明、清、中華民国

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――⑪明、清、中華民国

 というわけで、近代にいたる最後の枠ですが、ここから六百年以上も走るわけでして、ガッツリ行きますのでお覚悟を……。




 というわけで蒙古もうこ族の支配する元王朝が中華を支配します。フビライによって南宋が滅びてから、およそ七十年ほどすると、その統治機構は崩れ去り、多くの民が貧困にあえぎます。


 そんな中で各地で反乱が相次ぎ、中でも最も激しかったのが白蓮びゃくれん教という宗教団体が、教祖・韓林児かんりんじに率いられて起こした「紅巾こうきんの乱」です。

 後漢ごかん末の「黄巾こうきんの乱」と日本語発音も同じで混同しやすいですが、どちらも宗教団体主導による反乱が王朝崩壊の始まりとなった共通点は面白いですな。




 さて、そんな時代の下で、貧しい農家に生まれ、日々の食事にも事欠き、幼い頃から目の前で兄弟たちが餓死していく所を見て育った朱重八しゅじゅうはちという少年がいました。

 その貧しさから一家は離散し、彼は寺へと預けられ、そこで読み書きを学ぶわけですが、結局そこでもまともに食べる事が出来ず、すぐに托鉢たくはつ修行へと出されてしまいます。

 最終的にほとんど物乞いのような生活を送っている所で、紅巾の乱で天下が乱れたのでした。


 戦乱に巻き込まれた結果、朱重八の属していた寺も焼け落ち、仕方なく紅巾軍に参加する事となります。この時に彼は朱元璋しゅげんしょうと改名しました。


 紅巾軍の中で頭角を現した朱元璋は、他の将たちが見境の無い略奪を平然と繰り返す中、貧民であった自分の出自から民の味方を標榜して貧民からの略奪は禁止し、民兵の信頼を得ていきます。

 その頃に、後に建国の功臣となる知将・徐達じょたつ、猛将・常遇春じょうぐうしゅん、謀臣・李善長りぜんちょうが加わっています。この時期に仲間になった者たちを淮西わいせい集団と呼びます。


 やがて兵力が膨れ上がった彼らは紅巾軍から独立し、江南へと向かいます。教祖・韓林児が率いる紅巾軍の主力は中原であり、元朝の政治中枢は大都だいと北京ぺきん)を中心とした華北である為、中央と切り離された華南は完全に手薄だったからです。

 朱元璋と同じように、華南の各地で次々と独立勢力が立ち上がり、元朝は完全に華南の領土を失う事となります。




 朱元璋は、李善長から「漢の高祖・劉邦りゅうほうに倣うべし」と助言されていた事もあり、地元の地主を味方につけながら、自軍には暴力や略奪の類は一切禁止させ、味方を増やしていきました。

 そして遂に、かつて南宋の首都・建康けんこうのあった金陵きんりょうを領有します。


 そこで朱元璋の下に更に多くの家臣が加わりましたが、中でも儒家・宋濂そうれんと、大軍師・劉基りゅうきを得た事が大きいでしょう。


 新儒教(朱子学しゅしがく)の流れを汲む宋濂は、朱元璋の儒教の師となり、後に法制度の確立に重要な働きをします。


 そして軍師の劉基は、兵法から外交に至るまで天才的な才能を持っており、敵軍の動きから、相手の行動や反応まで、あまりにも涼しい顔で予想を的中させる事から、予言者伝説まで語られました。

 一説には、小説『三國志演義』における諸葛亮の人物造形は、この劉基がモデルとなったとも言われています。


 宋濂と劉基は、朱元璋こそ新時代の皇帝になるべきとし、彼を支えていく事になるのです。




 朱元璋は呉国公ごこくこうを名乗って天下に乗り出すわけですが、この頃の江南では、彼と同じように力を付けた者が他に二人いました。

 「かん」を国号に荊州けいしゅうを占拠する陳友諒ちんゆうりょう。彼は元々は漁師だったのですが、朱元璋と同様に紅巾軍で名を上げた後に独立しました。

 そして「しゅう」を国号に徐州じょしゅうに割拠する張士誠ちょうしせいです。彼は唐末の黄巣こうそうと同じく塩の密売人から勢力を伸ばしました。


 こうして華南の覇権は、漁師、密売人、物乞い坊主の三者が争う形となったのです。

 まぁ、他にも勢力はあるのですが、この三勢力以外は影響力の無い泡沫候補です。(雑)


