君の世界の終わる日を✕✕

叶本 翔

君は僕を忘れた

 『もう会えない』

 朝希の両親から出された答えは、静かに鼓膜を揺らした。それはとても残酷な答えだったが、とてもまともな答えでもあった。点滴を引く車輪のカラカラ鳴る音や他の病室から漏れてくる話し声が沈黙を埋める。

 何か言う代わりに頭を下げて、病院の廊下に背を向けた。その動作の意味を彼らは理解したようで、深く腰を折って姿が見えなくなるまで見送っていた。

 つい自嘲するように小さく笑う。それと同時に緊張が解けて、頬を涙が伝った。


 ──患者たちが大声を出して泣く制服姿の少年をロビーで見かけたのは、その日のことだった。




「いよいよ明日は卒業式です。みんなの受験も無事に終わって──」


 担任が話すのを生徒が静かに見守っている。いつもなら担任の話を遮らんとばかりに賑やかな教室だが、そろそろお別れとなると担任の話すら感慨深いらしかった。

 僕──優木糸の席は最後列窓側で、ここからは教室が見渡せる。3年1組。生徒数36人。縦横に6列ずつ机が並んでいる。右端の列に1席だけ空席がある以外は全て埋まっていた。出席者数35人。空席の合野口あいのぐち真咲は入学当初から不登校らしく、このクラスの出席番号1番はとうとう最後まで欠番だった。

 担任が語る"みんな"の中に、合野口は含まれているのだろうか。そもそも僕らは合野口を含めて"みんな"と認識したことはあったのか。

 そう考えると少しやり切れない気持ちになり、空席からそっと目を逸らした。

 担任は教壇の上でまだ話を続けている。


「この3年間はどんなものだったでしょうか。学歴とか興味分野とか関係なしに人が集まるのは後にも先にも──」


 担任の小野寺は緊張しいだが生徒に真剣に向き合うので、生徒からは人気があった。卒業式は明日だというのに、もう目が潤んでいる女子生徒すらいる。

 若い女性というだけで舐められ、保護者や同僚の教師たちから厄介な絡まれ方をすることの多い彼女だが、その苦労はいつも笑顔の下に隠している。それも彼女が人気な理由だろう。

 その一方で僕は担任の話を他所に、窓から特別棟を眺めていた。別に担任のことが嫌いなわけでも、集団生活に難がある訳でもない。進路相談を親身に受けてくれた小野寺には感謝しているし、運動ができないなりに体育祭は楽しんだ。しかしただ1点、気がかりなことがある。

 今日の放課後に、特別棟3階の美術室で待ち合わせをしていた。呼び出したのは僕の方で、相手はどんな要件なのかも要領を得ていない。

 わかった。誘いにそんな短いメッセージを送りながらも、相手はスマホの前で眉をひそめていただろう。

 僕は1週間前から脳内で繰り返しシミュレーションした言葉をまた反芻する。不安と期待が交互に膨らんでは萎んだ。


「みんなの中学生活が後悔のないものであったことを、願っています」


 小野寺の話も終わり、一瞬だけ教室が静まりかえる。そしてすぐにパチパチと乾いた音が鳴った。野球部の磯山だ。それに続いてクラス全体が小野寺に拍手を送る。数発程度の音が、数百発の音になり、そして教室を包む1つの大きな塊になる。

 僕は教室の隅で決意を固めながら、力強く手を鳴らした。




 顎の辺りで整えた茶色い細い髪。その日の気分で付け替えるカラフルなピン留め。丸く大きな瞳に、表情を変えるたびに大袈裟に動く細い眉。

 僕が半田朝希の姿を写真もなしにここまで明確に思い出せるのは、僕らが美術部員であることに起因する。

 この中学校の美術部は幽霊部員が極端に多い。高校受験には内申書がそれなりにものを言う。成績の良い生徒から見た内申点は競争相手と僅かな差を作るだけでそこまで大きな存在ではないが、成績の悪い生徒や不登校、素行の悪い生徒にとっては違う。

