第90話 別れ、別れ……
数日後、昼前。
俺は自宅のドアに外から鍵を掛け、郵便受けに鍵を落とした。
こんな事になるとはな……俺はドアをそっと撫でる、みんなとの思い出が詰まった家、そして母さんの痕跡のある家……。
もういいんだ……この家は俺の心の中に建てたから……。
くるりとドアに背を向け、家を視界に入れないように自転車に跨り、俺は自転車を漕ぎ始めた。
色々な感情が込み上げ、俺はそれをかき消すように自転車の速度を上げる。
全速力で逃げるように家から離れ、そのまま大きな国道に出て、30分近く自転車を走らせそのまま引っ越し先に直行する。
くすんだ二階建てのアパートに着いた俺は自転車を玄関前に停め、不動産屋から受けっ取っていた鍵をドアの鍵穴に差し込むと、少し渋い感触がしてカチャリと鍵が開く。
ドアを開けると中からは古い家独特の木の匂いとカビ臭が俺を出迎える。
狭い玄関内に入った俺は天井際のブレーカーを上げ、短い廊下を歩いて部屋のドアを開け、奥の窓を全開にした。
窓の外はグレーのブロック塀、光も差し込まない。
目の前のブロック塀に窓の無意味さを感じ、自然とため息が漏れる。
部屋は1K、家賃は3万、親父からは20万を渡され、それっきり会っていない。
親父も大変なんだろう、生活が安定するまでは俺が一人で頑張るしかない。
1時に引っ越し業者の軽自動車が到着し、白髪交じりのおじさんと一緒に少ない荷物を降ろす。
作業はあっという間に終わり、引っ越し代金をおじさんに手渡す。
親父から貰ったら金がどんどん減ってゆく……俺は怖くなってスマホでバイト先を探した。
「ちょうど良かった、今日から働けるかな?」
「はい、大丈夫です」
店長の問い掛けに俺は覚悟を決めた。
「いやー、助かったよ、バイトの子が二人も一度に辞めたから」
居酒屋のパックヤードの狭い部屋で簡単な面接を受けていた俺は手っ取り早く稼ぎたかったので、アパートから直ぐの居酒屋で働く事にした。
仕事は、洗い場、調理補助で夕方から10時までほぼ毎日。
取り敢えず良かった、これで生活できる。俺は着替えを貰って早速キッチンに入り、仕事に取り掛かった。
この居酒屋は結構繁盛していた、夜になると目が回るほどの忙しさで息つく暇もない。
俺は時間を忘れ仕事に没頭した、この仕事は自分に向いている、毎日のように家事をしていたのが役に立って筋が良いと言われれば悪い気はしない。
客が引き仕事が落ち着いた時、店長が俺に声を掛け、「藍沢君、初仕事だから疲れただろ? 今日はもう上がっていいいよ」と気遣ってくれた。
着替えて店の外に出るともう9月の夜なのにかなり蒸し暑く、疲れもあって体に重りが付いているような感覚になる。
明日は学校だが、通うのが辛い。引っ越し先から学校まではかなりの距離がある、でも通学定期を買う気にはなれない、出来るだけ出費は抑えたいから。
自転車だと30分以上掛かるがしょうがない、少し気が遠くなり千里のことを思い出した俺は身体が萎んだように気分が落ち込む。
「会いたい、千里に……」
翌朝、ふと目覚め、枕元のスマホを観て俺は飛び起きた。
「ヤバっ! 8時半超えてんじゃねえか!」
誰も居ないのに思わず声が出る、焦って制服を着た俺は飯も食わずにアパートを飛び出して自転車を激走させる。
遅刻は確定、しかも一時間目は科学じゃなかったっけ?
「あーもう! 最悪じゃねえか!」
俺は自転車の上で叫んだ。
高校に着いた俺は階段を駆け上がって教室のドアを開けた。
全員が俺を見つめ、化学教師の村上が俺を睨み付ける。
「藍沢、10分遅刻だ! 今日はお前に罰として10問答えて貰うからな」
村上は冷酷な表情をうかべ、俺に顎で席に着くように促す。
朝から最悪だ、席に着く俺にレオナが小声で「何やってるのよ!」と声を掛ける。
「川崎! 集中しろ!」
千里が居なくなり、村上の集中砲火を浴びる俺とレオナ。
科学の授業は気が抜けない、俺はストレスで科学が大嫌いになった。
こんな時、千里なら目くばせで合図してくれるんだけどな……。
隣の席は空席で、まるで教室に穴が開いたみたいで俺の心にも穴が開く。
空席を眺めていると視線の奥で花蓮と目が合い、花蓮はぎこちなく目を逸らした。
花蓮は俺を避けるようになっていた、千里と病室でキスを重ねていたのを見られてから。
レオナと一ノ瀬はいつも通りに俺と接してくれる、だけど花蓮は二人が俺と話していると輪に入って来なくなった、それは千里が居なくなってからもだ。
自然消滅……過去にもそんな事があったっけ……。花蓮との二度目の決別は決定的、数か月前の状況に戻ると思えばダメージは少ないが、きっと前回以上に会話は無くなるだろう。
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