 揚州にいる朱元璋は、徐州の張士誠と荊州の陳友諒に挟まれた形でした。どちらから対処すべきかという朱元璋の問いに、劉基は「陳友諒は勢いがありますが、張士誠は慎重すぎて優柔不断。ここは陳友諒を先に叩くべきでしょう。張士誠は攻めては来ません」と断言。

 果たして劉基の言葉通りになりました。朱元璋軍は陳友諒軍に全力を傾けて次々に打ち破っていきます。


 中でも天下分け目となったのが「鄱陽湖はようこの戦い」です。


 総勢六十万と言われた陳友諒の水軍は、地上三階建てに匹敵する巨大楼船で長江を埋め尽くさんばかりに攻め寄せました。

 朱元璋軍は、長江の支流である淡水湖・鄱陽湖でそれを迎え撃ちます。単純兵力は三分の一以下。さらに敵の巨大楼船の威容に圧倒されます。


 しかしここで天才軍師・劉基は、巨大楼船は急造で耐久性に難がある事。船があまりにも巨大すぎて足元が手薄な事。敵の船団が陣を安定させるために楼船同士を鎖でつないでいる事。そして風向きなどを考慮に入れて火計を立案します。

 元軍から押収していた火薬を大量に投入し、爆薬を仕掛けた小舟を次々と敵船の船底に追突させ、さらに火砲や火槍といった重火器による砲撃で、陳友諒の水軍を集中砲火します。


 この劉基の火計によって陳友諒の大船団は炎に包まれ、六十万と言われた兵力は、そのほとんどが業火に焼かれ、長江の藻屑と消えました。

 陳友諒本人もこの戦いで戦死し、華南の覇権がほぼ朱元璋で確定した戦いになりました。


 気づいた方も多いと思いますが、この鄱陽湖の戦いの顛末は、小説『三國志演義』の赤壁せきへきの戦いの演出に流用されています。

(正史における赤壁の戦いは、平面的なイカダを繋いで歩兵を渡らせようとしたけど、夜の間に燃やされただけで、火計による曹操そうそう軍の死者は無いという地味な物です)




 鄱陽湖の戦いの後は逆に、慎重な張士誠を時間をかけて切り崩すと、もはや華南は消化試合。朱元璋が完全に押さえる事となります。


 ちなみにこの時期になると中原での戦いは紅巾軍が劣勢となり、白蓮教の教祖・韓林児が朱元璋の所に逃げてくるのですが、乗船が沈没。韓林児を始め紅巾軍幹部は長江の藻屑になりました。


 こうして華北が蒙古族の元王朝、そして華南に朱元璋という勢力図になったわけですが、朱元璋軍の満を持した北伐によって元の首都・大都を陥落させ、蒙古族を再び漠北へと追いやる事に成功。そして更に五代以来の悲願である燕雲えんうん十六州もここでやっと取り戻したのでした。




 さて、朱元璋は金陵(南京)を応天おうてんと改名して首都とし、国号は呉ではなく「みん」として、皇帝(洪武帝こうぶてい)となりました。


 戦乱によって散り散りになった民を安んじる為、法律は短く平易な物だけとし、また民が故郷に戻れるように戸籍調査や帰還事業を行いました。田畑の分譲も行って農業の奨励。そして農業を始めて最初の三年間は免税をするなど、まさに貧農出身で一家離散した経験のある朱元璋らしい、民を救う為の政策を多く実行しました。

 徴税などは各地の地主に任せるなど、出来るだけ民間に任せる形を取りました。


 ところが地主や官僚による搾取、横領、収賄などが各地で発生します。ここで劉基が罰則を厳しくして取り締まるように進言しますが、朱元璋はあくまでも法で縛る事を拒み、地主や官僚をしばしば都へ呼んで、「民を安んじる」とはどうあるべきか、皇帝自らが教導するという方針を取りました。

 しかし汚職は全く消える気配がありません。ここで目に余る者を捕らえて棒叩きに処すなどの見せしめをしますが、世の汚職は全く無くなりません。民は搾取されるばかりです。


 ここに至って朱元璋、自分はいかにのか思い知り、掌を返します。宰相の胡惟庸こいように命じて、汚職官吏たちを次々に摘発して処刑する事を始めました。

 しかし、処罰を恐れた官僚や地主たちが、こぞって胡惟庸に賄賂を贈り、胡惟庸はそれを受け入れ、賄賂を贈らない者を陥れるなどという悪代官ムーヴを始めます。これによって劉基なども失脚しました。