 成績表で2なんて取った日には単願の推薦すら取れなくなるし、そもそも受験に応募できないなんてこともある。成績が低いだけだったら教師からの慈悲で内申点も貰えるが、授業に出なければそうもいかない。

 無理にでも内申点を上げるにはどうすべきか。悩んだ教師たちが編み出した苦肉の策は、生徒を3年間何らかの部活に所属させることだった。

 その時白羽の矢が立ったのが、当時部員減少から廃部危機にまで陥っていた美術部である。

 不登校児は学校にすら来ないし、素行不良の生徒も部活に大人しく参加するはずがない。彼らは全員幽霊部員となった。そういった経緯で美術部は荒んだ部活として噂になり、部員の減少傾向には拍車がかかった。

 ちなみに美術部顧問は職員室で最も立場の弱い教師がやるのが慣例であり、僕らの代では美術科担当ですらない英語科担当の小野寺が務めていた。部員が荒れていても仕事内容はほぼないため、他部活顧問と兼任であることも慣例になっている。

 地元小学校から進学してくる生徒は、このことを親兄弟友人伝手に聞いているため入部することはない。


 僕と半田朝希は転校生だった。


 僕は入学式の3日前、ほろ酔い状態のバイクに撥ねられ左足首を骨折した。怪我の回復が運動部の仮入部期間に間に合わないことがわかり、熱心にやっていたスポーツがある訳でもないので文化部に入部することにした。この中学校の文化部は吹奏楽部、家庭科部、美術部の3つ。吹奏楽部はマーチングの行進に青春をかけており、練習が炎天下でも氷点下でも構わないという。家庭科部は単純に女子生徒しかいない。消去法で美術部入部を決定した。

 何も知らない僕が部活で出会ったのが、半田朝希だった。

 朝希はこの町の出身である。小学3年生の頃に親の都合で引越し、中学入学と同時にこの町に戻ってきた。加えて性格も明るく、交友関係はそれなりに広かったのだが、中学校の情報は何も持っていなかったので美術部に入部してしまった。友だちが多いことが、逆に誰かが既に美術部の件は教えたという共通認識を生んでしまったらしかった。

 もし幽霊部員を除いた部員がどちらか1人だけだったら、僕も朝希も退部していたかもしれない。

 しかし転校生ということもありまだ馴染みきれていなかった僕らにとって、誰かととりとめのないことを話しながら絵を描く時間は大切なものだった。

 窓から学校の駐車場が見えるだけの寂れた美術室で過ごした日々は、紛れもなく青春と呼ばれるものだった。

 僕と朝希は3年間で互いの姿を、何枚もの紙の上に表した。他に部員がいないため人物画を描くときには互いを描くしかなかったのもあるが、理由がそれだけではないことを僕は自覚していた。

 僕は勇気の出し方もわからず、この脆い関係を3年間ずっと大事に抱えてきた。

 想いを伝える気がなかったわけではない。体育祭、文化祭、修学旅行、部活で一緒に出かけた日。イベント毎にどうしようか悩んだ。それどころか毎日美術室で顔を合わせるたびに迷っていた。だが肝心の勇気が、決意に釣り合いそうになかった。

