第38話 朧太夫
「皆、今日は大事なお客さんが来んした。曙楼にてもてなしんしょう。さ、帰りんす」
普通、誰ぞの元へと向かう為の花魁道中にて主役が途中で帰宅するなどと言う事は万が一にもあってはならない事なのだが……。このコンちゃんもとい、朧太夫と言う女性は一味違った。
「今宵は、こなたの方々と過ごしんしょう。積もる話もありんしょうし」
一瞬、付き人同士でざわめきが駆け巡るが、事態は大きくならずに収束した。
朧太夫がこう、と言えばこうなのだ。どれ程のお偉いさんからのお呼びとあっても、付き人達にとってはこの人以上の上人は居ないのである。
「朧太夫、いいのかのぅ? ワシら以外にも大事にしなけりゃならん輩はいるじゃろうに……」
既に方向転換し、またシャナリシャナリと歩き出した朧太夫に向かい桃太郎は心配そうに尋ねると、
「あら、桃ちゃんはわっちと過ごすのが嫌なの?」
あっけらかんと言う。
しかも、その真意はおよそ本気ではない、寧ろ相手が何と言うのか解っていると言う風な聞き方だ。現に、朧太夫は目を細めながら悪戯そうに微笑んでいるのが何よりの証拠である。
「い、いやいやいや! そんな訳ないじゃろッ! な、桃次郎?! お主も勿論、朧太夫と過ごしたいわにゃ?! にゃ?!」
びしゃびしゃともの凄い量の唾の飛来である。目の玉が飛び出そうな程の勢いで桃太郎が桃次郎の胸ぐらをガッシリ掴んで揺さぶる為、可哀そうな彼には逃げ場など何処にも無い。
【顔面に余さずじじいの唾キャッチ】と言う再びの悪夢が桃次郎を襲う。
「……う、うん。勿論、喜んで……ぐぇ」
何とかそう絞り出して呟くと、やっと揺さぶりは終わりを迎え、至近距離からの唾爆弾は止んだ。正直、綺麗な小川に浸かって全身を清めたい……と、せめて妄想の中だけでも綺麗になっておく事に意識を集中させる可哀想な桃次郎。
(じじいに盛大に飛び蹴りをかました後に、天界の清らかな清流にそのままの勢いでダイブ。そのまま水底を眺めながら穢れが流されるのを待つ……)
────妄想って素敵だ、いつでも自由に現実逃避が出来るのだから
(うん、こんなもんだな)
脳内ですっかり綺麗清潔になった自分が、小川からキラキラの飛沫を上げて水面から飛び出る様子を想像した桃次郎はどこかスッキリとした面持ちに変わりご満悦そうである。まぁ、実際は全く綺麗になんかなっていないのだけれど。
「そう? それならよかんしょ」
朧太夫は口元を隠しクスクスと笑いながら「じゃあ一緒に行きんしょう」とするすると歩いていく。心なしか、さっきのゆったりとした歩きより早いような……
それよりも、全て彼女の掌の上だ。と桃次郎は思った。
女性は男を掌で転がすのが上手いと聞いた事があるが、このような女性の事をいうのだろうか。それとも、この人が特別なのか? こんな綺麗な人に誘われたらそりゃまぁ、いや僕以外は断れないのもわかるけどさ……感心する勢いである。
――そう言う訳で、急きょ桃太郎じいちゃんの昔馴染みである朧太夫さんと一緒に遊ぶ事になった。一行はすれ違う来園者に羨ましそうな視線を浴びせられ、途中では
「いよッ朧太夫! 日本一!」「なんて素敵なの!」
と言う賞賛や羨望の眼差しを一身に受けながら朧太夫達と並んで歩き曙楼へと到着する。
店に入ると、小柄で恰幅の良い女性が驚いたように振り返った。
奥から丁度彼女を『おかみ』と呼ぶ声がした、どうやらこの店の店主であるらしい女性が目を剥く。
「お、朧太夫!? い、今出て行ったばかりでないか」
「ただいま花はん」
あっけらかんと還御の挨拶をする。
「た、ただいまって! ちょいと、もう!」
狼狽える女将の花は朧の後ろ側にサッと隠れた付き人達を鋭く睨む。
「あんた達ぃ! 一体どういう事だい?」
チラリと顔を覗かせる付き人達は、揃って両手を小さく上にあげ、『さぁ?』と言ったわざとらしい仕草をして見せる。
花の顔が茹でたてのタコのようになった所で、朧の足元左右に抱き着く
『姉様、今日は大事なの』
と口を揃えて言う。おずおずと『ばぁば、怒らないで?』感を出している。
「大事って言ったって……ねぇ……」
二人のウルウルとした上目遣いに怯む花は、語尾から怒気が抜けてしまう。
その様子を見た蓮が、「訳アリでー」と言うと同調するかのように便乗する香が「もう会えないかもー」と泣きだしそうになりながら更に続けるとうぐぐ、と花の口元と眉がへの字に歪む。
「わ、わかった! わかった!! んもう、仕方ないね、今日限りだよ!!