 しかし、そうした胡惟庸の動きは、当然ながら朱元璋にバレました。旗揚げからの仲間である淮西集団の出身であった胡惟庸に裏切られた朱元璋のショックは大きく、胡惟庸を極刑に処した後、彼に賄賂を贈った官僚を芋づる式に調べ上げ、やはり全員を処刑しました。

 淮西集団からの付き合いという事で彼が宰相に就いた時に推していたという理由で徐達を処罰し、孫が贈賄をしたという理由で宋濂も処罰されました。


 貧民出身であった事から、民が虐げられない世界を作りたいという朱元璋でしたが、理想と現実のギャップが彼を悩ませ、いつしか殺戮者へと変えてしまったわけです。


 朱元璋はそうした三十年の恐怖支配の後に崩御しました。その間に粛清された者は十万とも言われ、そのほとんどが官僚、役人、地主といった、民の上に立って民を守るべき者たちばかりでした。

 彼と共に戦った友人たちも自らの手で消し去ってしまい、ひとり孤独な最期を迎えたわけです。




 さて、朱元璋は官僚や功臣たちを粛清してしまいましたが、代わりに自分の息子たちを各地の王に封じていました。無論ながら彼は、前漢の呉楚七国の乱や、西晋の八王の乱は知っていました。

 それでも幼い頃に一家離散を経験し、友情や忠義で裏切られ続けた結果、せめて家族だけは最後まで信じたかったという所なのでしょう。


 しかし現実はそんなに甘くありませんでした。


 朱元璋が崩御した時、長男に先立たれていたために長男の長男にあたる朱允炆しゅいんぶん建文帝けんぶんてい)が皇帝になるのですが、そうなると各地の王は皇帝の叔父たちとなります。

 儒教(朱子学)を国教とした明王朝ですから、皇帝としては非常に扱いづらい存在であるのは間違いありません。


 朱允炆のブレーンとなった黄子澄こうしちょうは、各地の王たちの権力を理由を付けて剥奪(削藩さくはん)しようとしました。これがヤブ蛇となってしまったわけです。


 親王たちを次々に失脚させていく黄子澄一派ですが、この動きによって朱元璋の四男で、北方で未だに南下を狙う蒙古の抑えとして北平ほくへい(北京)に封じられていた燕王えんおう朱棣しゅていを追い詰めて火を付けてしまったのです。


 朱棣は「君側くんそくかんを除き、君難くんなんやすんじる」という名演説で挙兵すると、都である応天に向けて南下を始めました。ここからの戦いは、この演説から取って「靖難せいなんの変」と呼ばれます。


 兵力こそ少ない朱棣軍でしたが、国境守備で幾度も蒙古と激突していた将兵たちは精強でした。

 一方で都の官軍側は、戦争経験のある将軍は朱元璋の代で粛清されたか、既に天寿を全うしており、ほぼ戦争経験がない将兵たちばかりです。数が多いだけの烏合の衆でした。


 もちろん朱棣軍の圧勝というわけではありません。さすがに数の差が大きすぎて、危うい敗走も幾度かありました。しかしその都度に、官軍の詰めの甘さが光り、朱棣は命を拾い続けます。


 そうして四年をかけて首都・応天に迫った朱棣軍ですが、この戦いで皇帝・朱允炆は行方知れずとなりました。

 朱允炆の行方には諸説あり、「叔父の手を汚させたくない」として自決したとも、辺境へ逃げ延びて天寿を全うしたとも、或いは朱棣の手で殺害されて記録が抹消されたとも、色んな説が飛びますが、どれも決定的証拠がありません。


 とにかくこうして、朱棣が明王朝の第三代皇帝(永楽帝えいらくてい)となるのでした。




 朱棣は帝位に就くと、黄子澄を始めとする君側の奸と、それ以外の官僚に分け、前者を徹底的に粛清しました。


 削藩政策には一切関わっていなかった儒家・方孝孺ほうこうじゅなどは、初めは奸臣とは見なされず、即位の詔を任されますが、「二君に仕えず」を旨とする儒者なだけあって、公式な詔勅で「燕賊簒位えんぞくさんい(燕からきた賊が、帝位を奪った)」と堂々と発布し、ブチ切れた朱棣に族誅(一族皆殺し)されるなどの事件もありました。