 しかしその後回しも、ついに明日で使えなくなる。

 特別棟の階段を上り、また脳内でシミュレーションをする。

 美術室の扉の前で軽く息を整える。舌も喉も乾いていて、吸い込んだ息がやけに痛かった。

 ガラリ。

 年季の入った引き戸が大きな音を立てた。

 次の瞬間、中から飛び出してきた少女にぶつかり体勢を崩す。

 首だけ動かし少女の姿を目で追った。教師に怒られない程度に折ったスカート、明るい色の髪、見覚えのある絵の具の汚れが付いた上履き。


 半田朝希だ。


 体勢を直して迷わず後を追う。朝希が廊下の端に行き着く前に、朝希を捕まえることができた。


「どうしたの」


 ぜえぜえと荒い息継ぎからどうにか声を絞り出し、朝希に尋ねる。朝希は前を見たまま振り返らない。

 思わず掴んだ手に力が入った。


「何があった」


「……痛い。離して」


 朝希は掴まれた右手を必死に振るが、力を緩める気はなかった。


「離してよ」


 駄々をこねる子どもがするように朝希が大きく首を振った。語気は先程より強まっている。

 無意識の内に掴む力が弱まる。

 その時、まるで見計らっていたかのように朝希が振り返るように体をひねり、右腕を素早く振り上げた。僕は手を振りほどかれたことに目を瞬かせる。

 そのまま逃げるようにして去った朝希を追いかけることもできずに、その様子をただ廊下に立って眺めていた。

 壁にもたれるようにしてその場に座り込むと尻がやけに冷たかったが、そんなことはどうでもよかった。

 つい数秒前の朝希の表情を思い返す。歪んだ眉にうっすら赤い瞳、何かを堪えるように微かに震えていた唇。今にも泣き出しそうだった。

 そのまま美術室に戻り部屋を見渡してみたが何かいつもと違うようなこともなく、途方に暮れた僕は遠回りをしながら無駄にゆっくりと歩いて帰った。




 脚の低い机。親の趣味の観葉植物。パンの香ばしい匂いが立ち込めるリビングで、電気ケトルがシューと鳴る。

 弥生さんはお湯でコーンポタージュの素を溶かすとマグカップを糸の席に置いた。


「……ありがとうございます」


 我が家は父、母、息子の僕の3人家族である。両親が和食料理屋を経営することで生計を立てており、弥生さんはうちでバイトをしている大学院生だ。苗字は藤堂という。

 弥生さんは立ったまま僕の皿を覗き込んだ。


「糸くん元気ない? いつもより全然食べてないけど」


 弥生さんは意外と鋭いところがある。僕は笑って返した。


「まさか。そんなことないですよ」


「そう? あ、わかった。卒業式だから緊張してるんだ」


「そんなとこ、ですかね」


 誤魔化すためにコーンポタージュを一気に飲む。どろりとしたその液体は舌にヒリつきをもたらした。どうやら火傷したらしい。舌で口内を舐めると、舌が少しばかりざらついているような気がした。


「卒業式か。懐かしいなぁ」


 一方で弥生さんは感慨にふけっていた。彼女が我が家で食事をすることは少なくない。仕込みに時間がかかるときなどは、よく朝ごはんを一緒に食べていた。

 コート掛けの脇に置かれた弥生さんのバックには、家電量販店で値切るに値切った高性能カメラが入っている。今月で5年に及ぶバイトを辞める弥生さんは、今日の卒業式に両親と一緒に出席予定だ。

 彼女は優木家と家族同然の付き合いをしており、絵を描いたこともないのに美術部に入部してしまった僕に絵を教えたのも弥生さんである。特に優木木葉──僕の母親は店の引越しにすら付いてきて来てくれた彼女に特殊な情を抱いていた。


「「ごちそうさまでした」」


 弥生さんとほぼ同時に手を合わせる。卒業式に制服を汚す訳にはいかないという理由で、弥生さんは皿洗いをしようとした僕を席に戻らせた。

 僕はまた、昨日のことを思い出していた。放課後からずっと朝希のことが気がかりだったのだが、気まずさから連絡を取れていなかった。


 ──もしかしたら、自分が何かしてしまったのではないか。

 ──朝希はこちらの気持ちにはっきりと拒絶しようとしたのではないか。


 逡巡。後悔。瞑想。後悔。回想。後悔。

 同じような結論に何度もたどり着くのに疲れ、長いため息が口から漏れる。

 窓の外では風に煽られ梅の木が揺れていた。

 そうだ。外に出よう。また遠回りでもして歩けば、多少は気が紛れるはずだ。

 そう思い立って、壁にかかった丸い時計に目をやる。時間は7時10分。家から学校までは徒歩15分。遠回りしても30分とかからないだろう。7時半過ぎに学校に着いてしまうのは早すぎるかもしれないが、気を紛らわせることが優先だった。

