戦国、秦

【初心者向け雑解説】どんな時代なの?――③戦国、秦

 戦国時代の主要国を意味する「戦国七雄せんごくしちゆう」の内訳は、春秋の終わりの象徴となった(元々は軍事大国のしんだった)「かん」、「」、「ちょう」の三国を真ん中として、北の「えん」、東の「せい」、南の「」、そして西の「しん」になります。

 ちなみに燕、楚、秦は春秋時代から継続している国ですが、斉に関しては春秋時代の姜姓から、下剋上によって田姓へと乗っ取られております。

 ここもまさに戦国の象徴で、人によってはこの田斉の成立を以って戦国時代と言う人もいます。




 春秋五覇しゅんじゅうごはと戦国七雄の違いは、春秋五覇が天下に覇を唱えては衰退して次の覇者が出てくる縦の関係だとすると、戦国七雄が同時に天下を競い合う横の関係って感じです。


 ちなみに、この春秋~戦国時代の国名が、後の時代までその土地の古名にもなっている関係上、後の時代で国を建てる時は、同じ国名が何度も使われる事になります。

 なので最初に「春秋諸侯を全部覚えるなんて諦めるレベル」と言いましたが、少なくとも春秋五覇や戦国七雄などの覇権国が、地図上でどのあたりにあったのかくらいは頭の片隅に置いておくと、後々の時代もかなり分かりやすくなるのでお勧めです。(地図は各自でググること!)




 もうひとつ春秋時代と戦国時代を大きく分けるとするなら、春秋時代の覇権国は相手を攻撃するとしても屈服させるまでに留める事が多く、後に覇権国が衰退すると、屈服していた国が再独立・再興するなどが、しばしばあったのですね。

 ところが戦国時代になるとその辺の容赦が無くなり、敗北即滅亡みたいな血みどろの乱世に変わっていました。


 前よりも余計に悪化した天下を、ある者は嘆き、ある者は名を上げる好機と見て、更に色んな思想家が(略


 とにかく三晋分裂から約百五十年、そうした熾烈な争いが続くわけです。その中で名君や暴君、名将同士の勝負などが多く生まれ、戦国七雄の覇権争いも抜きつ抜かれつの様相になります。

 色々と語りたい逸話もありますが、長くなるのでバッサリ割愛(興味があればググってね)


 そんな事を繰り返している内に、戦国七雄の中でも覇権国に乗り遅れがちだった秦が台頭して一強状態となり、実はまだ細々と生きてた周王室を完全にぶっ潰し「文句があるならかかってこいや」とばかりに、他の六国に喧嘩を売ります。

 そんな「周王室をぶっ潰し、六国に喧嘩を売った」という状態で、秦王の座を継がされた、どう考えても貧乏くじな若者がいました。その名は嬴政えいせいと言いました。

 しかし彼は、そんな逆境も何のその。一代で他の六国を全て返り討ちにして滅亡させ、天下統一を果たします。


 統一を果たした物の、王という称号は既に多くの国が使ってしまい重みが無い。そこで彼は、神話時代の三皇五帝から文字を取り「王の上に立つ神のような存在」を意味する「皇帝」を名乗ります。


 この秦王嬴政こそが「秦の始皇帝しこうてい」……、というわけで、天下は始皇帝によって統一されたわけですが、それは一時的な物であり、彼の死後には戦国時代の残党たちが次々と蜂起して、一気に再び乱世になってしまいますが、秦崩壊後の乱世は次の枠になります。

 この枠では、戦国の始まりから秦による統一、そして秦の崩壊までの枠という事ですね。




 戦国七雄の中で、秦が抜きん出た点としては「法治」に重きを置いたという事ですね。

 諸子百家しょしひゃっかの中でも「人間の本質は基本的に悪である(性悪説)。よって規則で縛らなければ自然と悪行を働いてしまう」という法家ほうかを厚遇し、戦国初期に仕えた商鞅しょうおうから、始皇帝の代に仕えた李斯りしまで、法家が秦に集いました。


 周代以前はもちろん、春秋戦国の他の諸侯や王は、あくまでも「人治」が基本。つまり罪を犯した者を許すか処刑するかなどの基準が定まっておらず、あくまでも君主の人柄(果てはその時の気分)で決められてしまうって事なわけです。

 春秋戦国期に諸子百家が台頭し、特に孔子こうしから始まる儒家じゅかの思想が広まったのは、君主による人治で国が動いていたからこそ、君主の徳と、臣民の忠孝が何よりも重要って事なわけです。