 朱棣は、首都を応天(南京)から、自分の本拠地である北平(北京)に遷都させると、そこを順天じゅんてんと改称しました。

 これは北から来る蒙古への抑えと同時に、どうしても簒奪という形になってしまった以上、自分の本拠地の方が安心できるという部分もあったでしょう。


 その後に朱棣は、北へと親征します。中華皇帝が自ら漠北にいる北族を攻めるのは史上初めての事です。

 満州の女真族を屈服させ、更に蒙古へと攻め入ります。その頃の蒙古族は、韃靼だったん(タタール)と瓦剌がらつ(オイラト)というふたつの部族に分裂して争っていましたが、朱棣は韃靼を壊滅させ、瓦剌を西へと追いやる事に成功しました。


 さらに宦官である鄭和ていわに命じて、大交易船団を率いさせると、東南アジア、インド洋、ペルシャ湾、果ては東アフリカに至り、巨大な海上交易ルートを開拓しました。


 こうした功績もある一方で、明王朝の闇を作ってしまったのも朱棣でした。彼は靖難の変で大きな役割を果たした宦官への信頼が強すぎたのです。

 交易船団を率いた鄭和も宦官だったわけですが、そういう者ばかりではないのはご承知の通りです。


 朱棣は、国内の危険分子を洗い出して監視する、皇帝直属の諜報機関「東廠とうしょう」を設置すると、そこの長官は代々、宦官だけが就任しました。

 そしてその尖兵とも言えるのが「錦衣衛きんいえい」です。これは逮捕・拘束・尋問・断罪・処刑までの過程を、ひとつの組織だけで完結するという、トンデモ組織です。

 そんな錦衣衛が、宦官が支配する東廠の下に設置されたわけです。


 歴代の中華王朝でも宦官は政治を乱しましたが、立場自体はあくまでも後宮の世話係の範疇を超える物ではありませんでした。

 しかし明王朝ではコレです。

 明王朝が、中華史上で最も宦官が強かった時代と言われるのも、ご理解いただけるかと思います……。


 余談ですが、明代を舞台にした創作物で「怖い国家権力」として登場させるのに東廠と錦衣衛はうってつけなので、よーーっく悪役で出てきます。




 明王朝は基本的にこの朱棣の時代で統治システムが完成し、以降は淡々と皇位リレーが続きます。ちなみに朱棣が崩御した後は、大規模親征や西方交易船などは廃止されました。


 第六代・朱祁鎮しゅきちん英宗えいそう)が、瓦剌征伐で親征して、逆に皇帝が取っ捕まったので、弟の朱祁鈺しゅきごく景泰帝けいたいてい)が即位し、兄を囚われの上皇としたり(土木どぼくの変)、瓦剌の内紛で逃げてきた朱祁鎮が上皇にされてる事にブチ切れて、弟から帝位を取り返したり(奪門だつもんの変)、逆に攻めてきた瓦剌に首都を包囲されたり(庚戌こうじゅつの変)と、色々と危うい場面もありながらも、明朝の統治は続きました。




 そうして遂に、第十四代・朱翊鈞しゅよくきん万暦帝ばんれきてい)の時代へと入ります。

 十歳という若さで皇帝に即位した朱翊鈞は、初めの内は宰相の張居正ちょうきょせいに政治を任せました。

 政敵を強引に失脚させるなどの専横は目立ちましたが、一方で張居正はしっかり財政を立て直しました。


 しかしその張居正が亡くなり、いい年になっても、相変わらず皇帝・朱翊鈞は「絶対に働きたくないでござる!」の精神で遊び惚けます。


 そんな時期に「万暦三征」と呼ばれる三つの乱が起こりました。


 西方では、将軍に取り立てられていた蒙古系の将軍・哱拝ボハイが反乱を起こした「哱拝の乱」

 南方では、貴州きしゅうの有力者であった楊応龍ようおうりゅうが、現地のミャオ族と組んで反乱を起こした「楊応龍の乱」

 そして東方から、日本国内を統一して天下人となった豊臣秀吉とよとみひでよしが朝鮮に攻め込み、その朝鮮から援軍を請われた「朝鮮の役(文禄ぶんろく慶長けいちょうの役)」です。


