚かないけどね」

「えっ? 嘘でしょ? お母さんが⁉ そんなんで?」

「お母さんだって加奈子くらいの時には可愛かったんだから、モテモテだったのよ!」

「嘘だ!」

「何言ってるの? 加奈子の可愛さはお母さんの遺伝だから。藍沢君もそう思うでしょ?」

 一人高笑いするお母さんに、俺は苦笑いで返す。真ん丸なお母さんと一ノ瀬は親子なだけあって顔のパーツは似ている。だけど、性格は全然似ていないのは父親の遺伝なのか?

「私はお父さんのDNAが濃いんだから、お父さんイケメンだったし……」

「そんなこと無いのよ? 加奈子はお母さんの若いころソックリなんだから」

 一ノ瀬のお父さんってどうしたんだろう、離婚? 死別? い、いや……こんな席で聞く話でもないだろう……。

 お母さん可愛い説に眉根を寄せる一ノ瀬は、俺に「どう思う?」と呟く。

「い、いやあ……お、俺、一ノ瀬のお父さん見た事無いし……。お母さんとは雰囲気は似てるかなって……」

「なによそれ!」

 一ノ瀬は口を尖らせた。

「加奈子、あんまり藍沢君を困らせないの」

 お母さんは書類にハンコを付いて封筒に戻すと、「頑張りなさい」と一言添えて一ノ瀬に書類を返した。

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