 卒業式ということで荷物は何もなく、筆箱と校則違反のスマホだけを入れた通学カバンを背負って家を出る。

 両親は着慣れないスーツを着込むのに手間取っているようで、弥生さんだけが玄関先から僕を見送った。弥生さんは就活用も兼ねて入学式の際に買った濃紺のリクルートスーツを着ている。胸元にはレース生地の大きなリボンがあしらわれていた。

 春の陽射しは暖かかったが3月上旬の空気はまだ冷たく、吐き出した息は白い靄となって瞬く間に消えた。

 三寒四温。朝の情報番組で気象予報士がそう言っていたのを思い出す。その気象予報士はモデル上がりらしく、ティーンモデルから気象予報士への突然の転身に一時期クラスの男子が騒然とした。僕も貰ったブロマイドを捨てきれずにいたのだった。

 誰から貰ったんだっけ。

 記憶を探るように空を仰ぐ。雲一つない空の上で、カラスらしき鳥が2羽ほど飛んでいた。

 そうだ。朝希から貰ったのだ。

 納得して前を向き直る。サクラちゃんと呼ばれるその気象予報士がモデル時代に担当していた雑誌を、朝希は毎月買っていた。

 あれは確か2年の夏。要らないという至極単純な理由で僕は付録のブロマイドを譲り受けた。朝希は夏の水着特集を恋い焦がれるような面持ちで眺めていた。


「そんなに欲しいなら買えばいいのに」


 何の気なしにブロマイドを見つめながら言うと、朝希は不機嫌そうに顔をしかめた。


「糸は簡単に言うけどさ。高いの。お小遣いだって遊びに行く他に画材に消えるからなかなか貯まらないし。

 それにみんなと出かけるときはショッピングモールとかが多くて、プールなんて行かないし」


「じゃあ──」


 ──僕と行こうよ。


 下心なしに出た言葉だったが、さすがに気恥ずかしくなりその言葉は飲み込んだ。


「……退部でもする?」


 この強引な誤魔化しの後、画材費が浮くと付け加えたら雑誌で頭を叩かれた。

 ……思い出せる。朝希に関することなら、どんなことだって鮮明に思い出せる。

 その自負があるからこそ、朝希にあんな態度を取られた理由が思い当たらないことのダメージは大きかった。

 一方的な下心が不快だった。

 その可能性も考えてみたが、だとしたらそもそも美術室に来なければいいだけだ。それにこの可能性については昨夜どころか3年間毎夜ベッドの中で散々考えていたため、これ以上掘り下げる気にはなれなかった。

 横断歩道で立ち止まり、車が来ていないことを確認する。歩行者用信号は赤だったが、これくらい問題ないだろう。信号を無視して横断歩道を渡った。

 5分程歩くと校門が見えてくる。校門の脇には白くて大きな看板のようなものが飾られている。『卒業式』とだけ墨で書かれており、リボンで作られた赤い花が飾られていた。

 顔を上げてみると桜の木が目に入った。2つ3つほどの蕾が開いており、満開には程遠いが春が感じられた。淡い桃色は、まだ空の青とコントラストを作れるほどには強くなかった。

