君は僕を見つけた

 桜は散り、葉は青々と茂っている。寒気が完全に抜けて、でもまだ熱はこもらない。気持ちの良い5月上旬。

 僕は薄情なことに高校生活にすっかり慣れていた。別に朝希のことを忘れた訳ではないけれど、新しい環境はいつの間にか心地の良いものになっていて、そんな自分に少しゾッとする。

 でも別にそれは悪いことではないわけで。

 端的に言えば、僕はどっちつかずで生きている。諦めたと言い朝希との接触も試みないくせに、朝希のいない生活に慣れる自分を蔑んでみる。でもそれはそれで辛いから、悪いことではないと肯定してみたりする。

 僕は、もし突然目の前に朝希が現れたらどうするのか自分でもわからない。悲しいのもそれなりに辛いのも自覚はしているけれど、僕は自分の感情の整理すら終わっていなかった。でも今は、それをしたくない。新しい日常に馴染んで目を瞑っていたい。

 そんな風に僕は僕に向き合うのを先延ばしにして甘やかす。

 その思考は大抵朝に起きて、通学電車の中で収まる。なぜなら夢に朝希が出てくることがあるから。我ながら気持ち悪い。行動力と体力さえあったならストーカーとかやってた未来もあったかもしれない。なんだその未来。ただただ怖い。

 こんな風に自分を甘やかしながら自分に嫌悪感を抱いて、最低な気分で登校する。でも学校に着くといつの間にかそんな気分はなくなっている。15分ほど歩くおかげだろうか。道中坂もあるし。

 ここ1ヶ月でできた僕の日常は、こうやって始まる。




 新しい日常の次の場面は隣の席の男子の挨拶から。学校に着けば隣の席に水島伊織という男子が座っている。


「ハンドメイド部に入ってくださいー!!」


 これが伊織との初めての会話だった。

 クラスの自己紹介で得た以上の情報がないやつから、よく知らん部活に誘われて咄嗟に反応出来るやつはそういないだろう。僕は多数派の反応できないやつである。フリーズしていると伊織は焦って言葉を繋いだ。


「待って断らないで。俺、もう8人くらいから断られてんの。文化部やってた同じ学校の人とか塾同じだった人とかも誘ったんだけど全部断られて。でも他に知り合いいないし……」


 天然パーマの自分とは対称的なサラサラ髪の生徒は、拝むように手を合わせて矢継ぎ早に続けた。


「お願いします。入ってください。糸くん、自己紹介でもやりたい部活ないから誘ってね的なこと言ってたし!」


 ──そういえばそんなこと言ったな。

 言った自分を恨みこそしないが、なんで面倒なことに巻き込まれるようなこと言ったんだよ、と内なる自分に愚痴ったりする。無意味。

 でも、流れに抵抗しないのがそんなに嫌なわけではなかった。


「……えっと、なんで僕?」


「隣の席だから!!」


 大声。即答。食い気味なくらいの速度。

 とりあえず大した理由なく誘われたことだけはわかった。そして目の前の男子生徒が誰でもいいと思えるほど切羽詰まっているらしいことも。

 断る。断らない。

 今、2つの選択肢がある。

 僕は手先が不器用で、活動内容がわからないながらにもハンドメイド部に不向きなことがわかる。所属していた部活は美術部だけ。


 ネガティブな判断材料からどうしてこんな決定をしたのかを、僕はまだよくわかっていない。


 でも確かに僕は「入ってもいいよ」。あの時、そう答えたのだった。

 その日から毎週月曜日と木曜日はハンドメイド部なんていうふざけた部活に通っている。この学校の部活・同好会数は非公式のものを含めて70を超えている。ジャグリング部だのシーグラス部だのに加えてミステリー同好会なんてものまである。その中だとハンドメイド部はまだまともな方だ。

