第41話 確保
女の名前は何というのか分からない。俺が問いかけても一切言葉を発してくれないし、そもそもこの世界に言語というものがあるのかさえ分からない。だが、それは問題ではなかった。女が話さないなら俺も話さない。言葉で互いの背景にあるものを探り合う必要はなかった。ただ一日中一緒にいて、遊んで日々を暮らせれば、それでよかった。
気づけば肌を擦り付ける求愛行動も俺にうつっていた。いつもなら異性と付き合う時は決してそんな四六時中公然とベタベタするようなことはないのだが、この世界に来てから俺は変わったようだ。知らぬ間に変わったのか、心のどこかで「変わってしまいたい」と思ったのか……。ともかく、俺と女は常に体のどこかが触れ合っていないと気が済まなかった。
深い青空に新しい太陽が昇った。
女は朝起きると、俺の手を引いて歩き始めた。俺をどこかへ案内したいようだ。
女が立ち止まって指さした先には、大きな緑の丘が見えた。緩いカーブを描いた三角の丘で、なだらかな山のようにも見える。周囲の濃い緑の野原から陸続きになっている丘の頂上部分からは、噴水のように水が溢れ出ていた。俺はその美しさを、寝起きの顔に冷や水を浴びせられたような驚きをもって見つめた。
持ち上げられた水が柔らかい地面に落ちて次々とはぜる音が聞こえる。
とうとうと流れてくる水で常に濡れている緑の斜面を、俺と女は手を繋ぎながら登って行った。整然と弧を描いて流れる大量の水が、滝のように下に流れ落ちることでできた「水の壁」に触れられそうなところまで来た。その刹那、そこに映ったものを見て、俺はひどく驚いた。
最初、何が映ったのか分からなかった。見知らぬ全裸の男が突如目の前に現れたのかと思った。しかし、そこに写った「露わな人間」は紛れもなく自分だった。ボサボサに乱れた髪と、口まわりを真っ黒に覆う髭、全身の傷の跡。水が”澄みすぎている”がゆえに毛穴の一つひとつまで精細に見える「水の壁」の前に立っているのは、隠すべきところを日の下に堂々とさらけ出して、同じ全裸姿の女と並んで仁王立ちしている自分だった。そこで俺は元々いた世界を離れて初めて「時間の経過」というものをはっきり認識した。
驚きのあまり微動だにできなくなっている俺をよそに、女は、目前に際限なく落ちてくる水の流れに指先をつけた。そして、その濡れた指先で自らの額に触れた。
すると、目の前の透明な壁に、何か絵のようなものが浮かび上がった。というより、それはあまりに精密に正確に描かれているので、超高画質なテレビのように、すぐそこに”それ”が浮かんでいるように見えた。
緑豊かな惑星。地球よりもはるかに濃い緑と青で覆われており、美しく活気を感じる。見るからに理想郷の雰囲気を帯びていた。俺は直観して、「この世界だ」と思った。
次に宇宙空間が浮かび上がった。その黒い空間には、いくつかの惑星らしきものが円形をなして輝いていた。
女は振り返って俺に目で合図をした。
俺は女にならって指を「水の壁」で濡らし、自分の額に塗りつけた。すると澄み切った壁面には、俺が生まれ育った”本当の”世界が映った。地球の青と白と茶が懐かしく感じた。
俺の郷愁に合わせて絵は次々と知っている世界を映し出した。……どうやら、この「水の壁」は、近づく者の心に浮かんだ”世界”を映し出すようだ。
そこで俺は、とあることを思いついた。脈拍は高まり、有頂天になった。
しかし、振り返って女を見たとき、「水の壁」を見つめていたその顔はなぜか曇っていた。
夜になり、月の代わりに満天の星が空に満ち、森の合間の闇も深まった時、俺は柔らかい草のベッドから身を起こし、隣で寝息を立てる女に気づかれないように、あの緑の丘へと歩いた。
――俺は再び「水の壁」の中に指を差し入れた。水は冷たくて気持ちが良かった。その指先で、額に触れた。
そして俺は……頭の中で、カレンの美しい顔を出来るだけ正確に描いた。
生の重みを漂わせた黒髪、他者への愛のために見開かれた瞳、愛らしい緩やかな曲線を描いた頬、何度も誘いこまれた紅く潤んだ唇……。自分の頭に、心に、生きている幾多のカレンの映像を集めて、そのすべての時を止め、出来る限り一番美しい肖像画になるよう努めた。
瞬く間に「水の壁」は答えた。しかし、そこに映ったものを見て俺は叫びだしそうになった。忘れかけていた絶望が底から蘇った。
俺がいくつか想像していたうちの最悪の現実の一つが、そこには映し出されていた。
身に覚えのある陰気な黒いフード。それを両手で後ろへとやり、おぼろげな炎の明かりの中で明らかになった顔は、まぎれもなくカレンだった。だが、その顔は俺が懸命に呼び起こした顔とはまるで違っていた。目元は恐怖と孤独のために光を失い、生気が枯れた肌の色は陰と境目が分かりにくくなり、ところどころに精神的苦痛の跡を刻み込んだかのような深い皺があった。
わななく両手は無意識のうちに「水の壁」に伸びていた。水面を貫き、そこに映るカレンの顔に触れようとした……。
その瞬間、鏡のように清らかな壁は弾け、目の前で激しく飛沫をあげた。
顔面を覆う飛沫の中から、突如として黒い腕が現れた。
俺の心臓は跳ね上がり、咄嗟に身を引こうとしたが、すでに遅かった。その闇夜に紛れた黒い腕は俺の両腕を掴み、抗いようのないほど強い力で引っ張った。
「水の壁」に全身を打ち付けられて水浸しになった俺は、気づけば浅い水たまりの中に頬をつけて倒れていた。
その水面には、昼の明るさが映っていた。
俺は震えながら見上げた。
捲り上げた白いシャツを直している見知らぬ男が俺を見ていた。
……その隣を見て、俺はすべてを察した。
全身を黒いスーツで包み、茶色い髪を肩まで伸ばした女もまた、俺を見下ろしていた。彼女の胸元では、星に乗った蛇の一つ目が俺を見据えていた。その見覚えのある金色の輝きを見て、俺の体は硬直した。
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