 ふと、朝希の顔が浮かぶ。

 大丈夫。今日会って話せばいい。なんであんな表情だったのか聞けばいい。もし僕がその理由だったときは、謝ろう。

 大丈夫。

 何度もそう言い聞かせて、僕は教室に向かった。




 ──おかしい。

 顔をしかめながらクラスメイトの卒業アルバムの白ページにメッセージを書く。

 今日、おそらく朝希は来ていない。

 卒業式の呼名のとき、朝希の返事は聞こえなかった。性格上無視や小声は考えられない。

 そこまで考えてはたと気付く。昨日の予行練習のとき、朝希の声がいやに小さかったことに。

 ちらりと黒板の上に目をやる。時計の針が指すのは11時30分。先ほど卒業式が終わり、30分ほど設けられていた休憩もそろそろ終わる。教室にいるようにと指示があったので、僕は朝希のクラスに行けないでいた。そもそも教室に漂うお別れムードから抜け出すのが難しい。

 さっさと抜け出してしまいたいというのが本音だった。今日の放課後、クラス会と称してクラスメイトたちと夕食をとることになっていたので別れを今惜しむ気にもならない。

 そのときガラリと乾いた音がして教室の扉が開いた。担任の小野寺が入ってきて最後のSHRが始まる。

 僕はそれを、秒針の動きを見つめるだけでやり過ごした。

 昨日伝えたいことをあらかた話していたせいか小野寺の話は存外短かったが、焦燥が収まることはなかった。

 SHRが終わってすぐに廊下に飛び出し、4組へと向かう。4組の担任は話が短いから、SHRはもう終わっているだろう。

 きっと朝希がいないなんて勘違いだ。

 そう期待を込めて扉を開くと、4組担任の鷲田と向かい合う形になった。ちょうど出ていくところだったらしい。

 鷲田は日に焼けた顔をこてんと傾ける。


「どうしたんだ、優木?

 誰か呼ぶか?」


「半田さんに会いに来たんですけど……」


 朝希の名前を言ったときに鷲田がその太い眉をひそめた。

 瞬間、悪寒が走った。

 嫌な予感は昨日からずっとある。でも、それは僕の中にあるだけのもので、他者から立証されていなかった。立証されなければ予感は予感のままだ。だからどうか、この悪寒は外れてくれ。

 目の前にいる中年教師に望む。お願いだから、今すぐ振り向いて朝希のことを呼び出してくれ。

 鷲田は僕を見たまま低いうめき声をあげた。


「そうか、そりゃ何も知らないか……」


 その呟きに鼓動が速くなるのを感じた。


「半田は昨日の放課後、病院に搬送された。陸橋から転落したとかで……」


 ──え?


「ど、どうして」


「それが、わからないんだ。詳しい事情は知らないが、まだ半田から話を聞けてないらしくて……」


 頭の中が真っ白になった。鷲田が何やら言葉を続けているような気がしたが、その言葉すら処理できなくなっている。

 昨日の放課後。僕が朝希と会ってから、朝希は怪我をした。あの後に何かあったのか。

 いや、違う。

 昨日の朝希が目に浮かんだ。

 僕と会う前に何かあって、それが原因で、朝希は卒業式にも出れないで今病室にいる。そして、最低でもちゃんと話せる状態にはない。


「おい、しっかりしろ」


 低い声が頭上から落ちてきて、見上げると鷲田と目が合った。その時初めて、自分が足元を見つめ続けていたことに気が付く。

 目の前の教師はシワのある目を細めて紙切れを差し出した。紙には文字と数字が書いてあったのが、かろうじてわかった。


「病院の住所と病室番号。会ってこい」


 『会ってこい』。

 行ってこいじゃなくて、会ってこい。鷲田は確かにそう言った。その言葉を選んだ。

 その事実に背中を押されたような気になって、僕は走り出した。




 40分走り通して、やっと病院に着いた。さすがに病院の廊下を走るのは躊躇われたので早歩きに切替える。

 病室のプレートの数字を横目で確認する。慣れない病院に道を迷い、何回か角を曲がって目当ての部屋に辿り着く頃には鷲田から貰った紙は手汗でぐしょぐしょになっていた。あまり自覚のなかった緊張が可視化されて、落ち着いてきたはずの呼吸がまた少し荒くなる。