 ちなみになんで部員を募っていたのか伊織に聞いてみたところ


「お金のため」


 という非常にシビアな答えが返ってきた。

 伊織には年の離れた妹がいる。手先が器用な伊織は妹のためにアクセサリーや服を作るのが好きだった。

 部活の予算で作れればその金が浮くということで部員ゼロだったハンドメイド部に目をつけ、部員数によって予算が変わると知り部員を募ったという。

 かくして僕は、伊織の妹のためにハンドメイド部に入ったというそこそこしょうもない経緯を手に入れてしまったのである。

 しかも僕はハンドメイドに興味なんてないし、伊織は伊織で家での作業の方が落ち着くので僕らはボードゲームをして放課後を過ごす。実質的にはボードゲーム部だったけど先生に怒られたことはないし、構わないだろう。もちろんボードゲームは持ち込みか僕らが自費で買った物で、部活動予算には手を付けていない。

 それ以外の平日は、基本的に家の手伝いをする。弥生さんが抜けたシフトが不安だったが、4月に新しいバイトが入ってきた。

 彼の名前は合野口真咲という。僕の元クラスメイトだ。不登校の。

 会ったこともないクラスメイトだったが、僕はなんとなく不健康そうなのを想像していた。けれどバイト初日、僕の前に現れたのは背が高く肩幅のガッチリした体格の青年だった。


「今日からよろしくお願いします!」


 元気にそう言うと、真咲は僕らに向かって頭を下げた。運動部特有の礼儀正しさを感じさせるその態度に、不登校という事前情報とのアンバランスさを感じる。

 体躯の良さに加えて短髪と太い眉とがスポーツマンらしさを演出しているが、異様に白い肌だけがそれが違うことを表していた。

 真咲は不登校期間家で勉強と筋トレをしていたらしく、頭は僕なんかより段違いに良かったし、休みの日に公園でバスケをしてみたら完膚なきまでに叩きのめされた。性格も明るく不登校をしていたのが不思議なくらいだ。詮索をするのも失礼なので特に何も訊いていないが、不登校の理由に下世話な好奇心はある。

 彼は現在公立高校の午後部に通っているという。試験で取る点数に問題が一切なくとも、内申書の出席日数はどうにもならなかったそうだ。


「でも俺、高校3年で卒業できるみたいで」


 バスケをした日、公園のベンチで缶ジュースを弄びながら真咲が言った。


「通ってるのって定時制の午後部だよね?」


 その場合4年で卒業と聞いたことがある。驚いて聞き返すと真咲は俺も驚いたんだけど、と言葉を続けた。


「1日フルで授業を週2くらい入れたら3年で卒業できるって、担任が。なんか実績とか誤魔化すためとは思うんだけど、短くなるならそれもいいかなって思った。

 大学とかも行きたいしさ。そのとき1人だけ同級生の年上って嫌じゃん」


 真咲は、せめてキャンパスライフは楽しみたいとヘラヘラ笑いながら言うのだった。

 そんなことを言っているが真咲の高校生活はそれなりに楽しいようで。スマホケースには少し前から複数人で撮った写真が挟まっているし、バイトに入ってきた4月と変わって今では肌も程よく焼けている。

 それはとても嬉しいことだけど、やはりその分どうして不登校なんてやっていたのか余計に不思議な気分だった。

 僕の放課後は2人の友人のどちらかと過ごして、最後に猫の写真を撮って終わる。

 我が家にはコタツという三毛猫がいる。ウチに来た当初は、アイスと呼んでいた。だが炬燵がお気に入りだったアイスは「炬燵から出て来い」と言われすぎた結果、どうしてか自分の名前をコタツと勘違いしたのだった。よく猫は自分の名前を「カワイイ」であると勘違いすると聞くが、コタツもそれと一緒だろう。

 コタツをダンボールや布切れを使って簡単な変装をさせ、その写真をインスタにあげる。中学の頃からのその趣味は、店の宣伝にもなってちょうどよかった。最近ではボードゲーム部──ではなくハンドメイド部で余った布切れを伊織から貰って写真に活用している。