 他の六国が未だに人治で動いていた所を、いち早く法治に切り替えたのは(後世の視点から言えば)大きいですね。


 ただし秦の法治は生まれたばかりで至らぬ点も多く、特に人権意識や自由など何も保証されない物ですので、いくら時代の移り変わりと言えど、この国では暮らしたくないと思えるほどのブラック具合なわけです。

 徳だの忠孝だのは関係なく、法律による恐怖支配で臣民を縛り上げる形になってしまいます。


 もともと思想面で明確に対立してしまう儒家から多くの批判が集まり、それを弾圧した「焚書坑儒ふんしょこうじゅ」(儒家の書物を焼き、儒家を処刑する)というもあります。




 さて、秦の法がどれほどのブラックだったかと言うと、例えば無茶な日程の土木工事をやれと命じられたら、断ったり逃げたりすれば一族郎党全員死罪。スケジュール的に明らかに無理なのに、工期が一日でも遅れたら作業員全員死罪。間に合うように頑張れば十人中七人くらいは過労死。とまぁ、こんな調子なわけですわな。


 そうした土木工事は、あくまでも罪を犯した囚人を労働力としたという免罪符はありますが、当時の人口規模で考えると、の人数が明らかにおかしいわけですね。

 ちょっとした軽罪や、理不尽な言いがかりで罪人扱いされて「はい、強制労働行きー!」って事が容易に想像されてしまいます……。


 そんなやり方で、豪華な宮殿(阿房宮あぼうきゅう)や、万里の長城、更には自身の墓(始皇帝陵しこうていりょう)などの大規模土木工事を立て続けにやったわけで、そりゃ「黙って死ぬくらいなら……」と反乱や暗殺未遂も相次ぐってもんですね。


 かつて始皇帝の幼馴染でもあった燕の太子・姫丹きたんによって雇われた暗殺者・荊軻けいかによる暗殺未遂や、後に前漢ぜんかん建国の功臣となる張良ちょうりょうが主導した始皇帝の巡幸襲撃など、多くの事件が起こるわけですな。




 始皇帝の他の改革としては、戦国以前までは臣下に領地を与え、その地位を代々世襲する「封建ほうけん制」が取られていた所、天下全体を行政区画に分け、その土地を治める官僚を派遣し、地位を世襲させない「郡県ぐんけん制」へと移行します。

 この辺は良き改革として後世にも引き継がれていきますが、当時としては常識だった既得権の剥奪なので、これもまた反乱の火種になります。


 他には、文字の統一(実質的な漢字の誕生)、度量衡どりょうこう(長さ・体積・重さの単位)の統一、貨幣の統一(秦の半両銭はんりょうせん円形方孔えんけいほうこうの貨幣)などなど、周代からあった「天下」という概念を一歩進め、ひとつの「国家」として初めてまとめたという点で功績が語られるわけですな。




 この始皇帝(嬴政えいせい)という人間、そもそも秦王の座に着くまで決して安泰ではなく、奇跡のような偶然の積み重ねと、大勢の思惑に後押しされ、波乱万丈な前半生を送って王になったのですが、王になってから六国を滅ぼし、統一後にここまでの改革を断行したわけですよ。自分一代で。

 後世に目を向けて考えても規格外の化け物としか言えんのですよね。


 そんな始皇帝は、不老不死の夢にしがみ付いたと言い伝えられているんですが、永遠に支配の頂点に居たかった的な悪役ムーヴとして語られがちです。

 ただ一代でここまで来てしまった以上「今ここで自分が死んだらすぐまた乱世に戻ってしまう……」という憂いもあったんじゃないかという見解もあって、本心がどうだったかは想像するしかないわけですな。




 とにかく始皇帝の死によって国が乱れるわけですが、家臣である趙高ちょうこうが始皇帝の死を隠し(バレたら国が乱れるもんね、仕方ないね)、始皇帝の長子であった扶蘇ふそや、北方騎馬民族の匈奴きょうどと戦っていた名将・蒙恬もうてんらを、始皇帝の印綬いんじゅ(公文書に押す判子ハンコ)を乱用して次々ににしていきます(どういう事なの……)。


 そんなわけで趙高は、馬鹿ばかの語源にもなった程の暗愚で知られる胡亥こがいを二世皇帝に擁立するわけですが、各地で反乱が勃発しても止める事が出来ず、始皇帝の死からわずか三年で秦は滅亡する事になるのですな。


 そんな秦を滅ぼしたのが、西楚覇王せいそはおう項羽こうう。そして漢高祖かんこうそ劉邦りゅうほう


 そんな項羽と劉邦が争った次の時代枠である「西楚・前漢」へと移ります。






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