 病室にはベッドが4つあり、奥のベッドにだけ薄緑色のカーテンがかかっている。他3つのベッドには知らない女性がいたので、奥のベッドが朝希のだろう。

 カーテンを開けるとベッドの上に少女がいた。窓の方を向いていて後ろ姿しか見えないが、誰だかわかる。

 カーテンの音に、包帯を頭に巻いた少女が振り向いた。それに合わせて細く茶色い髪が微かに揺れる。3年通して見慣れた瞳が僕を写した。そして、細い眉が訝しむかのように歪んだ。

 昨日のことが頭をよぎった。


「あ……ごめん、突然来て。鷲田先生から病院にいるって聞いたから」


 言葉を区切って様子を伺ってみるが、朝希は何も話さない。

 怒ってるんじゃないかと焦って、無計画のまま言葉を繋いだ。


「昨日はごめん。ただ、あの、本当に申し訳ないんだけど、なんで怒ってんのか全然わかってなくて。だから──」


 朝希が唇を開いた。


「すみません。誰ですか?」


「……は?」


 声が耳に届いて、脳で理解して、心で感じて、そして体から熱が引いた。


「何、言ってんの」


 零れた声は自分でも驚くほど震えていた。


「ごめんなさい。どこかで会いましたか?」


 ──まだ半田から話を聞けてないらしい。

 この状況と鷲田の言葉の意味することは何だ?


「いや、どこでも何も僕だよ僕。優木糸」


 僕は笑った。そしたらきっと、朝希もつられて笑ってくれるはずだ。それで、ドッキリだのなんだの言って、僕をからかうんだ。そのはずだ。

 朝希は表情を変えずに首を傾げた。


「優木さん?」


 出会ったときの朝希を思い出した。自己紹介をして、彼女は僕を優木くんと呼んだ。しばらくして僕らは名前で呼び合うようになった。

 朝希が僕を優木さんだなんて呼んだのは、これが初めてだった。

 怯えたように朝希の瞳が揺らぐ。

 ほとんど無意識に、僕は朝希の肩を掴んでいた。


「朝希、これ冗談でしょ。僕が怒らせて、その仕返しか何かなんでしょ!?」


 他の患者たちが突然のことにどよめく。


「何か怒らせたなら謝るから、原因は直すから、だから──」


 ──また、名前で呼んで。

 それを朝希の声が遮った。


「離してください。痛いっ……」


 同じようなことを、昨日言われたばかりだった。

 怯えて背中を丸める少女を見つめる。髪も輪郭も瞳も全て、朝希と同じだった。彼女は半田朝希のはずだった。そのはず、なのに。

 次の瞬間、僕の体は吹っ飛んだ。そのまま棚に肩からぶつかる。

 朝希の方を見ると40代に見える男性が立っていて、腕を突き出していた。この人に飛ばされたのだと瞬時に理解する。

 男性は朝希に向き直りもせず、威嚇するようにこちらを見つめている。その後男性と同い年くらいの女性と数人の看護師たちが入ってきて、看護師と男性で僕を床に組み伏した。女性は朝希の傍から離れなかった。

 病院までの道のりで体力を使い果たしていたためまともな抵抗はできず、僕は外へと連れて行かれた。

 朝希の怯えた目が警戒するように僕を追っていたのが、無性に辛かった。




 僕を突き飛ばした男性と朝希の傍を離れなかった女性は朝希の両親だった。正常に機能しない頭でさっきのことを必死に謝ると、2人は朝希のことを教えてくれた。

 朝希は昨日陸橋から転落した際頭を打ち、記憶を失ってしまっていたらしかった。まだ詳しいことはわからないが小4くらいまでの記憶しかないそうだ。知識や一般常識が抜けていなかったのが、せめてもの救いだった。

 朝希の母親は言葉を続ける。


「幸い進学予定の高校は同じ中学から進学する人もいないので、学校生活に支障は来さないでしょう。

 私たちはあの子ができる限り傷つかないように、ゆっくり記憶喪失と向き合うことを望んでいます」


 母親は僕と目を合わせてから直角に腰を折った。


「優木さん、お願いがあります。今後あの子と会わず、連絡も取らず過ごしてほしいんです」


 ──え?