 先週学校の近所のデパートで月1のセールがあり、僕と伊織は布切れセットを数点買った。主婦たちに揉まれた結果手に入ったのはなんとも微妙な柄ばかりで、その中で特に酷いものを僕は押し付けられた。その中で特に異彩を放っていたのは唐草模様の布だった。

 コタツを前に、僕は唐草模様の布のサイズを調整している。隣で黒画用紙を切っている真咲が顔をしかめた。


「糸、悪い。これガタガタになっちゃった」


 真咲は不安そうに黒画用紙をコタツの顔と見比べた。動物が好きな彼は、バイトの休憩中によくコタツの写真の手伝いをしてくれる。休憩時間を削ってしまうのは申し訳なかったけど、僕はこういう時間も嫌いじゃない。

 真咲が作ったコタツの髭飾りは確かに歪だったけど、僕の作っていた風呂敷もガタガタだからおあいこだ。


「ん、これくらいなら平気だよ。こっちも完成したから休憩終わる前に撮っちゃおっか」


 円い形の髭を付けて唐草模様の風呂敷を背負ったコタツをダンボールの中に入れる。いつもはそこで寛いでいるが、髭飾りがお気に召さないらしく不満そうな顔をしている。

 スマホを構えるとコタツはふいと顔を背けた。

 その姿を写真に収めて、店の広報用のアカウントを開く。


『ドロボウ確保』


 短い本文にハッシュタグをこれでもかというくらい載っけて投稿する。

 コタツは招き猫の役が得意で、写真をインスタに挙げるようになってから部活帰りの高校生たちなどがよく店に立ち寄るようになった。コタツ様様である。

 起きて学校に行って、伊織と駄弁って授業を受けて、部活や店の手伝いをしてコタツの写真を撮り、あとはゲームをして宿題をする。これがこの1ヶ月で出来上がった僕の新しい日常。大きなトラブルが起きたりしない平凡な日常。朝希のときみたいにそんな日常が急に大きく変わってしまうことを、僕は絶対に望まない。




 電車の窓に張り付いた無数の雨粒が窓から見える景色を歪ませる。その様子を呆けるように、ぼーっと眺めていた。

 傘は邪魔だし普段から天パ気味な髪の毛は余計にうねるし、雨の日は嫌いだ。先週買ったヘアーワックスで髪の毛と格闘してみたが結局上手く行かず、しかもそのせいで電車はいつものより1本遅かった。

 車内のモニターでは乗り換えの表示をしており、もう一方のモニターでは天気予報をやっていた。雨の日だから転倒には注意! なんてニコニコして言う天気予報のキャラクターに無性に腹が立つ。

 お前は太陽の形なんだかウニなんだかよくわからない髪型が固定だからいいだろうが、僕は今大変なんだ。お前も天パになってしまえ。

 なんて心の中で毒づいて、細く息を吐く。雨の日は最悪だ。気分も良くない。


 ──私は嫌いじゃないけどなぁ。


 絵の具の色を調整する朝希の姿が、窓の外を眺める彼女の横顔が、ふと蘇った。

 雨が嫌いだと愚痴る僕に、彼女が返した言葉だった。朝希は空の絵を描くのが好きで、その日は雨空を描いていた。灰色、あるいは白ともとれる雨空を、青と水色をベースにして不思議に塗っていた。朝希の絵は青色が多い。

