第42話 エウニル

「やーっと捕まえた」

 突如現れた男は、黒いジャケットを羽織りながらそう言った。

「見つけるの大変でしたね」

「だから言ったろ? 俺が付いて行った方がいいって」

 俺は自分の体が冷たい水たまりに浸されているのを感じながら男と女が話しているのを聞いた。動揺と恐怖で身じろぎ一つ出来なかった。

 予想していたことがついに起こったのだ、とおぼろげな意識の中で理解した。

 「困るよキミ」やけに肌が清潔な感じのする男は、俺の前で身をかがめながら言った。「あちこち荒らしてくれちゃってー。キミの尻ぬぐいするの、俺たちなんだからなー?」

 彼は闇のように黒いスラックスのポケットから何かを取り出した。これもまた、黒く、光沢のある板。スマートフォンに酷似している。彼はそれに何度か触れ、誰かと通話し始めた。

 話し終わった後、彼は再び俺に向き直り、「ちょっとうちの上司が話があるらしいから、一緒に来てもらえる?」と言うや否や、返答を待たずに俺の肩に手を置いた。依然として絶句したままの俺に構わず、男はまたスマホ状の板に触れた。

 瞬きの間に、世界は変わっていた。

 俺は円筒状の広い部屋の中央にいた。水浸しになっていた体は、いまでは固い金属の床の上にあった。あたりは、眩いほどの無機質な清潔感に満ちていた

 男は脇を抱えて俺を立たせ、「丸出しでウロチョロすんの、おかしいだろ?」と言いながら俺の肩からバスタオルらしい柔らかいものをかけた。

 その時まで自分が裸であることをすっかり忘れていた。あられもない姿を、真横にいるスーツの女にもずっと見られていたのだと気づいたが、ふしぎと羞恥心は起こらなかった。

 彼らの着ている皺ひとつない完璧すぎるスーツ姿と、自分の姿を見比べて、自分がついさっきまでどこにいて、何をしていて、「何者だったのか」を思い出した。それは、いまの俺にとってはあまりに残酷な”過去”のように思えた。

 男と女は、俺を挟む形で歩き始めた。

 俺は呆然としたまま、ただ彼らの歩幅に合わせた。

 廊下を進むにつれて、俺の中でとある一つの考えが強まって行った。それにつれて俺は気持ちの悪さを感じ始めた。

 ここには、どこにも「自然」の匂いがしない。 

 文明の極致のようなここは、未来なのか、世界の裏側なのか、はたまた地底世界なのか……。

 どこであれ、俺はこれまで、いずれ自分がこうなることが分かっていたはずだ。血のように赤い空の下、カレンの手を引いて走り出した時から。

 すべてが「不可解」という素材で建てられたようなこの建築物の中に捕らわれたいま、俺の小さなわがままがどれだけ大きなものと繋がっていたのかを如実に理解した。

 廊下の曲がり角を曲がると、はるか遠くまで伸びる、一本の長い廊下が現れた。

 恐る恐る、俺は隣を歩く男に聞いた。その声は、緊張のためか、あるいは長らく「会話」していなかったせいか、自分でもはっきりわかるほど掠れていた。

「ここは……どこなんですか……?」

 男は女と目を見合わせた。そして彼は少し考えてから言った。

「規則で禁じられてるから、本当は教えちゃダメなんだけど」振り向いて俺の顔を見た。「キミは”彼女”に気に入られてるから、特別だぞ」

 その言葉は一瞬前までの深刻そうな雰囲気とは裏腹に、日常の出来事を話すように軽快だった。

「ここは<エウニル>。キミたちの世界を監視するところだ。――まぁ、厳密には、監視というより運営・管理だな。イメージとしては役所みたいなものに近い。俺は藤原ケン。彼女は中村ユイ」男は自分と隣の女を指して言った。「簡単に言うと、キミたちが毎日平和に暮らせるように見守ってるってわけ。だからキミたちのことはぜーんぶ知ってる」

 ――俺はその言葉に、”現実感”を感じるのに時間がかかっていた。

「そちらの世界に存在しているもので例えるなら」中村ユイと呼ばれる女が、男の言葉を継いで言った。

「ソフトウェア会社みたいなイメージですね。各世界を円滑に運営するためのソフトを作ってリリースしたり、バグが起きたらパッチをあてたりするようなものです」

 男は、事も無げに俺に向かっていった。「それで言うと、キミはバグなんだ。それも特大級の。だからここにいる。本当は人がこんなところに来ることなんてないんだぜ?」

「バグと言ってしまうと少し語弊があるので訂正すると、そういった、ソフトを稼働させている時に発生した『例外』を、我々は<異常体>と呼んでいます。<異常体>自体はそこまで珍しいものではありません。ここ最近は特に。ですが、今回起きたことは<異常体>の中でもさらに『例外』なことです。ミノルさん、あなたは無意識にいくつもの世界を渡りましたよね? 見てこられたのでもうお分かりでしょうが、世界というのは人が感知しているものだけが存在しているのではありません。つまり、世界は宇宙の星々のように数えきれないほどあるのです。あまりにたくさんあるので我々も正確な数は把握できていません。それら一つひとつの世界を、我々は<浮世>と呼んでいます」