 今、この人は何と言った。


「お医者様から言われたんです。あの子は頭を打った衝撃と強い精神的ストレスで記憶喪失になったかもしれない、と。

 警察からは朝希は陸橋から突き落とされた可能性が高いと言われました。……もしそれが本当なら、とても怖い思いをしたでしょう。

 記憶を失ってしまうほどのことです。私たちとしては無理に思い出させたくありません。

 急な記憶回復なんて以ての外です。

 もしもあなたと会うことで朝希が記憶を取り戻し突き飛ばされたときの恐怖に怯えたらと思うと、耐えられません。

 だからどうか、あの子のためにも会わないようにしてほしいのです」


 隣で黙って聞いていた父親も、気が付いたら頭を下げていた。


「辛いのはわかります。ですが、娘のためにも、どうか」


 そんなの勝手だ。

 そう思ってから、勝手なのは自分の方だと気が付いた。

 朝希のことを何も考えずにここに来た。忘れられていたのはショックだったが、記憶がない朝希の方が辛かったろう。怖かったろう。今1番辛いのは朝希だろう。そして、今目の前にいるこの人たちも、辛いはずだ。

 病院から僕をつまみ出すことだってできた。警察だって、呼ぼうと思えば呼べただろう。そもそも僕にこんなこと頼まず、早々に出禁にすることだってできる。その上で、僕に納得してもらうことを選んだ。この人たちは、きっと優しい。


 でも。自己満足がまた顔を出した。


 僕はきっと納得いかない。朝希と直接話すまでは納得できない。だって、僕らは──。僕らは。僕らは、何だ?

 僕らは、同級生で、美術部員で……。

 クラスだって違う。出身だって違う。同じ部活というだけで、友だちだとか恋人だとかの特別な間柄でもない。

 そんな僕に、これ以上こんなわがままを続ける資格はあるのだろうか。

 僕は一礼して、廊下を去った。

 それを見た朝希の両親は頭を上げたが、再度深く腰を折って僕を見送った。

 ロビーに向かう廊下の途中でどうやって帰ろう、とどうでもいいことを考える。家まで歩きだとそれなりに時間がかかるがお金はないし、走る気にもなれない。荷物を学校に置いてきたままなので学校にも寄らなければならない。ため息が漏れた。

 どことなく無気力なまま、もしもの世界を空想する。もし僕らが友だちとか、恋人とか、名前のある関係だったなら、彼女と会う権利もあっただろうか。名前のない関係に甘えた放課後の僕を少しだけ、本当に少しだけ恨んだ。

 廊下の窓から射し込む春の陽射しは暖かかった。

 突き飛ばされて棚にぶつけた肩は痛かった。腕も頭も痛かった。

 ロビーに出ると人がいた。そしてその内の何人かは面会カードに名前を書いている。

 僕とは違って面会の権利がある人が、こんなにいる。どうしてこんなにも、ままならない。

 思わず小さく笑う。別に堪えていた訳でもないのに、頬を涙が伝った。


「うぅ……」


 低い声が漏れていた。それを抑えるように手を口元にやったが、声はますます大きくなった。

 ロビーの窓からの陽射しは僕のところまで届いてはいなくて暖かくもなく、薄寒く、ただ痛かった。体が痛かった。何より心が痛かった。

 泣いた。人目も弁えず泣いた。

 しばらくして落ち着いてから帰路に着いた。学校に寄って帰宅した頃には夕方近くなっていた。何をする気も起きなくて、適当な言い訳をしてクラス会を休む。少し気が楽になって、そのまま寝た。




 これが約2ヶ月前のことである。

 僕はもう高校生になっていた。

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