 この三つの戦いで、一気に国家財政が傾き、明は破滅へと向かう事になりました。まぁ、朱翊鈞自身はこの三つの戦いを真面目に対応せず、その間も国費で遊んでいたので、財政を傾かせたのはそのダブルパンチとも言えますね。




 そんな混乱の中で勢力を強化したのが、明に服属していた女真族です。

 中華王朝の異民族政策は基本的に「部族ごとに分割統治させ、そこで互いに内紛をさせて兵力を削り、そこに介入して有力な指導者も削る」という方式が取られていました。

 明の女真統治も同様で、最大勢力を誇る「海西女真かいせいじょしん」、明と隣接している事で漢化が激しい「建州女真けんしゅうじょしん」、そして北方の黒竜江こくりゅうこう付近で先祖伝来の原始的な生活を続ける「野人女真やじんじょしん」に別れていました。


 そんな中で起こった万暦三征によって明の監視の目が緩み、女真族の諸部族を統一したのが愛新覚羅あいしんかくら努爾哈赤ヌルハチ(ヌルハチ)です。

 彼は部族統一をすると「きん」(後金こうきん)を国号にして明から独立を果たし、ここに蒙古に滅ぼされて以来、四百年ぶりに女真族の金が再興しました。


 当然のように明朝からは討伐軍が派遣されます。その数は十万を超える大軍勢。一方でヌルハチの軍は一万程度です。もし籠城をして明軍を集結させてしまえば、強力な重火器で蹂躙されるだけ。

 しかし明軍は、三方五路から取り囲むように進軍していて分散し、相互に連携が取れていませんでした。

 これを見て取ったヌルハチは、金の全軍を集結させて移動。未だに集結していない明軍を奇襲し、次々に各個撃破していきました。その戦いで明側の多くの将軍が戦死しています。

 十倍の敵軍に対して完全勝利を成し遂げたこの戦いは「サルフの戦い」と呼ばれ、戦史に燦然と輝いています。


 この戦いで流れを変えたヌルハチは、女真族の生活圏である東北部から明軍を次々に駆逐し、金の勢力を伸ばしていきます。


 しかし明の側にも名将はいました。

 「明代の孔明こうめい」とも称される袁崇煥えんすうかんの率いる守備軍が金軍を打ち負かし、ヌルハチは生涯で唯一の敗北を味わう事となり、その後に没しました。


 金の王位は、ヌルハチの息子・愛新覚羅あいしんかくら皇太極ホンタイジ(ホンタイジ)に継がれ、山海関さんかいかん(万里の長城東端の関所)の周辺で、袁崇煥の明軍と激戦を繰り広げます。




 さて、その頃の明は、無駄に治世が長かった万暦帝こと朱翊鈞が、しっかりと国庫を空になるまで使い果たしてから崩御し、その後は宦官の魏忠賢ぎちゅうけんが専横を振るうという状態で、始皇帝没後の秦みたいになっていました。


 しかし第十七代・朱由検しゅゆうけん崇禎帝すうていてい)が即位すると、魏忠賢を廃して宦官勢力を押さえ、財政再建に乗り出すという名君ムーヴをしますが、既に末期症状の明朝に対しては延命措置でしかありませんでした。

 彼は明朝最後の皇帝となるのですが、後世の多くの歴史家に「明は崇禎に滅んだのではない。万暦に滅びていたのだ」と、かなり同情的に評されている事からも、崇禎帝こと朱由検の統治能力が高かった事が伺えます。