 三人は、エレベーターに乗り込んだ。

「<浮世>は人の想念によって近づいたり遠ざかったりします。想念に従って一か所に集まると、ある方向へ向かって流れを作ります。その流れは一本の川のようになるため、これを<大河>と呼んでいます。<大河>は無数の<浮世>を飲み込み無限の可能性を内に孕みつつ流れていきます。この流れは蛇行を繰り返し、一つの大きな『形』を作り上げます。その『形』とは、渦です。螺旋と言ってもいいでしょう。人間世界の全ての可能性、全ての歴史、全ての時が、この立体的な渦の中に内蔵されており、その回転運動は天地創造の時から続いています。螺旋の始まりは頂点の一点。ピラミッドの最も高い一点から大きな流れは始まり、次第にその回転の輪は広がっていきます。その輪が最大に達した時、再び一点へ向かって渦は集束していきます。その形は外から見るとひし形であり、上向きのピラミッドと下向きのピラミッドを合わせたように見えます。これを<ルキフェルの渦>と呼び、実際に我々はいつもこれを基にして世界の全体像を把握しています。<ルキフェルの渦>は常にうねり、脈動しています。世界は、生きているのです。これがあなたたちが生きている世界の真相です。各々の<浮世>に生きている人間というのは、この世界の構造というものをほとんど知りません。なので、組織の一部には、もっと理解のある人間が増えてもいいのではと思っている人々もいます」

 エレベーターを降りた階では、自動でいくつもの扉が開閉し、せわしなく多くの人々が行き交っていた。隣の二人と同じようにみんな黒一色のスーツを着ていた。そんな中でも、時折、何人かは驚いた表情でこちらを見る人がいた。

 俺のいた世界で見るような、会社で忙しく働くサラリーマンたちの光景と何ら変わらない、と思った。

「話を元に戻しますが、ミノルさん、普通の人間はあなたのように<浮世>を股にかけるなんてことは出来ないのです。それは、各々の世界に固有の粒子が満たされていて秩序を保っているからです。なのに、あなたにはそれが出来た。――なぜそんなことが起こったのかは分かりません。これから、ここでそれを追求します」

 一際大きな扉が開き、先ほど見たスマートフォンのようなものを耳に当てながら男が出てきた。その一瞬の間にオフィスの内部が見えた。肌の黒い、パーマのかかった長い髪の黒人の女がおり、金髪を短く刈り込んだ長身の男もいる。

 今更ながら俺はあることに疑問を持った。

「ここは一体どこの国なのですか? 日本なのですか?」

「いや、ここは日本ではない。というより、そもそも国というものはここにはない。言うなれば一つの都市だけがある。おそらく、これはキミに理解するのは難しいだろう。例えるなら、ここは無限の世界という広大な海の上に浮かぶ小さな孤島だ。そこに国籍、人種関係なく、たくさんの人が集まって『全ての世界』のために働いてる」

 激流のような大量の情報に俺は押し流されそうになってきた。

「ここも<浮世>の内の一つなのですか?」

「いや、違う。ここは数字で言えばゼロの地点。<浮世>とは異なる場所にある。だから<浮世>で流れてる「時間」というものはない。……一つ次元が上なんだ。……五次元ってところかな。あの世とか霊界って呼ばれる世界に近い。だからいま俺は物質的なキミではなく、霊体のキミと話してる。ここに肉体は持ち込めないからね。俺たちもそう」

 俺は鳥肌の立った自分の体を恐る恐る触れてみた。いつもと何も変わらない感触。これが、霊体……? 

 強いて言うなら、見たところ、普段より肌のきめが細かくて、なんだか内側から光っているような感じがする……。

「びっくりだろうな」困惑のために黙り込んで床を見つめている俺の顔を見て、男は笑った。

「だからといってキミはいま死んでるわけじゃないよ。肉体的な残像を残した霊的なキミの一部がここに来てるってだけだから」

「ちなみに、ここ<エウニル>にある機械の類も、これも」と言って女はポケットからスマートフォンに見える黒い板を取り出して掲げた。「我々の霊力を動力源として動いています。機械は、人に本来備わっている霊の力でも動くんですよ。幽霊が機械に反応したっていう話はよく聞きますよね? その根源的な力と繋がってるからこそ<浮世>をジャンプすることができるんです。――そちらの世界でも、この技術が早く見つかるといいですね」女はそう言って俺に軽く微笑んだ。

 激しい動揺の中で、俺はふと、宇宙飛行士が遠い惑星に降り立ち、宇宙人と初めて出会った時に感じるであろう”以上の”衝撃を感じているのではないかと思った。

「あなたたちは……神なんですか?」

 男と女は示し合わせたように同時に吹き出した。

「違うよ。あえて言うなら、神は今から会う人」男は笑いながらそう言ったが、本気なのか冗談なのか分からない言い方がまた俺を困惑させた。「ま、中には俺たちのような仕事をしてる奴らを、なにか神みたいな神聖な存在だと思う人間もいるだろう」

「宗教のイメージが根強いから仕方ないですけどね。神や天使といった存在は、現実はもっと人間っぽいんです。御覧の通り、羽も生えてないですし、見た目もそんなにあなたたちと変わらないでしょう? ご飯も食べますし、睡眠もとりますし、仕事がお休みの日はショッピングにも行きますし」

「恋愛もするしね。実際、この子にデートを誘ってるけどフラれ続けてるし」

 男はそう言ってまた笑った。

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