水泡独語

水泡

蒸発

 猫は、身体の60〜80%は水であるという。猫が身近にいる人なら、なんとなく納得してしまうだろう。机の上で置物のように佇んでいたかと思えば、狭い隙間をするりと抜けたり、床の上で水溜りのように平べったくなっていたり。液体と個体を自由自在に行き来する様子はダイラタンシー流体を彷彿とさせる。

 対して人間も、成人なら身体の60〜65%は水であるという。猫には劣れど、決して少なくはない。しかし、人間が液体のようになっている様子はあまり想像がつかない。バレリーナなどには異常なまでに体が柔らかい人はいるが、どうも身体の殻を破るものには思えないのだ。ゴムのようであれど、液体ではない。

 猫のそれは身体の殻を破って溢れていきそうな危うさを秘めている。いつのまにか自分の見ていないうちに蒸発してしまいすらしないか。それが私は心配になるが、逆に羨ましかったりもするのだ。人間も身体の殻を破れたなら、私も蒸発してしまえたなら。

 先ほど人間について「ゴムのようであれど、液体ではない」と言ったが、それは何故なのだろうか。皮膚がしなやかではないから?もっともらしい答えだが、面白みがない。

 私が思うに、人間は自分という存在が身体から何か一つでも零れ落ちる事を許容できないのだ。

 「写真を撮られると魂を抜かれる」という有名な迷信がある。果たして迷信なのかはともかく、人間は「身体」と「魂」という二つの要素で出来ていると考えている事に基づく迷信だ。いわゆる「実体二元論」と言われる中の一つであるこの考え方は、人間の無意識に深く根ざしている。

 人の心情や思考は「魂」が司っており、脳といった「身体」がしているのではない。と言えば否定する人も多いだろう。「心情や思考は脳の中の微弱な電気の伝達によるものだ」と。

 では、なぜ昔の人間は写真を撮られ、魂を抜かれる事を恐れたのか。新しいものへの拒絶か。いや、恐ろしかったのは本当に魂が抜かれた気がしたからだろう。

 ロケットペンダントをご存知だろうか。中が空洞で、写真などを入れることができる。ドラマや映画では、それを兵士が開けて、中に入っている彼女や妻、彼女の写真を見るシーンがある。なぜ戦地に写真を持っていくのか。「分かりやすい」というのもあるが、それは回想でも良い。これは写真と魂の関係性を示す良い例だろう。写真はまさに、写っている人の魂の欠片も持ってくることを意味するのだ。

 写真には魂が宿る。だからこそ人は写真を撮られることを恐れた。自分が自分でなくなりやしないか、下手したら死ぬのではないか。このとき、人間を動かすのは理性ではない、本能だったのだ。自分という存在が零れ落ちる事を人間は恐れていたし、今でも恐れているのだ。

 ここまでの話から、猫は自分の存在に無頓着であると言えよう。「生きる」という理念を大前提として持ち、それに忠実な猫。また、猫は4日間しか記憶がたないという。そんな猫にとって「心」も「身体」も自分であることに変わりはなく、それが分離しても自分は自分だ。実体二元論はどうでもいいのかもしれない。

 人間は賢くなりすぎた。これは決して威張れることではない。脳みその体積という、実体二元論で言えば物理的なものに比重を置きすぎたあまり「心」や「魂」が追いつかなくなった哀れな猿だ。さらに悲しいのは、その「心」や「魂」を身体に留め続ける進化をした事だろう。

 だから蒸発もできなければ液体化もできないのだ。

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