 しかし朱由検の欠点は、猜疑心が強い事でした。

 多くの有能な人物を起用しましたが、場当たり的な起用が多く、ちょくちょく大臣ポストの首を挿げ替えてしまっていました。

 最大の間違いは「袁崇煥に謀反の動きあり」という讒言を信じ、山海関で女真族の侵入を防いでいた名将・袁崇煥を処刑してしまった事でしょう。


 これによって万里の長城の内側にまで後金軍が侵入する事となり、明朝はもう終わりだとばかりに各地で反乱が勃発。

 そうした反乱の最大勢力は、農民出身ながら騎射が得意だった李自成りじせいが率いる軍でした。


 ここまで来ると皇帝ひとりの力ではどうにもならず、膨れ上がった農民反乱軍に首都は陥落。朱由検は宮殿の庭で首を吊って自決しました。

 多くの臣下が勝手に逃げ、皇帝が自決した時に付き添ったのは、宦官一人だけだったそうです。




 ここに明王朝は崩壊し、李自成が「じゅん」を国号に新たな王朝の建国を宣言! ……しますが、山海関を突破した後金軍が攻め寄せ、李自成と順帝国は数カ月で滅びました。


 ちなみにホンタイジはこの直前に没しており、後金の王位はその幼い息子の愛新覚羅あいしんかくら福臨フリン(フリン)へと継がれ、ホンタイジの弟である愛新覚羅あいしんかくら多爾袞ドルゴン(ドルゴン)が補佐をしていました。


 順王朝を滅ぼしたフリンは、国号を「金」から「しん」に改め、漢人、蒙古、女真の三族から推戴された皇帝(順治帝じゅんちてい)となったのです。

 ちなみにこの際、女真族の部族名も満州まんしゅう族へと改められました。




 さて、清王朝の統治ですが、女真族(満州族)の部族は、この時点で「八旗はっき」と呼ばれる集団で管理されていました。

 「黄・白・紅・藍」という四色の序列に、基本デザインの「正」と、それに枠が付けられた「じょう」に別れたものです。


正黄旗せいおうき

鑲黄旗じょうおうき

正白旗せいはっき


 これら三軍を皇帝直属の軍とし


鑲白旗じょうはっき

正紅旗せいこうき

鑲紅旗じょうこうき

正藍旗せいらんき

鑲藍旗じょうらんき


 これら五軍を皇族の諸侯王たちがそれぞれ指揮する形です。


 これら八旗軍には、旗王(指揮官)としての序列が予め用意されており、指揮官が戦死や病死を問わず亡くなっても、即座に次の序列の者が繰り上がって指揮をする方式です。それによって後継者争いを回避していました。

 満州族は、国民全員がこのどこかに所属しているという、いわば国民皆兵の制度を取ったわけですね。


 後金の時代から服属した蒙古族もまた、同じ統治方法が採用され、「満州八旗」に対して「蒙古八旗」と呼ばれていました。


 ただし漢人に関して、「漢族八旗」も作られましたが、そこに所属できるのは明が滅びる前に後金に服属した漢人のみであり、明朝崩壊後(清朝建国後)に屈した漢人は、それまでの地位に関わらず、全て雑兵である「緑営りょくえい」とされ、出世の道が閉ざされました。

 ちなみに人口比率の問題で、後世の清軍は主力がこの緑営となるわけですが、その設立過程から士気が高まるわけがなく、清軍の弱体化の原因になります。




 また満州族の伝統的な髪型である「辮髪べんぱつ(頭の前半分を剃って、後ろ髪を三つ編みでまとめるアレ)」を、漢人を含めた全国民に義務化しました。

 儒教倫理において髪を切らない(親に貰った体の一部を切るなんてとんでもない)文化にあった漢人にとって、これは反乱の火種になるほど屈辱的な事でしたが、満州人が明代に漢人にされてきた事からすれば「まだ手ぬるいレベルだろ」という風潮でした。




 当然ながら漢人もそうした異民族支配体制を、素直に全部受け入れるわけがありません。

 皇帝・朱由検が自決した後、毎度お馴染みですが江南で万歴帝・朱翊鈞の孫にあたる朱由崧しゅゆうすう弘光帝こうこうてい)が擁立されて南明なんみんが建てられますが、これと言って北伐をする暇もなく清軍に南征されて崩壊。


 その後も、朱聿鍵しゅいつけん隆武帝りゅうぶてい)、朱以海しゅいかい魯粛王ろしゅくおう)、朱聿𨮁しゅいつえつ紹武帝しょうぶてい)、朱由榔しゅゆうろう永暦帝えいれきてい)と、攻め滅ぼされる度に明の皇族を擁立しますが、最後は辺境の雲南まで追い詰められて消え去りました。


 また南明初期の名将である鄭成功ていせいこう台湾たいわんに渡って、日本の江戸幕府と結び、台湾で鄭氏政権を建てました。




 そんな感じで、漢人を押さえつけながら満州族の清王朝が続き、第四代・愛新覚羅あいしんかくら玄燁げんよう康熙帝こうきてい)や、第六代・愛新覚羅あいしんかくら弘暦こうれき乾隆帝けんりゅうてい)などの名君も出てきます。

 中でも康熙帝こと玄燁は、後漢ごかん劉秀りゅうしゅう、唐の李世民りせいみん、北宋の趙匡胤ちょうきょういんと並び、中国通史でもトップクラスの名君として後世に語られました。詳細は省略!