全く、あの
フンッと鼻を鳴らして奥へ下がろうとした時、周囲に見物の女郎衆がわらわらと居る事に気が付き、睨みつけ
「こらぁ、お前たち! 見せモンじゃないよッ 仕事しなア!!」
カッと一蹴する。
階段の上から見ていた女郎衆は、
「うふふ」「きゃー」「こわぁい」
などと言いながら楽し気に、蜘蛛の子を散らすよう各々戻っていく。
「まったく、どいつもこいつも~!!」
と憤慨しながらドシドシと床を踏み鳴らし暖簾を潜って奥へと戻る花。
朧太夫がそれを「花はん、だから好きなのよ」と見送りクスクスと笑う。
「さて、わっちは召し替えしてきんす、先に部屋でくつろいどいてくなんしょ。
銀、こなたの方々をわっちの部屋へ通して茶の用意を」
傍に控えていた頬に傷のある男がスッと前に出て頭を垂れる。
「へぇ、承知致しやした。所で、
「そうしておいて、内容は任せるわ」
「へぇ、ではそのように」
再度頭を垂れてからよいせと立ち上がる銀は、桃次郎と桃太郎を見る。
何か探るような視線が含まれていたような少しの違和感を桃次郎は感じるが、銀の方から視線をスッと外して来た為、その場では特に追及する事無く様子を見てみようと思う。と、格好良く思ってはみたが銀さんとやらは随分と喧嘩慣れしていそうだし、腕っぷしではとても敵わないだろうから思って見ただけだ。うん。
「そこな二方様、どうぞこちらへ」
そう言って大階段を上がるよう手で示す。
「また、後でね桃ちゃん」
朧太夫が先に大階段を上りきり軽く目くばせをし、蓮と香を連れ通路右の支度部屋へと消える。
後に残った者らも次々と持ち場へ戻ってゆく。
銀と一緒に階段を上り、通路左手側へと進んで行くと最奥の間へと案内される。
「さ、こちらへ。直ぐに茶を用意させやす、では」
二人は二十畳はあろうかと言う雅な和室へと通され、ふかふかの座布団と熱い緑茶に和菓子のセットが目の前にテキパキと用意される。
セットを終えると、女中が「失礼致します」と一声かけてから側へ座り、
「本日は、曙楼へようこそ」と挨拶をした後スッと右掌を茶に向ける。
「こちらは、天界では名高い仙ヶ山産の玉露茶で御座います。練り菓子は天華街随一の練り師、菊正による物でお客様から右手側が【桃花】、左手側が【清流】で御座います」
と一つ一つ説明を挟む。
使用人達は皆、行き届いた教育がされていて一流のホテルや老舗旅館さながらのもてなしようである。(桃次郎はいずれも未体験であるが……)普通一般ではこのようにされると慣れない故に変な心地悪さと言うか、身が固くなってしまいがちであるが、居心地の悪さを微塵も感じさせない所がまた凄いと思う。
「どうぞ、いまにか朧太夫が来やす。足を崩してお寛ぎくださいやせ」
この銀は一見、とてもカタギの人間には見えない風貌であるが、とても忠実なのだろうと言う事が行動や言動の端々から解る。何と言うのか、温かみのあるヤーさん顔とでも言っておくのが正解なのだろうと少々失礼かもしれない事を桃次郎は考え一人勝手に納得しておくのであった。
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