 また視線を窓の外に移す。雲は灰色だった。そんな当たり前のことが、なんだかとても嫌だと思った。

 落ち込む気持ちと比例するように電車が減速した。車掌さんのアナウンスが聞こえて、もう降りないといけないことに思い至る。


 ピンポンピンポン。


 ドアが開くと同時に耳慣れた電子音が鳴った。ドア前に固まった集団に紛れて外へ出る。

 ホームに降りて階段のある方を向いた時、思わず息を飲んだ。

 外ハネじゃなくて内巻きの髪だけど。髪はそのまま下ろしはせず、ハーフアップにしてあるけど。ジャンパースカートじゃなくてセーラー服だけど。

 さっき電車で思い浮かべた横顔がそこにあった。

 朝希以外は目に付かなくて。自分の心音だけがバカに煩くて。時が止まった。比喩じゃなくて、そう思った。

 咄嗟に声をかけようとして、瞬間、肩に何かぶつかった。それでやっと人混みの中にいることを思い出す。

 サラリーマン風の男性が僕を追い抜きざまに舌打ちをした。この人にぶつかってしまったのだろう。僕は軽く頭を下げた。そして顔を元の高さに戻すと、朝希は雑踏の中に消えている。はず、だった。なのに。

 朝希は僕を見つめていた。その目は見開かれていて、驚いていることだけが辛うじてわかる。

 当たり前だ。驚いて当然だ。1か月前朝希に何をしたか、もう忘れたのか。突然知らない人に怒鳴られて怖かっただろう。その相手が同じホームにいるんだ。怖いだろう。

 朝希に背を向けて、反対側の階段に行こうとした時、


「……糸。優木糸!!」


 3年間聞き馴染んだ声が、僕の鼓膜を振動させた。──呼び止められた。

 振り返る。朝希と目が合う。足が勝手に動いて、朝希に近付く。僕に歩み寄ろうとした朝希が雑踏と反対方向に動いた時、誰かの傘や鞄が引っかかるかしたのだろう。階段の前にあった彼女の体は、後ろに大きく傾いた。


 ダメだ。それは、ダメだ。二度も落としてなるものか。


 思い切り腕を伸ばして朝希の手を掴みに行く。掌に触れようとした時、3月、手を振り払わられた時のことを思い出した。その時の朝希と目の前の朝希が突然重なる。

 気付けば僕の手は朝希の掌を避けて、手首を掴んでいた。そのまま体を僕の方に引き寄せて、勢い余って床に転がる。強く背中を打ち付けたせいで、低い呻き声が漏れた。


「うぅ……」


 その声に朝希が体を起こして、心配そうに細い眉を歪めた。


「ごめんなさい! 大丈夫ですか? 糸さん」


 よく知る声が聞き慣れない敬語で僕の鼓膜を震わした。そして瞬時に状況を理解する。朝希は何も思い出していない。


 ──あぁ。これ、無理なやつだ。


 思ったのが先だったが、走ったのが先だったか。僕は駅から逃げるようにして学校に向かった。傘は駅に忘れてきてしまって、学校に着いた頃にはびしょ濡れだった。それを見た伊織が驚きつつもタオルを貸してくれた。

 やっぱり雨の日は嫌いだ。




「糸ー。傘ないんでしょ? 相合傘する?」


 伊織が何やら英文が書かれたビニール傘を差し出す。

 雨の止まぬまま放課後が来てしまっていた。


「……ありがとう」


「んー」


 伊織は朝の僕を見て驚きはしていたけれど、特に何も聞かなかった。伊織は勢いだけで突っ込む性格ではあるけれど、妙に距離の詰め方が上手い。人を不快にさせないタイプだ。クラスの真ん中にいる訳ではないけれど、クラスのどのグループでも潜り込める。

 僕は伊織の傘を持って、伊織の左に並んだ。僕の方が伊織より背が高い。歩くと傘の狭さの不便さが際立ったけど、悪い気分ではなかった。

 しばらく歩いて、急に傘が軽くなった。右側に傾けた傘を肩で左側に押しながら歩いていた伊織が急に立ち止まったのだ。

 そしておもむろに校門を指差す。


「あれ、糸の傘じゃない?」


「え?」


 伊織に傍寄りながら人差し指の先を見ると、水色の傘を差した少女が目に止まった。セーラー服の少女は制服のデザインの違いから少し浮いて見えた。

 少女は緑色の傘を持っていて、それは間違いなく僕の傘だった。畳まれているので模様こそよく見えないが、あれは確かに2年前に僕が買ったスナフキンの傘だ。持ち手が独特なので見間違えるはずがないし、何より傘を持つ少女は朝希だった。