 この時期が清王朝の最盛期と言えます。




 それ以後、清王朝は傾いていく事になるのですが、大きな要因としては欧州列強の進出と言えます。当時のヨーロッパは、イギリスをトップとする五大国が覇権争いの末に世界に植民地を拡大していた時期でした。


 当時の清は、それ以前の時代と同様、あくまで中華皇帝を天下の中心とし、諸外国はそれに屈した冊封国か敵対する夷狄いてきかという中華思想の下で国家運営を続けていたわけですが、進出する欧州列強に対してどう接するべきか国内でも紛糾したわけです。


 しかし世界帝国を築いたイギリスとの貿易戦争でやりこめられ、次々と欧州諸国に土地の割譲を求められた結果、皇室の権威は衰えていく事になります。

 皇室の権威が衰えたらどうなるか、今までの歴史通りです。各地で反乱が勃発します。

 洪秀全こうしゅうぜんが率いたキリシタン集団が起こした「太平天国たいへいてんごくの乱」を皮切りに、各地で乱が勃発。


 清朝は鎮圧に追われますが、反乱は野火のように広がり、列強勢力の国内介入を招きます。


 そうした列強の進出に義憤を覚えて立ち上がった愛国集団「義和団ぎわだん」なども、膨れ上がった兵を養う事が出来ずに略奪に走って、余計に外国勢力の介入を招いてしまう皮肉な状況にもなります。


 そんな末期状態の清王朝では、皇帝の権力は強いどころか、むしろ幼い皇帝を擁立する事で外戚が権力を振るうパターン。すなわち西太后せいたいごうの専横の真っ最中。


 そんな西太后によって幼い頃に擁立された、第十二代・愛新覚羅あいしんかくら溥儀ふぎ宣統帝せんとうてい)が、清朝の最後の皇帝にして、中国史における最後の中華皇帝となるのでした。


 西太后の死によって、清朝中枢は慌てて近代化に舵を切る事になるのですが、事態は既に手遅れでした。


 孫文そんぶんに率いられた漢人の革命家集団によって武装蜂起(辛亥革命しんがいかくめい)が起こり、清の首都である北京に対して、南京に中華民国政府が樹立されたのです。


 そこに至って溥儀は退位を宣言し、清王朝に自らの手で幕を下ろしたのでした。




 その後、孫文による中華民国政府が国内をまとめると思いきや、孫文の死後は各地の軍閥が次なる政治的主導権を巡って激しく争う事となり、欧州列強の介入も続いたままでした。


 そんな中で、清朝皇帝から退位した溥儀は、身の危険を感じて各国の領事館へと駆けこもうとしますが、イギリスやフランスの領事館からは追い出され、最後に泣きついたのが関東軍(山海関より東の軍の意味)の日本領事でした。


 日本政府としては内政干渉になるからと消極的でしたが、関東軍は溥儀を受け入れ、……まぁ、色々あって「満州国」を建国。

 日本政府側も「建てちゃったもんはしゃーなし」と事後承認。


 一方で漢人側は「せっかく滅ぼした満州族の国を復活させやがった!」と、各地の軍閥が「日本絶対許さぬ」の一点で団結。


 その後に何やらあって、泥沼の日中戦争(抗日戦争)が始まってしまうわけですね。


 この辺りの細かい部分はのでガッツリ省略!




 そうして蒋介石しょうかいせきの国民党を中心に各地の軍閥が日本の関東軍と激戦を繰り広げている中、ソ連の後ろ盾を得た毛沢東もうたくとうの共産党が力を蓄え、日本軍が撤退した後に国民党と戦いを繰り広げ(国共内戦)、遂に中華全土は毛沢東率いる共産党の手に落ちて現在に至るというわけですな。


 蒋介石の国民党政権は、明末の鄭成功に倣って台湾に逃げ延び、そこで現在の台湾へと至ります。






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