第8話 記憶

 花蓮はソファーから立ち上がり、食卓に座っている俺にズカズカと近づいて聞いた。

「千里って見田園千里のこと?」

「ん?」

 俺は花蓮にプラスチックに入ったフルーツゼリーを差し出してとぼけた。

「何で見田園千里が出て来る訳?」

 ムッとした様子の花蓮は俺に顔を近づけて凄んだ。終わった……自ら地雷を踏むとは……。

「いやぁ、別に……言い間違えただけだよ。ほら、見田園って教室で俺の隣だからつい……」

「怪しい、見田園ならまだしも千里って言ったよね? 何? そういう仲なの? 見田園千里と!」

「言ってる意味が分からないんだけど」

 花蓮は食卓テーブルを手のひらでバンッと叩き、食器が音を立てた。

「とぼけんな! 名前呼びするなんて恋人同士みたいじゃない! どうなのよ!」

 犬が威嚇するように花蓮は一瞬歯を剝き出しにして大きな声を出したので、俺は緊張して全身に嫌な汗をかいた。千里も聞いてるのに言えるかっ! 死ぬっ! 俺は死ぬ! どうすれば……。

「か、花蓮だって名前呼びだぞ? 俺たちって恋人同士か?」

「そ、それは……」

 花蓮は一歩下がって声を上ずらせ、言葉を詰まらせた。

「どうなの?」

 ここで一気に畳みかける。

 花蓮は赤らめた顔を逸らし、チラッとこちらを眺め、恥ずかしそうに俺に聞いた。

「作はどう思ってるの?」

 ヤバい、追い詰めたつもりが追い詰められた! 余計な一言がブーメランのように帰って来た。

「……幼馴染だろ?」

 二人の間に沈黙が流れた。千里が居なければもう少し気の利いたセリフを言えたかもしれないが。

「だよね……」

 少し寂しそうな顔をした花蓮、本当は特別な幼馴染だけどな。

「作っ、そろそろ行こっか?」

 明らかに急にテンションが下がった花蓮は無理をしたかのように笑顔を作り、居間を出て玄関に向かったので俺は彼女の後を追った。



 家の外に出た俺達はそれぞれの自転車に跨り、ペダルを漕ぎ始めた。

「作っ、競争しよっ!」

 花蓮はいきなり自転車を加速させ、茶髪のツインテールをなびかせて俺を引き離しにかかる。

「ちょ、ちょっと待てって!」

 何だよ? 勘弁してくれ。俺はペダルに体重を掛け彼女を追いかけた。

 花蓮は立ち漕ぎをしながら振り返り、笑顔で言った。

「昔、良く追いかけっこしたよね? 私が泥棒で作が警察でさ」

 彼女の短いスカートがヒラヒラと舞い、下着が見えそうになり、俺は敢えてそれを見ないようにして言った。

「逆だろ! 花蓮は俺に警察役やらせてくれなかっただろ!」

「そうだった! そういえば作、警察役やりたいって泣いたよね」

「な、泣いて無いって!」

 ケタケタと笑った花蓮は「今日は作が警察だから私を捕まえてみなさいっ

 !」と言って更に自転車を加速させた。



 高校の駐輪場で俺は肩で大きく息をして膝に両手を付いていた。早い時間に家を出て、訳もなく激チャリをしたので駐輪場はまだガラガラだ。

「朝っぱらから何考えてんだよ!」

「いい運動になったでしょ? 作っ」

 顔をピンク色に染めて自転車に跨っている花蓮も息が上がっていて大きく胸を上下させている。

 まったく、元気過ぎるんだよ。花蓮はガキの頃と変わっていない、いつも主導権を握り、俺は彼女を追いかける、幾度となく繰り返したこの関係性。

 体は小さいのにすばしっこくて体力勝負では負けてばかり……いや、テレビゲームですら負けてたんだ、何回も負けて泣いたこともあったな、でも泣くといつも優しくしてくれたっけ。

「行くよー、作」

 花蓮はそう言って紺地にスポーツブランドのピンクのロゴが入ったカバンを自転車の籠から取り出し、持ち手を握ったまま右肩に担いだ。

 俺たちは上履きに履き替え、疲れた足で階段を登り、二階の教室に入ると誰もいなかった、無駄に早く登校したせいだろう。

「貸し切りだね」

 花蓮の声が誰もいない薄暗い教室に反射した。

「何が貸し切りだよ、早く来たってやること無いだろ?」

 俺はパチパチと壁の照明スイッチを入れた。

「そう? 私は楽しいけど……作と久しぶりに二人になれたし」

「ははっ、何だよそれ?」

「何ていうかさ、懐かしいっていうか……昔は四六時中一緒に居たのに最近は教室の中だけで会う間柄になっちゃったから……少し寂しいよ」

 花蓮は窓際まで歩き外を眺めて言った、彼女の背中からも寂しい感情が伺える。

「お互い大人になったって事だろ?」

 俺も花蓮の横に移動して外を眺めた。

 俺の方向に向き直り、花蓮は聞いた。

「大人になったら他人みたくなっちゃうの?」

「それは……やっぱり男女だから、その……何というか……」

「意識しちゃうってやつ?」

 花蓮は俺に可愛い顔を近づけた。だからっ! そういう所だって、意識するだろっ! 俺は一歩後ずさって自然な距離を取る。

「ああ、好きなのがライクなのかラブなのか分からなくなりそうで……」

「私は作が大好きだよ!」

 花蓮は俺を真面目な顔で見つめた、綺麗な黒い瞳が俺をロックオンして反応を待っているかのように。

 その時、尚泰の声が響いた。

「作也、早いな」

「お、おう。おはよう尚泰、今日は花蓮に迎えに来てもらったから遅れずに済んだんだ」

「羨ましい奴だな、お前は! そうだ、三島さん、今度俺の家にも迎えに来てくれない?」

「えー? めんどくさい。岡島ん遠いし」

「だよな……」

 俺達の笑い声が静かな教室に響いた。

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