 わざわざ傘を届けに来たのか。

 息を吐いたような笑い声が口から漏れた。

 その様子を伊織が不思議そうに見つめる。


「あの制服近くの女子校だよね。姉弟とか?」


「いや、そういうのではないんだけど……」


「ふぅん」


 伊織が僕の手から傘を取った。そして瞳でどうする? と問いかける。

 思い出すのは病室の怯えたような目付き、振り払われた手、頭を下げる朝希の両親、僕に敬語で話しかける朝希。そして、今朝階段から呼び捨てで呼ばれたこと。

 何も気にならないと言ったら嘘になる。

 朝希の両親に罪悪感がないのかと訊かれたら、僕は首を横に振る。

 でもまた、あんな風に呼んでくれたらと思う自分がいる。

 そう思いあぐねいていた時、朝希がこちらに気がついた。小走りに近付いてくる。

 僕は、逃げなかった。逃げるなんて微塵も考えなかった。きっとこれが僕の答えだ。どうも僕は彼女に会わずはいれないらしい。そして僕は、卑怯な人間だ。それを朝希に選ばせるんだから。


「糸さん!」


 馴染みのある声で言われた言葉を咀嚼する。

 朝希がこう呼ぶことはわかっていた。だが実際に聞くとなかなか、キツい。


「ごめんなさい。できるだけ早く傘を届けたかったんですけど、学校わからなかったので調べてたら放課後になってしまって……」


 伏し目がちに話す彼女に違和感を覚える。いや、本当は目の前にいる朝希も朝希なのだから違和感を感じる僕の方がおかしいのだけど。


「わざわざありがとう」


 作り笑いを浮かべて愛想良く傘を受け取る。すると伊織が僕の隣から退いた。


「俺、先帰っとく」


 詮索はしないで僕らを2人きりにしてくれる。

 ──ありがとう。

 敢えて口には出さなかったけど、そんな気持ちに答えるみたいに伊織は1度だけこちらを振り向いて笑った。

 伊織がいなくなり2人だけになって、なんとなく気まずい空気が流れる。

 何か話さないと間が持ちそうにない。


「えっとさ──」

「あのっ!」


 焦って出だしが被る。余計に気まずい。


「すみません。ど、どうぞ」


 しどろもどろにそう言った朝希に感じるのはやはり違和感だった。記憶の中の朝希と全く重ならない態度。

 外見も僕の知る朝希とは違う箇所が多い。

 どうにも落ち着かない。


「朝希……は僕のこと、どれくらい知ってるの?」


 今朝の呼び捨てが気になって聞けば、朝希は僕の言葉に気まずそうに目を伏せた。


「実は全く覚えてなくて……。病室のこともつい先週まで忘れてたくらいで」


「そう……。

 えっ?」


 最後の言葉が妙に引っかかった。


「先週までってどういうこと?

