第5話 約束

「無視ですか?」

 千里の棘のある声が静かな居間に響いた、窓からは夕日が差し込み白い壁紙の一部分をオレンジ色に染めている。

「え? 何が?」

 俺は心当たりはあるが、敢えてすっとぼけて彼女に聞いた。

 千里は椅子を鳴らして勢いよく立ち上がると、俺にズカズカと接近して両手で握りこぶしを作り、踵を浮かせて言った。

「携帯にメッセージが来てることぐらい知ってた筈です!」

 バレてる、既読すらしないスルーが……どうする? 彼女の顔に夕日が当たり、顔色は分からないけど声色からして怒っているのは間違いない、ここで言い訳は火に油を注ぐだろう。

「うわっ! 旨そうだな、そのスコーン。もしかして千里が焼いたのか?」

 俺は食卓テーブルの上の皿を覗き込むように聞いた。

「えっ? う、うん。作クンに食べて欲しくて」

 意表を突かれたのか千里は先ほどとは打って変わって可愛らしい声で言った。

「凄いじゃないか! 店で売ってるみたいな出来だよ!」

 千里はテーブルのスコーンの入った皿を持ち上げ、俺の前に差し出した。

「食べてくれる?」

 首を傾げ、不安げな千里は俺に聞いた。

「勿論だよ!」

 俺はスコーンを一つ手に取り、一口かじった。

 まだ、ほんのりと温かい。中にはドライフルーツがゴロゴロと入っていてバターの香りが鼻を抜ける。

「美味しいよ! 千里って料理上手だよな」

 彼女は顔をパッと明るくしたが、直ぐに俯いて体をくねらせた。

「そ、そうかな? 私ね、最近お料理に力入れてるから」

「俺、最近千里の料理食べるの楽しみなんだ」

「ホント? 嬉しい……」

 顔を赤らめ、はにかんだ笑顔を見せた千里。ぐっ、可愛いじゃないか。

「じゃ、ご飯作るね、出来たら呼ぶから休んでて」

 千里はそう言ってフリフリの白いエプロンを巻き、冷蔵庫を開けた。

 俺は自室にカバンを置きに階段を登った、取り敢えず千里の機嫌は治ったし、迫っても来ない。ホッと息をついた俺は、部屋に入り、ベッドに寝転んだ。



「――クン、作クン、起きて下さい」

 目を開けると、千里が薄暗い部屋でベッドに手を付き、俺の顔をのぞき込んでいた。

 顔が近いっ! 長い黒髪が俺の首筋にかかりひんやりとした感覚が伝わる。俺は焦って視線を逸らすと、逸した先に彼女の大きな胸が視界に入り一気に心拍数が上がってしまった。

「ちょっ! 千里! お互いの部屋には入らないって約束だろ?」

「それは、そうですけど……寝てたらこうするしかないでしょう? ご飯も冷えちゃいますし」

 俺はベッドから飛び起き、ドアの方に後ずさりして千里を部屋に残して居間へ逃げた。

 暫く心臓が高鳴り、落ち着くまで時間を要した、何か色っぽかったな……千里のやつ。食卓に座り、胸を手で押さえていると二階から降りてきた千里が居間に戻り、蓋をしていたフライパンからオムライスを皿に移し、ケチャップをかけて仕上げをした。

「はい、どうぞ」

 俺の前に差し出された大きなオムライス、その上にケチャップで描かれたネコの絵とハートマーク。

 千里は自分の皿も食卓に並べ、パセリを降ったスープを添えて椅子に腰かけた。

 ハートとネコ……この件に関してコメントを言うべきか? ネコは兎も角ハートが気になる。ハートにコメントして千里がまた何時ものイチャコラモードになったら面倒くさい。そう……ここはスルーだ。

 俺は「いただきます」と言ってハートマークにスプーンを入れた。

 その瞬間、千里の眉がヒクついた。

 はっ? コレはヤバいかも、やっぱり感想を言わないとな。

「千里って絵心あるよな、ネコが可愛いよ」

「ネコが?」

 千里は小さくため息を付いて続けた。

「ま、いいですけど」

 少し面白くなさそうな顔をした彼女に俺は言った。

「凄く美味しいよ、でも千里の手料理を食べてるなんてクラスの男子が知ったら俺、袋叩きに会うだろうな」

「何それ?」

 千里はクスクスと笑った。

「そう言えば作クン、明日の朝のお迎え、どうするつもりですか?」

 俺はすっかり忘れていたその質問に驚き、むせ返った。

 余りに酷い咳に、千里は席を立ち、俺の背中を優しく擦る。

 俺はその行為にドキッとして顔が赤くなるのを感じたが、咳で既に赤いだろうから彼女には気づかれてはいないようだ。

 息を整えてから俺は傍にいる千里に言った。

「ゴメン千里、明日の朝は俺が家から出て5分間は隠れててくれないか?」

「隠れる? お断りしたらいいじゃないですか!」

「いゃぁ……花蓮は決めたらきかないから……」

「じゃあ、これから毎日来るって言ったらどうするつもりですか?」

「大丈夫、絶対に断るからっ! だから明日だけ頼むよ」

 俺は千里に向かって大仏を拝むかのように手を合わせて頭を下げた。

 千里は、ため息を付いてから椅子に戻り、納得いかない様子で腕を組み、口を尖らせて顔を反らしている。

「本当に明日だけでしょうね?」

 横を向いたまま千里は俺をジト目で眺めた。

「本当だよ、だから、な! な!」

 確証のない約束を俺は千里にした。もしこの約束が反故にされれば千里は黙ってはいないだろう。

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