第28話

 ミチルには1個、やってみたいことがあった。

 口にするのも恥ずかしい野望なのだが、ヒメコの機嫌がすこぶる良い今日なら許可をもらえる自信があった。


「ねぇ、神木場さん!」


 ミチルが指さしたのはゲーミングチェア。

 高い背もたれとゆったりした座面を特徴とした、VTuberの商売道具である。


 一度でいいから座ってみたい。

 突然の願いにもかかわらず、


「うん、いいよ。むしろ感想を聞かせてよ」


 とヒメコは笑って許可してくれた。


 ゲーミングチェアはその名が示す通り、ゲーマーが10時間くらい座っていても平気なように設計されている。

 もちろん、体の負担がゼロなんてことはありえないから、限りなく足腰に優しい、と表現した方がいいだろう。


 イルミナ=イザナは配信中、新しいゲーミングチェアを絶賛していた。

 実力がいかほどか知りたいのが本音だ。


「レバーが何個かあってね〜」


 高さを調整するのはこっち、背もたれを調整するのはこっち、と実演してくれた。

 本体とは別売りの足置きもあって、限界まで倒すとベッド代わりに使えるらしい。


「20分くらい仮眠をとるのには最適かも。さすがにゲーミングチェアじゃ熟睡できないけれども、天気がいい日とか、窓辺でゴロゴロすると天国にいる心地になれるんだ」


 ヒメコがここで眠っている。

 その姿を想像して胸をキュンキュンさせる自分は、もはや病気かもしれない。


「ではでは、試させていただきます」


 腰かけた瞬間、ほんのり甘い匂いが鼻をついた。

 シャンプーとボディソープをミックスさせたようなやつ。


 そうか。

 お風呂上がりもここで作業しているのか。


 もはや女子の布団に入ったもの同然。

 ミチルが罰当たりなことを考えていたら、急に視界が高速回転して、手をバタつかせるハメになった。


「あわわっ⁉︎ 神木場さん⁉︎」

「ほら、すいすい回るでしょ。ベアリングのところが丈夫で、ちっともガタガタしないんだ。120kgまでの人が利用するのを想定しているんだってさ」


 ひと昔前の漫画なら、口から心臓が飛び出るシーンだ。

 うっかり転んだら椅子が壊れるかもしれないのに、そういう心配をしないのだろうか。


 回転が収まっても、ミチルの視界はしばらく回っていた。


「で、座ってみた感想はどう?」

「そうだね。全身を優しくキャッチされる感じがして、とても快適だよ。正しい姿勢を教えてくれるから、これなら猫背にならずに済みそうだ」

「でしょ〜。自然と背筋が伸びるんだよね〜。生地のお手入れも楽チンだし、夏場でも冬場でも重宝しているよ〜」


 ヒメコは我が事のように喜んでいる。

 わかるな、自分の所有物を褒められたらミチルだって嬉しい。


「ちなみに、気になるお値段は?」

「え〜とね、通販のタイムセールで手に入れたから、定価じゃないんだけれども……」


 予想の倍以上してびっくり。

 これと同じものをミチルが手に入れるのは、だいぶ先の話となりそうだ。


「ねえねえ、私のお願い事も聞いてくれるかな?」

「俺にできることなら何でもいってくれ」

「じゃあさ……」


 ヒメコはお尻を向けて、椅子に座ろうとしてきた。

 ミチルは慌ててスペースを譲ろうとしたが、そのまま座っていて、と指示された。


 男子の上に女子が座る。

 まさか……。

 これは……。


 恋人の椅子になってあげるやつだ。

 ラブラブカップルにのみ許されたポーズ。


 思いがけない接触のせいで、ミチルは一瞬意識を失いそうになり、おへそのあたりに力を込めることで正気をキープした。

 ちょっとした衝撃でも理性が吹き飛んじゃいそう。


 ヒメコの体は軽い。

 おそらく40kgちょっとではないだろうか。


 ミチルは腕をシートベルトみたいにして細い腰に回す。

 触れている部分が熱くて、鼓動が伝わってくるみたいだった。


 ヒメコも同じ気持ちなのだろうか。

 2人の心が通い合ったような気がして、嬉しい感情が次から次へと湧いてくる。


「坂木くんのひざの上、快適、快適。一度こうしてみたかったんだ」

「神木場さんって普通に甘えん坊だよね」

「ウザいって思った?」

「ううん、かわいい」


 ヒメコのお尻は想像より小さくて、気持ちいい匂いが止まらないから、うっかり彼女を壊してしまわないかドキドキした。

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