 何かあったの?」


「そのことでお話があるんです」


 朝希は白い手提げカバンの中に手を突っ込む。。


「何か記憶を思い出すきっかけが見つかるんじゃないかって部屋の中整理してたら、見つけたんです」


 白色の中から差し出されたのは山吹色と黒色。いやに見覚えのある1冊のスケッチブックだった。

 手に取って表紙を撫でる。新品ではない。決して綺麗ではない。でも、何か心の中で芽吹くような感覚があった。傘を強く打ち付ける音の中で、どうしてか春を感じた。

 雨音がする。空気は暖かい。春特有の土埃みたいな匂いがする。

 五感が研ぎ澄まされた。


「開けてみたら──」


 表紙をめくる。

 ごわごわした白い紙の上を黒が駆け巡る。鉛筆の線が集まって形を成す。


「あなたの顔が、あったんです」


 スケッチブックには僕が描かれていた。

 震える指でページを繰る。

 何枚も何枚も。

 僕がいる。

 思い出す。あの部室を思い出す。部員が2人しかいないもんだからお互いの顔を描きまくった。埃臭い古い部室で何枚も。


「全部のページの隅に糸って書いてあるんです」


 朝希が指さしたところを見ると、確かに僕の名前があった。


「それで、この絵が病室で会った人だって気が付いて。今朝は駅で絵の人を見てしまったから驚いて、つい……」


「あぁ、それで」


 今朝のことにやっと合点がいった。あの呼び捨てはそういうことだったのか。


「あのっ!」


 朝希が真剣な面持ちで僕を見上げた。

 目が合う。目元のキラキラする粉末に目が行って、また寂しくなる。


「糸さん。私、記憶を取り戻したいんです。

 でも何も手がかりがなくて。手伝ってくれそうな人も思い出せなくて。

 そんなとき、あなたをこのスケッチブックで見つけたんです。わざわざ会いに来てくれた、あなたを。

 だから、お願いがあります」


 瞳が僕を射抜いた。


「私が私を思い出すのを、手伝ってほしいんです!」


 呼吸を、忘れた。全身の白血球やら赤血球やらが止まった。そんな錯覚をした。

 条件反射的に頷きそうになってから、朝希の両親のことを思い出す。自分が今しようとしたことの意味も。

 僕はもしかしたら記憶を失くす程酷い出来事まで朝希に思い出させようとしているのかもしれない。

 僕は朝希を傷つけようとしているのかもしれない。


 それに。


 それに僕は、今の朝希と向き合うのが怖い。この僅かな時間ではっきりとわかった。僕の知る朝希とは違う彼女と居続けるのは辛い。

 朝希を見る。髪を巻いて、メイクをした朝希を見る。僕の知らない朝希を──


「クリスマスにヘアアイロン貰ったんだけどさ、校則違反したらすごい怒られるしなかなか使えないんだよね」


 そう愚痴る朝希の。


「これ見て。夏の新色。早くバイトして、こういうの買いたいな」


 そう雑誌を眺める朝希の。

 僕の知る朝希の延長線上に、今目の前にいる朝希を見る。


「……朝希」


 気が付けば呼びかけていた。

 雨音はうるさいままで、湿気がひどくて、僕は雨なんか嫌いで。

 でもきっと、目の前にいる彼女は。


「雨は、好き?」


 朝希はきょとんとして、


「はい!」


 大きく頷いた。




 日差しが強すぎる。暑い。

 文句でも言ってやろうかという気分で空を仰ぐと、澄んだ青が広がっていた。薄雲の抵抗虚しく、日光は遥か遠くの地球までばっちり届いている。

 異常気象。僕が嫌いな四字熟語の1つ。日本の四季はもうめちゃくちゃだ。

 目線を戻すと前を歩く女子生徒と目が合った。瞬間、相手は目を逸らす。

 この現象は今日で5回目。女子校の校門前で男子高校生が1人立っているのだから目立って当然か。

 ……さすがに恥ずかしい。

 早くこの場を離れたくて待ち人を探す。

 すると、昇降口からこっちに向かって駆けてくる女子生徒が目に止まった。


「ごめんなさい! 掃除が長引いちゃって」


 朝希が顔の前で手を合わせる。よほど急いだのだろう。肩が上下に浮き沈みしている。


「気にしないで。そっちこそ大丈夫? 肩で息してるけど」


「大丈夫。じゃあ、一緒に帰りましょう」


 僕らは曜日を決めて一緒に帰ることになった。中学の思い出話をしながら。

 僕の新しい日常が、また1つ増えた。

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君の世界の終わる日を✕✕ 叶本 翔 @Hemurokku

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