第4話 冷却

「私って重荷?」

 俺の胸に人差し指をツンと当て、小さな声で千里は聞いた。

「えっ? 何言ってるんだよ、千里」

「だって作クン……朝……逃げたし」

 千里は俺に押し当てた指をグリグリとひねり口を尖らせる。

「そ、それは時間が無かったから」

「学校が終わったら家で作クンのこと待とうと我慢してたけど……やっぱり待てない」

 千里は俺の胸に急に顔を埋め、大きく深呼吸する。

「落ち着く……」

 は? 何やってんだよ! こんなところ誰かに観られでもしたらヤバいぞっ! 千里は落ち着くのかも知れないけど俺は落ち着かない……いや、男なら誰でも落ち着かない筈だ。千里からいい香りがしてドキドキして来た、彼女の柔らかい体から体温が伝わる。

 千里に俺の心音の爆上りを気づかれそうで恥ずかしい、体がのけ反り後ろにひっくり返りそうだ。

「ねぇ、ぎゅっとして……作クン……」

 な、何だ? こんなこと、千里に初めて言われた……いいのか? 俺はドキドキしながら彼女の背中にワナワナしながら腕を回したが、ぐっと堪え体には触れていない。

 親父が千里を連れてきた日、俺の耳元で囁いたセリフが頭をよぎる。

『千里ちゃんの父さん、銃持ってるからな。だから作也、彼女を傷物にしないように頼むぞ』

 それが冗談なのかは知るよしもないが、俺の行動に歯止めをかけているのは事実。

 でも、千里にこんな事されたら……思いっ切り抱きしめたい! けど…………理性が飛びそうになる。

「作クン?」

 甘えるように俺を見上げる千里、ぷっくりとしたピンク色の唇が少し開いていて、どうしようもなく可愛い。

 ええい! もう、どうにでもなれっ!

 俺が千里を抱きしめようとしたとき、授業開始のベルが鳴った。

「えっ? もう時間?」

 助かった、変な気を起こす寸前だった。

「千里、急げ。世界史の中野先生は時間にうるさいぞ!」

「えっ? う、うん」

 名残惜しそうに佇む少し頬を赤らめた千里の手を引き、俺は彼女を急がせた。廊下に出る前に繋いでいた手を離し、二人は離れて走り何くわぬ顔で教室にたどり着くと、前後の入口に別れて中に入った。



 午後の授業が終わり、俺と千里はいつも通り他人のように別々に同じ自宅に帰る、俺は千里が教室を出て暫くしてから駐輪場に向かった。駐輪場には数百台の自転車が並び、帰る生徒でごった返していた。千里の姿は見えない、というか探せない。多分もう帰ったのだろう。暑い、初夏とは思えない日差しに俺は太陽を遮るように上に手をかざす。自転車の黒いサドルは卵焼きが出来そうなくらい熱を帯びていて跨ると尻が熱くなる。

 さて、どうするかな? きっと千里は家で俺を待ち構えている。今日は千里の様子がおかしい、余り早く帰ると昼休みの続きになりそうだ。ここは敢えて彼女をクールダウンさせるべく時間を置くか……。

 今日の晩飯当番は千里だ、帰るなら調理中の時間帯がベストだろう。



 俺は帰宅途中、よく立ち寄る古本屋で時間を潰していた。中に入ると古い本独特のカビと男の部屋の匂いが混ざったような友達の部屋臭が漂い、俺を出迎える。最近ハマっているマンガは俺が生まれる前に描かれた名作、水を被ると性別が替わる格闘系ラブコメ、これを読むと時間を忘れる。天井まで届きそうな本棚が並ぶ狭い通路で暫く本を読んでいると制服のポケット内でスマホが振動するのを感じた。きっと千里からだ、俺は嫌な予感がして敢えて画面を確認しなかった。怒ってるかな千里、でも早く帰るとは約束していないし、問題無いだろう。

 小一時間立ち読みした古本屋を出ると、空はオレンジ色に染まり、気温も若干下っていた。時間的にはいい頃合いになっていたので俺は自転車のペダルを漕ぎ、家に向かった。

 自宅に帰ると千里の自転車は家の陰に戻っていた。見る人が見れば分る千里の自転車、だから彼女の自転車は家の陰に隠す決まりになっていた。さて、彼女のリアクションは……。

 俺は玄関ドアを開け、「ただいま」と声を張り、三和土で靴を脱いだ。

 甘い匂いが室内に漂っている、これは焼き菓子の匂いだ。

 俺は二階の自室に行く前に居間に千里がいるのかドアを開け居間の中を覗いた。

 千里は長い黒髪を大きく広げ、静かな居間の食卓に突っ伏していた。

 テーブルにはスコーンが紙をひいた大きな皿に綺麗に並べられている。

「千里?」

 俺は彼女に恐る恐る声を掛けた。

 その声に千里はムクリと顔を上げた、可愛らしいが睨んだ顔で……。

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